スーパーロボットを巡る男の子の問題

 スーパーロボットからリアルロボットへ、という話をよく聞くが、しかし、そもそも、スーパーロボットの代表格である『マジンガーZ』とそれ以前の『鉄人28号』との間にも大きな違いがあるように思える。その違いというのは、ひと言で言えば、鉄人が遠隔操縦であるのに対して、マジンガーパイロットが乗りこむことによって直接操縦されるということである。


 これは、単に、操縦方法の違い以上の問題を提起しているように思う。それは、すなわち、遠隔操縦のロボットのほうが、ロボットの自律性とでもいうべきものを確立し、ロボットと操縦者との間に一種の友情関係が芽生えるのに対して、乗りこむ型のほうのロボットは、操縦者がロボットの中に入りこむということで、そのロボットと操縦者との擬似的な一体化が生じるということである。


 ロボットがあたかも人間のように意思を持って話をする、というタイプの巨大ロボがあるが、そうした巨大ロボと遠隔操縦のロボットとの間には、非常に似通ったところがあるように思う。ここにおいては、ロボットと操縦者とは別の存在であることは明らかである。しかし、メカの中に操縦者が入りこむ型のロボットは、様々な変身をすることによって強くなるヒーローと同様に、主人公に力を与える存在であると言える。それは、武器である以上に、操縦者の力の具現化である。


 男の子向けの作品が提起する大きな問題として、この力の問題がある。ヒーローものの作品で、力が強いことは果たして良いことなのか、などという問題提起がなされることなど、おそらく、皆無だろう。というのも、ヒーローものの作品においては、力が強いことは、悪と闘うのに役立つという点で、絶対的に正しいことだからである。しかしながら、スーパーロボットからリアルロボットへの移行とは、まさに、そんなふうに力の強さを追い求めることへの疑問が提起されることへの移行だったと思われる。例えば、『機動戦士ガンダム』において、終始注意が向けられていたこととは、「お前が強いわけではなく、お前の乗っているガンダムが強いんだ」というロボットと操縦者との間の分離だったと言えないだろうか?


 いずれにせよ、現時点から振り返ってみると、遠隔操縦によって動き、誰が操縦するかによって正義にも悪にもなるという、『鉄人28号』の設定は、非常に斬新だったと言える。『鉄人』において提起されている問題とは、「ロボは僕のものであってほしいが、しかし、ロボは僕のものではない」という別の形で提起される分離のテーマである。この点については、他のヒーローものの作品と共に、じっくりと考えなければならないところである。