日常生活は存在しない



 先週、最終回を迎えた『フタコイ オルタナティブ』について、感想を少し書いてみたい。


 まず、この作品に見出すことができるのは、現在のサブカルチャーが直面している混迷ぶりである。『フタコイ』は、大きく分けて、二つの側面から成り立っている作品である。ひとつは、旧来のサブカルチャーに見出すことができた大状況のパロディ的側面(その典型は悪の組織と正義の味方との闘いであるだろう)。もうひとつは、たんたんと続く日常生活を描いた小状況的側面である(特にそこで問題になるのは恋愛である)。これら二つの要素の分離と、その接合しがたさを描いたのが、まさに、『フタコイ』の功績であり、物語が未完結のまま投げ出されている点が、作品に一種のリアリティを与えている。


 この種のちぐはぐさ(物語の未消化ぶり)は、アニメ『舞-HiME』についても言えることである。『舞-HiME』において、小状況と大状況との分裂は、結局のところ、小状況を大状況に回収することによって、解決させてしまった。つまり、登場人物たちがそれぞれに抱えている部分的な問題が、その最終回において一気に棚上げされ、世界を危機に陥れようとする悪の権化との闘いという全体的な問題にすべてが集約されてしまったのである。この急展開は、逆に、小状況と大状況とを接合することの困難さを示唆していて、実に興味深い。


 『フタコイ』の場合は、どうだろうか? 『フタコイ』の場合も、基本的には、『舞-HiME』と同様に、小状況を大状況に回収することによって、問題を無化していた。しかし、そうした大状況を「夢」という言葉を用いることによって、多少ながらも、相対化することには成功していた。つまり、全世界を危機に陥れる悪の権化との命を賭けた闘いなど存在せず、実際はただ、日常生活がたんたんと続くだけなのだ、と。


 大状況/小状況という対立軸とは別に、躁展開/鬱展開という対立軸で、『フタコイ』を見ていくことも可能だろう。主人公である探偵の双葉恋太郎と、その助手である双子の姉妹、白鐘沙羅白鐘双樹。この三人が織り成す日常生活は、過剰な躁状態と、過剰な鬱状態とによって形成されている。ここに見出すことのできる過剰さは、大状況の不在によってもたらされたものだろう。つまり、全世界を危機に陥れるような闇の組織との闘いという燃える展開もそこにはなく、家の決まりによって双子のどちらかが好きでもない相手と結婚しなければならないという状況に対し、何もすることのできない自分の無力さに思い悩むという暗澹たる展開もそこにはない。そこにあるのは、単なる日常生活だけなのである。


 そのように考えるのであれば、真の『フタコイ』の物語は、その行間にしか存在しないことになるだろう。物語から物語を差し引いた後に残るもの、それが日常生活である。


 以上の点から、日常生活には大団円は存在しないと言えるだろう。『舞-HiME』と『フタコイ』に共通して見出すことのできる大団円の座りの悪さに注目してみよう。それら二つの大団円は、仮構された大状況を解決した結果、もたらされたものである。世界の危機が回避され、その結果、平和な日常生活がもたらされた、というわけだ。そのような危機的な大状況を経ることなしには、日常生活に輝きがもたらされることはない。問題が山積みのはずの小状況が、たったひとつの問題しか抱え込んでいない大状況に回収されるとき、そのときにしか、輝かしい平和はもたらされないのである。


 『舞-HiME』や『フタコイ』とは違って、大状況と小状況とを上手く接合している作品もある。いわゆる「セカイ系」と呼ばれる作品がそれである。これらの作品では、個人的な問題が即、全世界的な問題と接合していた。新海誠の『雲のむこう、約束の場所』で端的に示されていたように、そこでは、自分の恋人を守ることと、全世界を守ることとが、同じ重みを持っているのである。


 こうしたセカイ系作品と比べるなら、『フタコイ』や『舞-HiME』は、若干、倫理的だと言えそうである。しかし、それは、これら二つの作品が失敗作である限りにおいてである。


 あらゆる作品が描こうとして描き切れないでいるのは日常生活である。日常生活はそこに物語が導入されるや否や、即座に排除される。それゆえ、もし物語を最後まで完結させようとするならば、それはセカイ系作品になるだろうし、もしそのことに失敗すれば、それは、『フタコイ』のような作品になることだろう。どちらも、物語を導入している時点で、日常生活を描くことには失敗しているのである。


 『フタコイ』に描かれていた再開発の問題を取り上げてみよう。そこでは、古き良き商店街の町並みが再開発の波によって飲み込まれようとしているところが描かれていた。そのとき、その再開発を裏で促進していたのが、全世界を支配しようと企む闇の組織であり、商店街の人たちは、それと闘おうとするのである。物語の上では、悪の組織は壊滅した。「しかし、現実は?」と問いたくなる。悪の組織が滅んだとしても、再開発だけは生き残るのだ。まさに、このような現実は、物語の失敗を通してしか描くことはできないだろう。


 芥川龍之介の警句にこんなのがある。「人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している」。おそらく、『フタコイ』が目指したのは、こんな作品だったのだろう。