母親以上に母親的なもの

 昨日、手塚治虫のマンガにおける母親的なものということを少し書いたが、そのことについて、もう少し詳しく書いてみたい。
 このテーマに思い至ったのは、今年、『ハトよ天まで』という手塚のマンガを読んでいたときである。この長々としたマンガで何が描かれているのかということを考えたときに、母親的なものというテーマが思い浮かんだのである。つまり、この作品のストーリーは、一匹の大蛇が双子の男の子を母親の代わりになって育てるというものであるが、この大蛇の役割がこの作品の中心的なテーマではないのか、と思ったのである。
 まず注目すべきところは、この大蛇が、自分の子供でも何でもない人間の子供を育て、その成長を常に見守っている、という点である。彼女は、双子の父親に助けられた恩を返すために、(失踪した)双子の母親の姿をして現われるわけだが、このちょっとした人助けが、その後、数十年にもわたって彼女を拘束することになるのである。その描き方は、まるで、進んだ時計の針は元には戻せない、という感じである。
 大蛇は、ここで、母親の役目を演じ続けるわけだが、この演じ続けるという点が注目に値する点である。その役目は、明らかに、実際の母親がやったであろうこと以上のものであると言える。というのも、大蛇は、双子が危機に陥ると、どんな時であっても、どんな場所であっても、彼らを助けに行くからである。
 最終的に、この大蛇の働きが報われることはなく、双子の本当の母親が現われ、大蛇が母親の代わりをする必要はなくなるわけだが、こんなふうに、徹底的に酷使される存在というのも、ひとつの母親像であることは間違いない。それは、子供のためなら何でもするという母親像である。だが、そこで描かれているのは、本当の母親ではない。それゆえにこそ、ここで描かれているのは、極めて観念的な母親像、母親以上に母親的なものだと言っていいだろう。
 昨日、少し問題にした『火の鳥』の「望郷編」で描かれるのは、以上のような母親像とは少々異なったものである。というのは、そこでの母とは、文字通り、すべての人間を生んだ存在、すべての人間の起源にいる存在、イブとしての母だからである。
 この「望郷編」を母というテーマとさらに関わらせるのであれば、それは、やはり、望郷というテーマ、ノスタルジーというテーマと結びつけることだろう。つまるところ、望郷のテーマとは、母がいる場所はどこなのか、ということである。そして、その点に関して、手塚治虫が加えた若干の捻りは、その場所はこの世のどこにもない、ということである。主人公のロミは、故郷の地球に帰るが、そのとき、地球は、徹底的な管理社会、一種のディストピアになっていて、非常に居心地の悪い場所になっている。それでは、彼女の作った惑星エデンはどうかと言えば、その星もまた、荒廃が進み、彼女の子孫たちはみんな死んでしまう。あとには、再び荒地だけが残り、その荒地に、彼女の死体が埋められるわけだが、そこで見つけられた故郷とは、まさに、この世のどこにもない場所だと言っていいだろう。
 このように考えてくれば、母の存在とは、常に彼方にあるものだ、ということが言えるかも知れない。このことの証左は、昔「週刊少年ジャンプ」に連載されていた『アウターゾーン』という作品の第一話目のエピソードに逆説的な仕方で見出すことができる。
 その第一話目のストーリーとは、まさに、母親の問題を扱ったもので、鬼のような母親が本当に鬼になってしまい、最後には、この世から消滅してしまうというものである。この母親には小学生くらいの息子がいて、この息子がこのエピソードの主人公なわけだが、彼は、最終的に、やさしい隣のお姉さんの子供になる。つまり、母親らしくない本当の母親よりも、血は繋がっていないが母親のような存在である他人のほうが母親の資格があるというような教訓的な物語がそこで提示されているわけだが、これほどリアリティのない話もないと言わねばなるまい。というのも、おそらく、この男の子にとって最も望ましいことは、隣のお姉さんが母親代わりになることよりも、鬼のような母親がやさしい母親になってくれることだったはずだと考えられるからである。つまり、自分がそれまで母親だと思っていた人物がいくら鬼のような人間だからといって、その人物を一端母親と認めてしまったからには、その関係をそうやすやすとはなかったことにはできないだろう、ということである。
 この鬼のような母親の背後にいる別の母親像こそが、母親以上に母親的なものであると言えるだろう。それは、絶対的な母親とでも言うべきものであり、その絶対性の証拠となるものを、われわれは、様々な形で、この世で探そうとするのではないか、と思うのである。