『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その5)――日常系の自己反省的効果、過剰な要素としての反復する名前

いわゆる「日常系」というジャンルに『らき☆すた』も含めることができるだろうが、しかしながら、そこでひとつの作品ジャンルとされている「日常」とはいかなるものなのか、「日常」という言葉の内実とはどのようなものなのか、ということがひとつの問題とな…

セカイ系の社会的な次元、あるいは、セカイ系のリアリティについて

セカイ系作品はこれまで多くの批判にさらされてきたと言えるが、セカイ系を批判するときにしばしば持ち出される言葉がある。それは「閉鎖的」というものである。「セカイ系」という言葉の定義の一部をなしている、社会的な領域の欠如という特徴が含んでいる…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その4)――自明性の回復というオタク的な努力、見た目と語りとの間のギャップ

共通前提の崩壊の問題と不快な他者の侵入の問題との間には密接な関係があるように思える*1。つまり、他者が、たとえ善意からだとしても、何か介入的な行為をしたときに、そうした行為をひとつの越権行為、自分を害するために行なわれた攻撃的な行為と見なす…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その3)――過剰流動性にさらされたオタク的文脈

前回提起した問題、つまり、アニメ『らき☆すた』第1話の食べ物に関するエピソードについての問題とは、簡単にまとめると、こういうことである。すなわち、われわれは、ある時には、何かについての価値判断の多様性を認める。あるものに対する評価について、…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その2)――チョココロネの「正しい」食べ方

チョココロネを細いほうから食べるか太いほうから食べるか? いったい、なぜ、そんなことが問題になるのだろうか? この問いに見出される問題設定とは、自明性の欠落である。おそらく、それほどの深刻さはないだろうが、泉こなたの思考にふと到来したものと…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間

以前、このブログで、アニメ『まなびストレート』を取り上げて共通前提の崩壊について語ったことがあったが(共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に)、もちろん、共通前提の崩壊という現象は、『まなび』という作品だけに見られる…

世界は素晴らしい、しかし、それにも関わらず――新海誠の『遠い世界』

「other worlds」。異世界。この世界とは別の世界。 副題が「other worlds」にも関わらず、この作品に描かれているのは、別の世界、異世界ではない。異世界は、常に、この世界とは別の場所にあるものとして、ほのめかされているだけである。そこにあるのは、…

志賀直哉『城の崎にて』――動物にとっての生と死、意識と行為との間のギャップ

われわれ生きている者たちにとっては、死とは余計なものなのだろうか? われわれ生きている者たちは、死とどのような関わりを持つのだろうか? 生きている者は必ず死ぬ。これは事実であるだろう。しかしながら、これは、あまりにも明白な事実なので、それを…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ

『孤独のグルメ』について書くのは今回で最後にしたい。そこで、今回は、今まで提出した観点をまとめてみることにしたい。 まず最初に提出したのは、モノローグという観点である。ここでのモノローグは、ダイアローグの不在と言い換えることができるだろう。…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その9)――目を持つ群衆、量の問題を提起する群衆

群衆の持っている器官とは、端的に言って、目であるだろう。もちろん、群衆は聞いたりもするし、喋ったりもするだろう。ひとつのところに集まって交通を妨害することもありうるだろうし、映画のワンシーンによく見られるように、人と人とを離れ離れにさせた…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その8)――群衆の欲望から距離を取るということ、特殊と一般の狭間

井之頭五郎は都市の風景の中に溶け込む。都市においては、五郎が物語の中心人物ではない。五郎は、多くの登場人物(群衆)の中のひとりにすぎない。多くの登場人物の中のひとりであること。このことが孤独を養うのである。 都市の風景の中に埋没すること。そ…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その7)――これまでの文脈、われわれの欲望を構成する都市の風景

この『孤独のグルメ』論は、『ぼくらの』論を引き継ぐ形で始めたわけだが、そもそもどのような動機から『ぼくらの』という作品を問題にし始め、そこからどのように問題を『孤独のグルメ』へと移行させていったのかということについて、ここで改めて確認して…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その6)――風景の変貌、自身の孤独に留まり他者の孤独と連帯するということ

ひとりになること、ひとりでいることとは、対象化する視点を持つということである。孤独であるということは、何かから距離を取るということである。第9話において、五郎は、自分の過去から距離を取る。そこにおいて、五郎は、単に、昔のことを思い出している…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声

今回は、まず、『SPA!』2008年1月15日号に載った『孤独のグルメ』の特別編から話を始めたい。 この特別編の舞台は病院である。つまり、病院食を食べる井之頭五郎の姿が(半ばパロディ的に)描かれるわけである。これまで、この『孤独のグルメ』論で問題にし…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その4)――都市の背景になるということ

『散歩もの』のコンセプトとは、言ってみれば、ひとりになると見えてくるものがある、ということである。別段、『散歩もの』の上野原譲二は孤独ではない。彼には妻がいるし、会社の同僚もいるし、昔馴染みの友人たちもいる。しかし、こうした人たちと話をし…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その3)――都市生活者にとっての失われつつあるもの

井之頭五郎は、ある点で、非常に自由な人間である。しかし、そのことが、彼を孤独にする。彼は、言ってみれば、土地というものから自由になった人間である。しかし、その代償として失ったものがある。その失ったものを、端的に、生活と呼ぶことができるだろ…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その2)――満たされない空腹としての孤独

井之頭五郎とは、いったい、何者なのか? 彼は、この作品においては、まず、非常に特別な人間として登場する。どこにでもいる人間ではなく、非常に特殊な人間。それは、「若き大女優」とのパリでのロマンスの思い出があるような人物である。そうした特殊な人…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その1)――モノローグとしての孤独

この前まで続けていた『ぼくらの』論の中で、僕は、現代人の孤独というテーマを少しだけ提出してみたが、この点をもっと掘り下げてみたいと思ったので、今回からは、久住昌之原作、谷口ジロー作画の『孤独のグルメ』をテキストとして取り上げて、現代人の孤…

『ぼくらの』と倫理的問題(その10)――自分の傷つきやすさを他人にさらけ出すことができるか?

キリエの物語は二つの対話から成り立っている。ひとつはキリエと畑飼との対話であり、もうひとつはキリエと田中との対話である。 畑飼という人物は、チズの物語を論じたときにも問題にしたように、競争的関係、バトルロワイアル状況において、そこでのゲーム…

『ぼくらの』と倫理的問題(その9)――代替可能な存在のために自らの手を汚すことができるのか?

マキの物語から、あえて人を殺すということが問題になる。それは、コダマの物語で描かれていたような殺人とも、チズの物語で描かれていたような殺人とも異なる。コダマの物語で描かれていたのは、犠牲者としての人の死だった。それは、意識的に行なわれる殺…

『ぼくらの』と倫理的問題(その8)――なぜ自分が生き残らなければならないのか?

モジの物語で描かれている三角関係は、他者との競争的関係(バトルロワイアル状況)を、非常に分かりやすい形で示している。つまり、そこにおいては、自分の死は相手にとっての利益になるのであり、逆に、相手の死は自分にとっての利益となる。しかしながら…

『ぼくらの』と倫理的問題(その7)――他者を傷つけても自分が生き残るべきなのか?

アニメ版のチズとマンガ版のチズとはかなり異なっている。アニメの『ぼくらの』は、マンガの『ぼくらの』に見出されるチズの憎しみを緩和している。もっと言えば、チズの覚悟とでも言うべきものを緩めているのである。 チズには死ぬ覚悟ができている。だから…

『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法

『天元突破グレンラガン』とは、いったい、どのようなアニメ作品だったと言えるだろうか? 『グレンラガン』には、旧来のアニメ作品の反復という側面がある。もっと限定して言えば、それは、70年代から00年代にかけての(ロボット)アニメの反復である。しか…

『ぼくらの』と倫理的問題(その6)――自らの死をどうしたら受け入れられるのか?

前回も少し問題にしたことであるが、カコの物語には、現代人の孤独な生を見出すことができる。家族や友達がいないわけではないが、いや、むしろ、ちゃんといるからこそ、そこで、一種の疎外感を意識している。そこでの問題とは、簡単に言ってしまえば、いっ…

『ぼくらの』と倫理的問題(その5)――自分の望まない義務を果たさなければならないのか?

ナカマの言う「全員は全体の奉仕者」という言葉の意味とはどのようなものだろうか? ここで提出されている観念は、ダイチの場合とは違って、もっと広い範囲でのグループ、自分が見知っている範囲以上のグループが問題になっている。言ってみれば、そこで問題…

『ぼくらの』と倫理的問題(その4)――家族を守るために死ぬことができるのか?

闘いに負ければこの世界は滅びるが、闘いに勝っても自分の命はなくなる。このような状況において、それでも、なおかつ、闘いに勝つことに意義を見出すことができるとすれば、それは、自分の死後に生き残る人たちのために闘う、ということである。これは、ま…

固有性とは別の何かを求めて――『GANTZ』20巻を読んで

『GANTZ』20巻を読んだ。ちょっと前に、21巻を読んだので、順番が逆になってしまったが。 20巻と21巻の間には、連載の休止期間があるわけだが、この休止期間から振り返って考えてみると、この20巻は、奥浩哉の焦りというか倦怠というか、とにかく話を先に進…

『ぼくらの』と倫理的問題(その3)――生きるとは生き残るということなのか?

コダマの戦闘とワクの戦闘とを比較したとき、コダマの戦闘において考慮に入れられているものとは何だろうか? それは、その戦闘によって多くの犠牲者が生じるということ、闘っているもの同士の死者以外に、その戦闘に巻き込まれて死ぬ人間が多数出てくるとい…

『ぼくらの』と倫理的問題(その2)――生きるとは生きがいを感じるということなのか?

『ぼくらの』という作品の最も衝撃的なところ、『ぼくらの』という作品が先行する様々な作品から影響を受けて作られているとしても、それまでの作品とは一線を画すようなところとは、いったい、どこだろうか? それは、言うまでもないことかも知れないが、巨…

『ぼくらの』と倫理的問題(その1)――アニメ版とマンガ版の違いはどこにあるのか?

『ぼくらの』という作品がなぜ倫理的なのかということを説明するためには、まず、鬼頭莫宏によるマンガ版の『ぼくらの』と現在放送中のアニメ版の『ぼくらの』との差異を明確にすべきだろう。 アニメの『ぼくらの』は、ネットで一時期話題になったように、監…