関係性という観点から見たツンデレ

 「萌え属性」とか「萌え要素」という言葉があるが、僕は、このような部分的な要素を、あるキャラクターの構成要素として考えるのではなく、他のキャラクター(あるいは、受け手)との関係性において位置づけるべきではないか、と思っている。主観と対象という言葉を用いれば、萌え属性を、対象に備わる要素としてでも、主観に内在する認識の枠組のようなものとしてでもなく、主観と対象との間の関係性において生起してくるものと考えるのである。


 ここ数年流行しているツンデレという萌え属性は、他の属性と比べて、関係性という側面が非常に見やすいという点で、注目に値する萌え属性である。


 ツンデレという萌え属性においてせめぎ合っているものとは、客観的な思考と個人的な感情である。そこには、個人的な感情(特に恋愛感情)を認めることの拒絶がある。「素直になれない」わけである。こうした点で、個人的な感情とは、逆説的ながら、その個人の自我にとっては異質なものだと言える。それは、その個人の自我を揺るがす力を持っているのである。


 『ゼロの使い魔』のルイズがツンデレである必然性は、彼女が劣等感を抱いているというところにある。つまり、常に他人から馬鹿にされている彼女にとっては、ことさらに強がる理由がある、ということである。ここにおいて、貴族と平民、あるいは、主人とその使い魔という関係性は、ルイズにとって、平賀才人というパートナーに接近するための口実にもなるし、壁にもなる。彼女は、そのような関係性の内部から常に行動するが、その背後には、そのような関係性を破壊するような感情が控えているのである(彼女には、平賀才人という使い魔を、使い魔以上のものとして扱う用意がある)。


 『灼眼のシャナ』のシャナは、綾波レイ長門有希といったキャラに似ているところがある。それは、まるで、(人間的な)感情がないかのように描かれているところである。しかし、シャナは、実際に感情がないわけではなく、自分の感情を知らないだけなのである。まさに、彼女にとって、その感情(恋愛感情)は、彼女を構成する自我の外部にあったわけである。そのような感情の衝迫は、結果、フレイムヘイズという彼女の存在様態を撹乱するまでに至るのである。


 こんなふうに考えれば、ツンデレというものを、自分の感情に対する無知という観点から定義することができるかも知れない。自分の感情に対する無知という点を徹底的に推し進めたツンデレキャラとは、間違いなく、『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒだろう。彼女の無知は、この世界の創造という点にまで及んでいるわけだが、その根底には、まさに、彼女のツンデレとしての無知が横たわっていることだろう。世界の創造者としてのハルヒの矛盾とは、彼女がこの世界を創ったかも知れないのに、彼女自身がこの世界に退屈しているところにある。彼女は、退屈さを紛らすために宇宙人や超能力者の存在を求めるが、彼女自身がそれを知ることはないのである。


 『涼宮ハルヒの憂鬱』がセカイ系であるのかどうかという議論をネットでいくつか読んだが、この問いに僕なりに答えるとすれば、『ハルヒ』はツンデレセカイ系である、というものだろう。つまり、ハルヒ自身はセカイ系的な傾向を強く持っている人物であり、全世界の危機を背景にした「きみとぼく(わたしとあなた)」とのラブロマンスを望んでもいるのだが、そうした感情を素直に認めることができないわけである。だからこそ、彼女は退屈であり続けなければならないと言える。彼女の退屈さとは一種のフェイクであり、その背後にはベタな恋愛感情が隠されているわけである。ハルヒは、極めて自己中心的な人間のように振る舞っており、世界が自分のためにあるかのように振る舞っている。しかし、そうした振る舞いは、彼女の内面から湧き上がる感情を隠すためになされていると言えないだろうか? つまり、よく言われるツンデレの定型表現を用いれば、ハルヒが本当に言いたいこととは、「別にあんたのためにこの世界があるんじゃないんだからね!」というものではないだろうか?


 関係性という観点から萌え属性を見ることの利点は、萌え属性がフェティッシュになることを避けることができる、という点にある。言い換えれば、萌え属性を、感覚的な良し悪しを越えたものに接続する可能性が開けるところにある、ということである。物語というものが縮小している現在、部分的な要素に注目せざるをえないのは必然的な流れであるが、感覚的な良し悪しとは別の言説の可能性というものも常に考えておく必要があるのではないだろうか?