『ガラスの艦隊』の放送打ち切りに関して

 『ガラスの艦隊』が、テレビ朝日で、最終回一話前で放送終了した件について、思ったことを少し書いてみたい。


 いったい、どうして、こういうことになってしまったのか、事情はよく分からない。公式サイトには、放送終了の告知だけはあるが、なぜそういうことになったのかという事情説明はまったくない。放送局の問題なのか、製作会社の問題なのか、よく分からない。


 原因究明は、今のところ、憶測にしかならないので、もっと別の角度から、この問題を扱ってみたい。


 まず第一に、今回のような処置から窺えるのは、アニメというものの価値が非常に低いものである、ということだ。つまり、アニメは、最終回まできっちりと放送する必要などなく、いつでも、好きなときに、打ち切ることができる、ということである。もちろん、製作会社と放送局との間には何らかの契約があるだろうが、視聴者に対しては、そのような義務感はまったく抱かれていない、ということである。


 それでは、なぜ、アニメをTVで放送するのか? アニメをTVで放送することの意味とは何か? こうした問いに、テレビ局は、はっきりした答えを提示できなければならないが、おそらく、そんなことはほとんど何も考えられていないことだろう。それでいて、ホリエモンがフジテレビを買収するという騒動が起こったときにだけ、公共性云々という話が出てくるというのは、おかしな話だと言わねばなるまい。


 今回のような出来事が起こらないためには、もはや、TVというメディアにそれほど期待を持たないことが必要だろう。言い換えれば、今後は、TVの役割を相対的に低めることが重要だと思う。実際に、TVの持つ役割というものは、年々、低くなっていることだろう。今のところ、ネットぐらいしか、代替手段を思いつかないが、ネットの役割が大きくなれば相対的にTVの役割は低くなってくることだろう。


 あらゆるジャンルに関して言えることだが、現在の流通過程においては、クリエイターと消費者との間に、非常に多くの中間団体が入り込んでいる。今回の出来事は、明らかに、この中間団体内での利害関係のいざこざの結果、起こったものだろう。ネットの利点は、こうした中間団体をほとんど介在させないところにある。クリエイターと消費者との間に直接的な関係を結ぶことが可能となるのだ。


 おそらく、経済的水準を完全に無視するとすれば、YouTubeのような場所が、クリエイターと消費者にとっては、理想的な空間であるのだろう。しかしながら、現在の社会においては、経済の水準は決して無視することのできない最も重要な水準だと言えるだろう。こうした点で、ネットという空間は、ヴァーチャルな形で先取りされたユートピアの空間だと言える。このユートピアにおいては、いつも遅ればせながらに、お金の話がついて回るのである。


 僕は、今回の事件に関連して、掲示板やブログをいくつか見て回ったが、そこで、多くの人が怒りの感情を露わにしていたというのは、当然と言えば当然のことだが、しかし、驚くべきことだとも思った。つまり、この怒りとは、言ってみれば、信頼を裏切られたことに対する怒りなのである。アニメを最終回まで放送すること、これは、視聴者との間に直接的な契約関係がないぶん、純粋な信頼関係の問題になってくると言える。


 では、誰が裏切ったのかと言えば、その点が曖昧なのだが、テレビ局に責任の一端があることは間違いない。少なくとも、事情を説明する義務があると思うが、それを怠るならば、さらに視聴者の不信を買うだけだろう。


 話を最初のほうに戻せば、つまるところ、テレビ局は、『ガラスの艦隊』を見ているような少数の人間からは、信頼されようが不信感を持たれようが、どうでもいい、ということなのだろう。つまり、そういう人たちが、仮に、TVを見なくなっても、テレビ局側にとっては痛くも痒くもない、ということである。これこそが、テレビ放送において、アニメの価値が非常に低いものであることの具体的な意味であるだろう。


 僕は、アニメの価値を高める必要など、まったくないと思っている。必要なのは、この惨憺たる風景を、目を逸らすことなく、じっと見つめることだろう。自分にとって重要なものが、多くの人にとってはまったくの無価値である、ということは間々あることである。この不均衡を作り出しているものこそ、権力と呼ばれるものであり、われわれは、いずれにせよ、この地平から出発するしかないのである。