生の意味づけとしての無――『DEATH NOTE』の最終巻について

 『DEATH NOTE』の最終巻(12巻)を読んだ。本編のストーリーとは直接関係なく、読んでいて少し気になったところがあった。それは、最後のほうで、少し唐突に出てくる死後についての話、つまり、人間は、死後、天国にも地獄にも行かず、ただそこには無だけがある、という話である。


 こうした話が何と関連するのかということを少し考えたとき、天国も地獄もないという世界観は、まさに、作品の中でキラが登場する場所を与える土台になっているのではないか、と思う。つまり、人間の生に対する裁きが、死後に行なわれるのではなく、死という形で、この世で実現するわけである。


 しかしながら、発明品としての天国や地獄といったもののことを考えると、死というものが、人間にとって、それほど大した限界づけにはならないのではないか、とも思う。天国とは、つまるところ、無限に快楽が与えられる場所であり、逆に、地獄はいつまでも苦痛が与えられる場所のことだろう。地獄というものを発明した人間は、非常に恨み深く、憎しみ深かったと思われる。というのも、おそらく、その人は、悪人が死ぬということだけでは満足できなかったと考えられるからである。もし、死後には無しかないということを聞いたなら、その人は、「そんなのは不公平だ」と言うのではないだろうか?


 ここにおいて問題になっていることは、もちろん、人間は死んだらどこに行くのかということではなく、人間の生とはどのようなものであるのかということである。天国や地獄の存在は、人間の生を下支えしてくれるものである。宗教的な価値観は社会的な価値観とは異なるという点で、人間の生を常に有意味なものにする余地を与えているのだ。人間の死後には無しかないという発想は、決してわれわれを自由にはしないだろう。むしろ、この生が絶対化されるという点で、われわれの生というものは非常に息苦しいものになることだろう。


 『DEATH NOTE』が与えてくれるものとは、言ってみれば、一陣の涼風のようなものである。それは、生や死といったものに対する一種の無頓着さに貫かれている。それは、言うなれば、ニヒリズムの風である。それは、生の価値を、極限までゼロに近づける試みである。そのような形で、逆説的に、生というものに意味を与えるのである。『DEATH NOTE』の美術的なスタイルをデカダンスと呼ぶことはおそらく可能だろうが、デカダンスのスタイルとは、「生きることとは、すなわち、死を先取りすることだ」というものではないだろうか?


 『DEATH NOTE』の世界は、まるでゲームの世界のようだが、そこでは、命をかけた駆け引きなどというものが問題ではない。福本伸行のマンガとは違って、そこでのゲームは、生に対する価値低下から要請されてくるものである。重要なことは、生き残ることではなく、ゲームに勝利することである。つまり、ゲームは、そこで、手段ではなく、目的になっている。むしろ、そこでは、生きることへの執着が厄払いされているのである。


 リストカットという行為には二重の意味があるように思う。ひとつは、まさに、死の方向性、生の価値を低下させる方向性、一線を越えればいつでも死ぬことができるということを確認することでリラックスし、生の安定を取り戻そうとする試み。もうひとつは、生の方向性、自分自身が生きていることを確認する方向性、自分が死人ではなく生きているということを血の温かさと痛みによって知る試みである。このリストカットの一線が、今日の時代の一線、生と死の一線という気がする。言い換えれば、天国と地獄というのは、あの世の話ではなく、この世の話である、ということだ。この世の地獄とは、意味もなく(何の報いもなく)苦痛を受け続けることであり、まさに、そうした苦痛からの脱出口が、無としての死となるのではないだろうか? 無というのは、商業的に言えば、御破算ということであり、それは、収支がマイナスのときに強い意味を持ってくるように思うのである。