代替不可能なものの仮面を被る代替可能なもの

最近のアニメ作品やその他のサブカルチャー作品を見ていて疑問に思うことがある。それは、ある種の共同体主義的な価値観が過度に肯定されている点である。ある種の共同体主義的な価値観とは、古き良き日本の価値観とされているもの、ある地域の住民同士によ…

『涼宮ハルヒの憂鬱』における二つの文化祭――日常生活を分節化するものとしての学校行事

前回は、未来や過去といった個人史の時間軸に沿う形で、節目の時を問題にした。過去が現在に介入してくる仕方は、非常にたくさんある。ノスタルジーという形で、過去が現在に介入してくる仕方は、主体のポジションの変化をもたらす。これは、パースペクティ…

手塚治虫『ボンバ!』――物語には回収されない過剰なもの

手塚治虫のマンガ『ボンバ!』を読み返してみて、いろいろと思うところがあったので、そのことについて少し書いてみたい。 この作品は、おそらく、手塚治虫の作品の中でも、失敗作として数え上げられている作品ではないかと思われる。しかしながら、僕は、個…

現在から過去へ、そして、過去から未来へ――視点の変化の問題

前回は、『まなびストレート』を中心にして、日常と非日常との分節の問題を取り扱った。『まなびストレート』は、一見したところ、非日常を取り扱った作品だと言える(非日常的な経験としての「わくわく」や「きらきら」をもたらすものとしての文化祭)。し…

2007年春の巨大ロボットアニメ概観――『エヴァンゲリオン』を尺度として

この春に新しく始まったアニメを概観してみると、巨大ロボットものの作品がいくつかあるのが目につく。巨大ロボットもののアニメが大量に作られたのは、70年代後半から80年代にかけてであるが、現在においても、そうした流れの末に、巨大ロボットアニメが作…

共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に

前回は、日常と非日常との分節について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『涼宮ハルヒの憂鬱』という二つの作品を主として参照しながら、問題にしてみた。日常と非日常の分節において、常にアクセントが置かれているのは、日常のほうであり…

ノスタルジーとその下に潜む廃墟――『鉄人28号 白昼の残月』を見て

先日、『鉄人28号 白昼の残月』の映画を見てきたので、その感想を少し書いてみたい。 このアニメ映画は、2004年に作られたTVシリーズの『鉄人28号』に引き続く形で作られた作品であるが、そもそも、2004年の『鉄人』のアニメがどのようなものであったのか、…

新海誠における再会と喪失の問題――『秒速5センチメートル』を見て

先日、新海誠の新作『秒速5センチメートル』を見てきたので、その感想を少し書いてみたい。 この作品の主題をひと言で言えば、それは、再会だと言えるだろう。しかしながら、ここで問題になっているのは、永遠の魂の存在証明とは別のもの、むしろ、その永遠…

日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って

前回は、アニメを見ることに関わる実存的な問題を少しだけ提起した。そこで問題になっていることは、生活のリズムを刻むこと、平板な世界にいかに起伏をもたらすか、ということである。これは、つまるところ、世界をいかに意味づけるか、ということである。…

アニメを見ること、生活のリズムを刻むこと

前回は、小さな場所で起きる小さな出来事、様々な小さな物語の輪郭を描いた。小さな物語とは、言ってみれば、日常生活という架空の中心の周囲に生み出される物語だと言える。様々なアニメ作品において、日常生活は、単に仄めかされるだけであって、それが直…

日常生活における小さなもの

前回は、「ゲームと実存」というテーマで、今日においてゲームをすることの意味を、実存という側面から問題にしていった。僕がゲームを問題にしたのは、そこでの実存の問題を場所の問題と結びつけたかったからである。僕は、以前から、小さなものに興味を持…

今日のリアリティ――『コードギアス』とその周辺

寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平 http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20061017#1161083125 以前書いたこの文章の中で、僕は、『コードギアス 反逆のルルーシュ』を『機動戦士ガンダムSEED』と同じ地平から見ることを提案した。…

ゲームと実存――なぜお前はゲームをするのか?

前回は、われわれの共通の善にとって有害な存在である不快な他者についての話から始めて、実存の問題を提起するに至った。実存の問題とは、言い換えれば、われわれを合理的なシステムから逸らす何かがある、ということである。人生の目的とは何だろうか? も…

アニメ『のだめカンタービレ』のオープニングについて

アニメ『のだめカンタービレ』のオープニングを見ていて気になるところが少しあったので、ちょっと書いてみたい。 気になるところは二点あって、まず一点目は、白い空間のうちにピアノが出てきて、そのピアノの足元から、カラフルな星をちりばめた黒い影が伸…

部分的な悪としての不快な他者の侵入――実存の問題をどこで決着させるのか?

前回は、競争的関係と家族的関係とを対立させることによって、いくつかのサブカルチャー作品において問題になっていることを整理してみた。今日のサブカルチャー作品で問題になっていることを端的に述べれば、それは、未だに失われたことのない故郷を再発見…

競争的関係と家族的関係

前回は、「二者関係から三者関係へ」というふうに、人間関係を類型化して整理することで、現在のサブカルチャー作品において問題になっていることの一側面を強調した。そこにおいて、とりわけ、関心を引く人間関係の形式とは、バトルロワイアルであり、他者…

二者関係から三者関係へ

前回は、現代のサブカルチャー作品を問題にするための視点として、場所というものを持ち出したわけだが、この場所という問題は、結局のところ、そこでの人間関係をどのように考えるかということに集約される問題設定である。しかしながら、集団としての人間…

「場所」という観点についての問題提起

場所とアイデンティティの問題について、以前からこのブログで問題にしてきたが、それを今回から本格的に行なってみようと思う。 「セカイ系」と呼ばれる作品群について問題にすることも、僕にとっては、場所とアイデンティティを問題にすることであった。セ…

『夜明け前より瑠璃色な』における作画崩壊の問題点

アニメ『夜明け前より瑠璃色な Crescent Love』は、二つの方向性を持った作品だと言える。簡単に言ってしまえば、それは、シリアスな側面とコミカルな側面の二つであるが、この二つの要素を作品の中でどのように調和させていくのかということは、なかなか難…

アニメ『ゴーストハント』における会話の役割と登場人物の空間配置

アニメ『ゴーストハント』において、作品の方向性を決定づけているものとは、登場人物同士の会話であると言えるだろう。このミステリー作品において、そこでの謎の探求の仕方は、いわゆる「アームチェア・ディテクティブ」の方法を取っていると言える。問題…

無意味な日常生活の充実した価値――『DEATH NOTE』と近年のサブカルチャー作品を巡って

この前、『DEATH NOTE』の映画を見てきたので、それに関連して、このマンガ作品について、またいくつか、思ったことを書き連ねてみたい。 『DEATH NOTE』については、以前にも、何回か、問題にしたことがあったが、このマンガに対する僕の基本的な関心は、主…

固有性も必然性もない世界――アニメ『らぶドル』が提起する問題

アニメ『ツバサ・クロニクル』の第二期を見ていて気になった台詞がある。それは、この世界とこの世界とは別の世界にいる人物が同一の魂を持っている、というような台詞である。この作品では、複数の世界が提示され、それらの世界には同じ顔と同じ名前を持っ…

なぜ私が選ばれたのか?――『金色のコルダ』と世界の外部から到来した謎

アニメ『金色のコルダ〜primo passo〜』の物語形式は、非常に伝統的なものだと言える。この作品は、コーエーのゲームをアニメ化したものらしいが、コーエーの女性向けゲームは、他にも、『遙かなる時空の中で』や『アンジェリーク』がアニメ化されている。こ…

アニメーションの死――特殊言語としてのアニメについて

現在放送中のアニメ『ギャラクシーエンジェる〜ん』を見て思ったことを少し書いてみたい。 アニメ『ギャラクシーエンジェル』シリーズの特徴的なところは、世界観とキャラクターとの間にある大きなズレにあると言えるだろう。もっと言えば、『ギャラクシーエ…

メディアミックス時代におけるアニメ視聴――二次創作の目指すもの

今日、メディアミックスという言葉を抜きにしては、日本で新しく作られる商業アニメ(芸術アニメに対する)について語ることはほとんど不可能であるだろう。メディアミックスという言葉を仮に知らなかったとしても、われわれは、TVで放送されているアニメに…

寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平

『コードギアス 反逆のルルーシュ』を第二話まで見た。この作品の第一話を見たときにまず思ったのは、このアニメが『機動戦士ガンダムSEED』に非常によく似ている、というものだった。この既視感は、プロデューサーの竹田菁滋の力によるところが大きいのでは…

人間の影の存在としての吸血鬼――アニメ『BLACK BLOOD BROTHERS』について

アニメ『BLACK BLOOD BROTHERS(BBB)』を見ていて思ったことを少し。 吸血鬼を扱ったアニメやマンガは無数にあると思うが、そもそも、なぜこれほどまでに、吸血鬼という存在が物語の題材になるのだろうか? 吸血鬼とは何かと言えば、それは、簡単にまとめる…

可能世界の可能性――タイムリープと時間の不可逆性について

ツガノガクのマンガ版『時をかける少女』を読んだので、この作品のモチーフから連想したことをいくつか書いてみたい。 僕は、原作の小説を読んだことがないので、このマンガがどれくらい原作に忠実なのかよく分からなかった。しかしながら、この作品のモチー…

キャラクターの存在論――『つよきす』のアニメに関連して

この前、アニメ『つよきす Cool×Sweet』の最終回を見たので、それに関連して、『つよきす』のアニメに関して少しコメントしてみたい。 『つよきす』のアニメには、何というか、古き良きアニメの香りがする。80年代くらいのアニメやマンガ作品の影響の下に作…

未来の時間――幸福とは別の観念について

物語と日常生活との関係はどのようなものだろうか? 物語と日常生活との間には大きな溝がある。物語の中では日常生活において起こりえないことが起こりうる、ということが決定的な断絶なのではない。日常生活は、物語に比べると、あまりにも無意味であるとい…