この世の彼方としてのエルドラド

 ヴェルナー・ヘルツォークの1982年の映画『フィツカラルド』を見た。この映画は、同じヘルツォークの作品である『アギーレ』と同様、エルドラドを描いた作品だと言える。


 エルドラドは、理想郷とか黄金郷と訳されるが、そこで問題となっているのは、ある種のユートピアとはまったくの別ものだろう。少なくとも、ヘルツォークの映画においては、それは別ものである。というのも、『アギーレ』においても『フィツカラルド』においても、具体的にエルドラドが描かれることはない。エルドラドは常に彼方にある。それは、無限に続くかとも思われるアマゾン川の果てにあるものであり、主演のクラウス・キンスキーの力強いまなざしが常に見据えているものである。


 『アギーレ』は、まさしく、そのような彼方についての映画である。アギーレたち一行は、アマゾン川を遡っていくが、彼らが最後にどこかに行き着くことはない。というのも、エルドラドはこの世に存在しないからである。エルドラドの存在の地位とは、まさしく、この世を越えた場所にあるということである(こうした点で、アギーレは、純然たる理想主義者だと言える)。


 同様に、『フィツカラルド』も、彼方を描いているとは言えるのだが、その描き方は非常に興味深いものである。フィツカラルドたち一行は、アマゾン川の支流を遡っていき、船で山を越え、また別の支流を下っていって、最終的には、その出発点に戻ってくる。僕は、映画を見ていて、船が山を越える必然性がまったく見えなかったのだが、しかし、彼方という観点からすれば、まさに、この無意味な山越えこそ意味がある行為だと言える。原住民たちが黙々と作業をするその先には、間違いなく、彼らが信じるエルドラドがあったことだろう。


 結果から見ると、フィツカラルドは、何も得てないように見える。鉄道も走らないし、オペラ劇場も建設することはできなかった。しかし、鉄道もオペラも、彼にとっては、彼方に至るための手段に他ならないだろう。そうした点で、彼は、船で山を越えたとき、彼方を垣間見たのであり、その経験は非常に崇高な経験だったと思えるのである。