裏表のない人間――『スミレ17歳』

 永吉たけるの『スミレ17歳』というマンガを読んだ。このマンガは、いわゆる「中の人」という観念について、いろいろなことを考えさせられる。


 人形のスミレとそれを操るオヤジとの関係は、文楽のことをすぐさま連想させる。文楽では、周知の通り、人形をメインに操る者が、堂々と、人形と共に舞台に上がる。その人形が操られていること、その人形を操っているのが誰なのかということは、まったく隠されていないのである。


 中の人という観念は、常に、表面と裏面との間の距離を問題にしている。表に出ているものが単なる見かけであり、その裏面・内面には、別の何かが隠されているという発想である。オヤジはスミレの中の人だと言える。しかし、自分が人形を操っていることを白日の下にさらしている点で、ここに別の視点が浮かび上がってくるのである。それは、つまり、スミレこそがオヤジの中の人だ、という視点である。


 ネットという領域は、ことさらに、このような表面と裏面との関係が問題になる場所のように思われる。そこでは、常に、裏面に目が向けられている。話者が何を言ったのかということではなく、話者が何を狙ってそういうことを言ったのかということに注意が向けられているのである。そうしたシニカルな思考に対して、『スミレ17歳』というマンガは、裏面に還元されない表面の過剰性とでもいうべきものを対置させる。罠は、むしろ、表面の背後には常に裏面があるはずだという発想それ自体にあると言えるだろう。『スミレ17歳』の登場人物たちは、この裏面を見出そうと躍起になるが、その試みはいつも失敗する。


 『スミレ17歳』は、言ってみれば、『走れメロス』のような作品だと言える。何も信じられない人間に、何かを信じる道を指し示しているのである。メロスは、裏表のない人間と言えるが、スミレは(というよりもオヤジは)それを別の形で示しているのである。