スティグマのない肉体をどのように使用すべきか?

 アニメやマンガにおける転校生の役割とはどのようなものだろうか? 転校生には、簡単に言って、二つの種類があるように思える。ひとつは、主人公が転校生で、新しい学校に主人公が通うことになるパターンと、登場人物のひとりが転校生で、主人公の通っている学校に新しく転校生がやってくるパターンの二つである。最近放送されたいくつかのアニメを見ていて、前者のパターンに該当する作品がいくつかあったので、上記のような疑問を少し抱いたのである。


 『プリンセス・プリンセス』と『学園ヘヴン』というBL系の二つの作品においては、共通して、季節外れの転校生が主人公だった。ここでのポイントは「季節外れ」というところだろう。学期の途中に転校してくることの物語構造上の機能とは、異次元の世界としての学園に入り込むという意味合いが非常に強くあることだろう。つまり、主人公である転校生は、学校の雰囲気や機構といったものがすっかり出来上がってしまったところに入りこんでいくわけである。主人公の同学年の生徒も、その学校に馴染んでいる。状況が把握できていないのは主人公だけであり、この無知の状態が視聴者の視点と重なるわけである。これは、言ってみれば、『不思議の国のアリス』と同じような物語構造をしていると言えるだろう。


 同じようなことは、転校生ばかりではなく、小中高と続いている私立の学校に途中から入ってくる生徒という設定にも言えることである。これは、『ストロベリー・パニック!』や『マリア様がみてる』、そして、古くは、『おにいさまへ…』といった作品に見出すことができるものである。これらの作品の主人公の共通点とは、上流階級出身の生徒ではない、ということである。そうした生徒がお嬢様学校に入ることによって、言ってみれば、ファンタジー異世界に入りこむように、驚くべき経験をするというのがそのメインのストーリーになるわけである。


 上記の作品において、学園というものがひとつの孤立した世界を形成しているということは間違いない。そこにおいては、ほとんど、その学園の外部というものは描かれない。例えば、そのとき、日本の政治状況はどうなっているのか、などということは描かれないのである。このような作品構造そのものを対象化した作品として、『極上生徒会』の名前を上げることができるだろう。『極上』においては、ひとつのアジールとして学園が機能している、つまり、個々人が抱えている様々な問題が一旦棚上げされるような場所として機能しているのである。


 こうした世界を単なるユートピアとして捉えるべきではないだろう。そこには、やはり、描かれていないもうひとつの世界があると考えるべきである。異世界ものの作品は無数にあるが、そこで重要なのは、常に、その世界ではない別の世界である。異世界と現実世界とを対立させることは、おそらく、間違っている。現実世界と異世界とは対立関係にあるのではなく、現実世界の鏡像が異世界であると考えるべきである。現実世界とは、それを捉えることが常に不充分に終わってしまうような世界である。現実世界は世界として完結していない、と言えるだろう。それゆえ、もうひとつの世界であるはずの異世界も、世界としては不完全なのである。この欠落から夢想される異世界異世界こそが、現実世界を捉えるための鍵となるような世界だと思えるのである。


 問題となるのは「ここではないどこか」である。それは決して具現化されない彼岸の場所だと言える。だから、異世界ものとは、常に何かが足りない世界として現われてくるのである。『十二国記』で描かれる異世界は、現実世界以上にうんざりさせられる世界だという点で、完全なディストピアだと言える。この世界では、人々の寿命が異常に長いために、様々な苦しみもまた、必要以上に延長されているのである。


 今日のわれわれにとって、欠損しているものは非常にたくさんある。地図もなければ、コンパスもない。さらには、目指すべきエルドラドもないといった状況ではないだろうか? そうした点で、異世界とは、地図もあり、コンパスもあり、エルドラドもある世界だと言える。しかし、それだけあっても、まだ不十分なのである。足りないものとは、言ってみれば、必然性、あの道ではなくこの道を歩いていくことの必然性である。始めのほうで名前を上げた作品の主人公たちは、一様に、「なぜ自分が選ばれたのか」という問いに悩まされてはいないだろうか? ここに欠けているのは、一種のスティグマであり、スティグマこそがわれわれを世界の中にピン止めするようなものなのである。


 ここにある悩みとは、言ってみれば、「普通の人間の悩み」であり、この悩みは『涼宮ハルヒの憂鬱』でハルヒが抱いていた悩みである。それはスティグマがないことの悩みである。古谷実は「普通」ということをテーマにして作品を描いているマンガ家だと言えるが、しかし、そのマンガで描かれていることはとても普通の話だとは言えない。このギャップは、われわれの生を明確にピン止めするものがないことから結果するものだと言える。普通の生活というものが安定と平穏に彩られているとすれば、それを脅かすような不安定なものに、われわれは常に不安を持って魅了されていると言える。高所恐怖症の不安とは、自分が自分の意志にほとんど反してビルの上から飛び降りてしまうことへの不安だと言える。つまり、そこには、彼岸の場所へと惹きつけられるものが自らの内にあるということである。


 われわれは、端的に、自らの肉体を持て余していると言えないだろうか? 問題となっているのは、自分の肉体の使用の仕方、自分の肉体の使い方である。自殺というのも、まさに、自分の肉体を使うひとつの使い方である。この点で、リストカットのような自傷行為と自殺との共通点が見えてくる。自傷行為にしても、自殺にしても、それは、ある意味、非常に充実した肉体の使い方なわけである。それは、スポーツに似た行為だと言えるかも知れない。そこで目指されているのは、ひとつの限界に向けて、肉体の緊張度を高めていくことである。


 肉体というものは使われるべき何かだと言えるが、しかし、それをどう使っていくのかが問題である。普通の肉体の扱い方とは、肉体をほとんど未使用なまま、温存しておくことである。健康管理とは、肉体を過剰に使いすぎないようにする、ということである。充実した肉体の使い方が、例えば、自爆テロのようなものだとすれば、それに匹敵するような肉体の使用法を現代の日本社会で見出すことは非常に難しいことだろう。この困難さこそが現代の問題だと言える。