アニメ

愛の飛躍

事実という言葉ほど、われわれを欺く言葉はない。何か出来事が起こったとしても、それは、何かが起こったというだけであって、それ以上の意味が予めそこにあるわけではない。意味づけは常に事後的に行なわれる。そして、その意味づけは、絶えず、更新され続…

なぜ闘わなければならないのか?

なぜ闘わなければならないのか? この問いが、いつの頃からか、巨大ロボットものや格闘ものといった、少年向けのマンガやアニメで問題にされ出した(昨年公開された特撮映画『新造人間キャシャーン』で、この問いが無意味に強調されていたことを思い出してほ…

日本アニメのノスタルジックな風景

ノスタルジー。この感情と日本のアニメーションとは密接な関係を持っているような気がする。ノスタルジーとは、故郷に想いを馳せることである。失われてしまったものを想起すること。過ぎ去ってしまった時間、消え去ってしまった風景を思い出すことである。 …

純愛から単性生殖へ

昨日は、純愛のことについて書いたので、今日もまた純愛の話を。 純愛の理想というのは、二人がお互いに支え合うことである。一方が他方に依存し、他方が一方に依存する。そのような循環的な相互関係を作り出すことにある。それが目指しているのは、相互承認…

君とならば行けるさ、あの虹の向こうに

近頃、様々なメディアにおいて、純愛ものがブームになっているようだが、アニメなどのサブカルチャーにおいても、もちろん、同様の傾向を見出すことができる。しかし、純愛とは言っても、そのアクセントの置きどころが他と少々異なる作品もある。つまり、純…

伝説からの堕落

前クールにTVで放送していたアニメ『BECK』をやっと見終わった。『BECK』は、基本的に、立身出世を描いた作品である。平凡な一中学生に過ぎなかった男の子が音楽(ロック)に目覚め、その才能と努力のおかげで、徐々に有名になっていくという話である。 立…

家族以上に家族的

現在グローバリゼーションなどの影響によって古くからあった地域の共同体が崩れてきているという話をよく聞くが、そうした社会状況は、様々なサブカルチャー作品にも影響を与えているように思える。現在TVで放送されているアニメ『まほらば』などは、まさ…

ディストピアからユートピアへ

今年の3月までNHK教育で再放送していたアニメ『十二国記』(をビデオ録画していたもの)をやっと見終えたので、その感想をちょっと書いてみたい。 この作品の根底に漂っている思いとは、「私のいるべき場所はここではない」というものである。「ここは私…

高橋留美子と地方性

オタク系のアニメを見ていると、そこにひとつの傾向を見出すことができる。それは、さえない男の子のところに突然美少女が押しかけてきて、非日常的なドタバタ騒ぎが始まる、というものだ。僕はこのタイプの作品を「押しかけ女房もの」と呼んでいる。そして…

二次創作としての『デスティニー』

今年、『機動戦士Zガンダム』の映画が公開される。そのためか、昨年から、東京MXTVなどの地方局で、『Zガンダム』が再放送されている。ちょうど時を同じくして、『機動戦士ガンダムSEED』の続編である『ガンダムSEEDデスティニー』のTV放送…

ロケットのある風景

いまNHK教育で再放送している『ふたつのスピカ』というアニメを毎週見ている(正確にはビデオに録画したものを見ていて、まだ2月に録画したものしか見ていない)。宇宙飛行士になることを目指す少女が主人公のSFファンタジーだ。 この作品を見ていて、…

アトムは誰に殺されたのか?

昨日は日本人の死の美学の話をしたので、今日も引き続き、それに関わる話を。 人はいかに死ぬべきか。このことは昔から、日本人にとっての課題だったように思える。別に日本人だけでなく、あらゆる人間にとっても課題であるだろうが、日本においてはそれがひ…

今日のスポ根もの

4月から新しく始まったアニメ『ガラスの仮面』を見ている。言わずと知れた、美内すずえのマンガが原作の作品だ。「なぜ今さら、このマンガをアニメに?」と最初はちょっと疑問に思ったが、しばらく見ていると、徐々に、この作品がなぜ今アニメ化されるのか…