実験アニメとしての『財前』

 アニメ『内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎』は、『MUSASHI -GUN道-』と共に、ネットで、クオリティの低いアニメとして、笑いの種になっている。しかし、現在、クオリティの低いアニメが無数にある中で、この二つの作品が殊更に語られるのには、それなりの理由があるように思える。それは、この二つのアニメが、非常に野心的なアニメであるということ、今まであまり見かけたことがないような斬新な演出を行なっていることに、その原因の一端があるように思える。


 『財前』にも『MUSASHI』にも見出せる斬新な演出は、作画と動画のクオリティの低さを穴埋めするためになされた苦肉の策なのかも知れない。しかし、だとすれば、なおさら、そのような斬新な演出が必要とされるということは、『鉄腕アトム』以来の日本のTVアニメにおいて、常に見られてきた光景だと言えるだろう。まさに、必要は発明の母であるが、口パクやバンクシステムを始めとした様々な技法は、人と金と時間のなさを穴埋めするために生み出されたものだったからである。


 『財前』において特徴的な演出は、奇妙な画面分割である。口で説明するのは難しいが、それまで人物のシルエットだった部分が一種のフレームのようなものになり、そこにその人物のアップが映し出されるという演出が多様される。二重三重に積み重なるアップがこの作品の基調をなすわけだが、これは、端的に言って、カットという観念に対して揺さぶりをかける試みだと言えるだろう。セルアニメというのは、基本的に、平面的なものであるが、『財前』の技法は、その平面さを乱暴なまでに利用して、通常の立体的な空間認識にずれをもたらすのである(加えて、逆に、その平面の下の層という形で、奥行きの観念ももたらす)。


 いったい、作品の中で、このような演出がなされる必然性がどれほどあるのかという点は措くとしても、やはり、このような実験的な試みは、それなりに評価すべきではないだろうか? 最初になされたときにはまったく意味がなかったとしても、後にそれが取り上げ直されたときに意味を持ってくるという技法もあるだろうから。