2006-01-01から1年間の記事一覧

スーパーロボットを巡る男の子の問題

スーパーロボットからリアルロボットへ、という話をよく聞くが、しかし、そもそも、スーパーロボットの代表格である『マジンガーZ』とそれ以前の『鉄人28号』との間にも大きな違いがあるように思える。その違いというのは、ひと言で言えば、鉄人が遠隔操縦で…

『銃夢 Last Order』の物足りなさ

木城ゆきと『銃夢 Last Order』の第9巻を読んだ。今回の巻でヴィルマの昔話は一段落がついた形になったようだ。 それにしても、『Last Order』は、前作の『銃夢』と比べると、メリハリの欠けた作品になってしまったと言わざるをえない。話のメインはバトルに…

ひきこもりからオタクへ――『N・H・Kにようこそ!』が問題提起していること

アニメ『N・H・Kにようこそ!』を見ていて思ったことがある。それは、主人公の佐藤達広はオタクではない、ということである。この点は、一見するとどうでもいいことのように思われるかも知れないが、おそらく、本編の内容と密接に関わっていることだろう。と…

『時をかける少女』のタイムリープについて

タイムリープ。過去に戻ってやり直すということ。これは、作品の中で明確に描かれているように、非常に深刻な結果をもたらす行為である。われわれは、多かれ少なかれ、自分の力を超えた何か、運命の力とでも言うべきものを想定することによって、そうした深…

『時をかける少女』を見て――第一印象

いまネットで話題の劇場アニメ『時をかける少女』を見た。この作品の詳しい分析や解釈については、明日以降、行ないたいと思っているので、今日のところは、映画を見た第一印象を述べてみたい。 まず、この作品の素晴らしかったところは、人物が非常にリアル…

話題にならないアニメ

ネットで話題になるアニメとそうでないアニメがあるように思う。例えば、『格闘美神 武龍』などは、ほとんど話題にならないアニメだろう。話題になるかならないかは、アニメのクオリティの高い/低いに比例しないように思う。『MUSASHI -GUN道-』のように、…

裏表のない人間――『スミレ17歳』

永吉たけるの『スミレ17歳』というマンガを読んだ。このマンガは、いわゆる「中の人」という観念について、いろいろなことを考えさせられる。 人形のスミレとそれを操るオヤジとの関係は、文楽のことをすぐさま連想させる。文楽では、周知の通り、人形をメイ…

生の意味づけとしての無――『DEATH NOTE』の最終巻について

『DEATH NOTE』の最終巻(12巻)を読んだ。本編のストーリーとは直接関係なく、読んでいて少し気になったところがあった。それは、最後のほうで、少し唐突に出てくる死後についての話、つまり、人間は、死後、天国にも地獄にも行かず、ただそこには無だけが…

関係性という観点から見たツンデレ

「萌え属性」とか「萌え要素」という言葉があるが、僕は、このような部分的な要素を、あるキャラクターの構成要素として考えるのではなく、他のキャラクター(あるいは、受け手)との関係性において位置づけるべきではないか、と思っている。主観と対象とい…

この世の彼方としてのエルドラド

ヴェルナー・ヘルツォークの1982年の映画『フィツカラルド』を見た。この映画は、同じヘルツォークの作品である『アギーレ』と同様、エルドラドを描いた作品だと言える。 エルドラドは、理想郷とか黄金郷と訳されるが、そこで問題となっているのは、ある種の…

『機動戦士ガンダム』第1話

『機動戦士ガンダム』の第1話を見返してみた。やはり、『ガンダム』は、何度見ても味わい深い作品だと思う。 『ガンダム』のリアルさということがよく語られるが、今回、第1話目を見返してみて、そうしたリアルさというものは、登場人物の心理描写によって生…

実験アニメとしての『財前』

アニメ『内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎』は、『MUSASHI -GUN道-』と共に、ネットで、クオリティの低いアニメとして、笑いの種になっている。しかし、現在、クオリティの低いアニメが無数にある中で、この二つの作品が殊更に語られるのには、それなりの…

アナクロアニメ『ラブゲッCHU』

『ラブゲッCHU〜ミラクル声優白書〜』の最近の展開には、僕の予想しないところがあった。それは、あまりにも、恋愛に重点が置かれているところである(ひとりのアニメーターの男性を巡って、二人の声優の女の子が争い合っている)。しかし、よくよく思い直し…

娯楽ではないようなアニメについて

これまで、このブログで、いろいろなアニメについて語ってきたが、そもそも、アニメを見るということがどのようなことなのか、とりわけ、現代の日本でアニメを見るということがどのような意味を持っているのか、ということを少し考えてみたい。 まず、娯楽と…

冒険ものの困難、副次的なものの重要性

『タイドライン・ブルー』と『銀色の髪のアギト』という、飯田馬之介の関わっている二つのアニメ作品を見て、僕は、何というか、ある種の不十分さを感じた。やりたいことが十分にやられていないというか、構想と実際に実現したものとの間に大きなギャップが…

交換不可能な全体的なもの

アニメ『極上生徒会』で描かれているもの、それは、一種のアジール(避難場所)だと言える。そこにあるのは、ユートピアとしての場所、理想としての場所であるが、重要な点は、そのような場所が人為的に作られたということである。 私立宮神学園という場所は…

『機動戦士ガンダムSEED』とバトルロワイアル状況

『機動戦士ガンダムSEED』の世界観が、911以後の国際情勢を踏まえた上で作られていることは明白である。地球連合とザフトとの闘いは、アメリカのアフガニスタン侵攻、あるいは、イラク戦争を彷彿とさせるだろう(世界が二分して争っているという点では、冷戦…

『機動戦士ガンダムSEED』における遺伝子操作のテーマについて

昨日は、『機動戦士ガンダムSEED』とセカイ系との違い(と類似点)を大雑把に見たので、今日は、もう少し細かいレベルで、『SEED』について語ってみたい。いくつかトピックを上げて問題にしてみたいが、今日のところは、遺伝子操作というテーマに関して主に…

『機動戦士ガンダムSEED』とセカイ系

2000年以降のサブカルチャー作品で、『機動戦士ガンダムSEED』とその続編である『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』とは、非常に重要な作品であると言える。その理由は、この二つの作品が、小状況を描いた作品が主流である中で、徹底的に大状況に焦点を合わせ…

ダークサイドと弱さ

先日、『DEATH NOTE』の映画を見たので、それに関連して、このマンガについて少し書いてみたい。 以前にも少し書いたことがあったと思うが、このマンガのテーマは、端的に言って、日常生活の退屈さであるように思える(これは『涼宮ハルヒの憂鬱』のテーマで…

相対化の果てにあるもの

アニメ『スピードグラファー』を最後まで見た。その最終回を見ながら思ったのであるが、今日の社会において、「敵」の存在を特定することは、非常に難しいことであるように思う。自分が何らかの不満を抱いており、被害を受けているという実感はあるものの、…

身体感覚、ギャップをもたらす他者の存在

セカイ系の諸作品は、「私」の大きさを測る物差しそれ自体を問題にしていると言える。つまり、ここでの問題点とは、尺度がはっきりとしないことである。鏡の比喩を用いれば、セカイ系の世界とは、鏡のない世界、自分自身の大きさというものを上手く把握する…

視野の狭さ、選択肢の少なさ

われわれの視野の問題。認識の問題。 いったい何が、われわれの視野の中に入ってくるものとわれわれの視野から逃れ去ってしまうものとを分けるのか? われわれが何か判断を下すとき、その判断の根拠となりうるものとなりえないものとを分かつものとは何だろ…

革命の超越的な水準

現在の世界で求められているものとは、ひとことで言えば、切断であるように僕には思える。切断というのは、何かと何かを明確に分けることであり、それは、空間のレベルに対しても、時間のレベルに対しても言うことができる。空間のレベルにおいては、特に、…

悪の組織から絶対正義へ

『あかほり外道アワーらぶげ』について少し。 この作品で問題になっていることを整理しようとすることは、思いのほか、困難であるように思える。正義と悪という問題設定にしても、そこでは、単純に、正義と悪との位置交換が描かれているわけではないだろう。…

悪意ある同情のまなざし

先週、古本屋に行ったとき、懐かしいマンガがあったので、思わず買ってしまった。それは、たちいりハルコの『パンク・ポンク』というマンガである。『パンク・ポンク』は、昔、小学館から出ていた「小学○年生」(一年生から六年生まである)に連載されていた…

都会からのまなざし、現代からのまなざし

『ジャングルはいつもハレのちグゥ』のアニメを見返していて気づいたことがある。それは、この作品の舞台であるジャングルとは、都会と対照的な位置にある田舎のことだ、というものである。この作品の優れているところは、まさに、そのような、都会/田舎と…

ハーレムアニメのタブー

『おくさまは女子高生』のアニメを最後まで見た。 この作品が描いているのは、まさに、ひとつのタブーの存在であるが、そのことによって、逆に示されることは、現在、確固たるタブーなど存在しない、ということである。言い換えれば、何かそこにはタブーが存…

母親以上に母親的なもの

昨日、手塚治虫のマンガにおける母親的なものということを少し書いたが、そのことについて、もう少し詳しく書いてみたい。 このテーマに思い至ったのは、今年、『ハトよ天まで』という手塚のマンガを読んでいたときである。この長々としたマンガで何が描かれ…

アダムとイブ

ずっと以前から気になっている言説がある。それは、劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』のラストシーン、つまり、浜辺に横たわるシンジとアスカを、新世界のアダムとイブというふうに捉えるという言説である。こうした解釈は、公開当初からあったものだが、そ…