終わる予感と終わらない物語

 劇場版『うる星やつら』の第5作目である『完結編』を見た。この作品は、何でも、原作のマンガの最終巻をアニメ化したものらしい。従って、この『完結編』は、『うる星やつら』の公式的な最終話だと言っていいのだろう。


 物語は、そこで、原点回帰をしている。つまり、『うる星やつら』の第1話で行なわれたラムとあたるの鬼ごっこが最終話でも繰り返されているのである。こうした一種の円環構造を持つ作品は、決して珍しくはないだろう。物語の始まりが同時に終わりにもなる、というような構造である。


 僕は、『うる星やつら』の熱心な読者でも視聴者でもないので、断定的に述べることができないが、この『完結編』を見ると、作品の後期ぐらいには、作品の世界がすっかりと熟成してしまっていたのだろうと思われる。言い換えると、その世界においては、もはや新しいことは何も起こらない、ということである。それゆえ、『完結編』で行なわれていることは、言ってみれば、お約束の確認というものでしかないように思われる。こういう場面には、こういう登場人物が出てきて、こういった台詞を言うということが、完全に定型化しているのである。


 それゆえ、物語のラストも、作品はここで終わるが、作品世界は永遠に続く、というものになっている。実際、『うる星やつら』の劇場作品は、この後もう一作だけ作られることになるわけだが、別に何作作られようとも、物語が真の結末を向かえることはないだろう。


 ここで、なぜわれわれは物語世界の永続を望むのか、という問いを立てることができるだろう。『うる星やつら』の物語が終わらないのは、作者と共に読者がそれを終わらせたくないと思っているからに他ならないだろう。


 物語の終わりを印づける指標とは、何か不可逆的なものがそこに導入されているか否かという点にあると言える。例えば、コナン・ドイルは、シャーロック・ホームズ・シリーズを一度終わらせようとしたときに、主人公の死という契機を導入しようとした。ここで理解されるのは、ドイルがひとつの決意をしたというだけではなく、物語世界におけるある種の共通了解のようなものがある、ということである。つまり、死んだ人間は二度と生き返らないということが、そこで、暗黙の条件になっているわけである。従って、ドイルがホームズ・シリーズを再び書き始めたとき、そこでもたらされた変更点というのは、ホームズは実は死んでいなかった、というものである。つまり、ドイルは、一度作品の中に不可逆的なものを導入したが、その導入を後で撤回したわけである。それゆえ、物語世界は、ここで、次の局面に移行しているわけではまったくないのである。


 『うる星やつら 完結編』の奇妙なところは、つまるところ、「完結編」と銘打っておきながら、そこにおいて何も終わっていないところにあるだろう。何かが終わる予感というものは、作品の中でも確かに描かれている。それは、言ってみれば、(宮台真司が言うような意味で)日常生活の終わりである。


 今日の作品には、この「終わる予感」を描いた作品というものがたくさんある。代表的なのは、『最終兵器彼女』だろう。このマンガでは、回顧的な視点から現在というものが描かれるのだが、そこにおいて絶えず確認されるのは、何かが終わってしまったということである。何かが終わった瞬間を絶えずそこで確認しているのである。マンガの第1巻の大半を占める第三章のタイトルは「最後の日々」というものだが、この最後の日々から最終的なカタストロフまでの間には、まだかなりの時間がある。それにも関わらず、そこで名指されているのは「最後の日々」というものであり、つまり、ここで過剰に意識されているのは、時間の不可逆性、過去に戻ることは決してできないということなのである。


 前世紀後半、具体的には、1970年代頃から、日本のサブカルチャーにおいては、常に、この「終わる予感」が示唆され続けてきた。ノストラダムスと1999年というのが、そこにおいては、ひとつの大きな指標だった。80年代にしばしば描かれたのは、崩壊した都市の姿、そして、そこで剥き出しになる大地の姿である。この大地は、まさに、都市の文明が一種の虚偽であるということ、都市での生活が虚構めいたものであるということを意味していたのであろう。


 2000年代に入ってから頻繁に出現するようになった自然の風景は、荒れはてた大地よりも、過剰に溢れ出す水、陸地を侵食する海の風景である。前世紀のカタストロフ的な未来像を越えて、それなりにリアリティのあるものとして提出されてきているのは、火星のテラフォーミングのような発想だが、これは、もちろん、人類の宇宙進出という古いSF的発想の焼き直しにしかすぎないだろう。それゆえ、そこで立ち現われる世界は、ユートピア(『ARIA』や『絢爛舞踏祭』)かディストピア(『Avenger』)かのいずれかに落ち着いてしまうのである。


 ここで支配しているイメージは、豊穣な水の世界か、水の枯渇した世界(赤茶けた大地の世界)かのいずれかである。他方で、今日、頻繁に見かける風景は、夏の風景である。季節というものがなくなり、夏だけがずっと続くような世界を描いた『新世紀エヴァンゲリオン』は、やはり、非常に示唆的である。つまり、ここで問題になっているのは、いつか終わるものとしての夏、夏の終わりなのである。あるいは、ここで、『AIR』の「千回目の夏」という量によって表わされた夏のことを考えてみてもいいだろう。『創聖のアクエリオン』の「一万年と二千年前」についても言えることだが、ここには、量がひとつの質へと変化する瞬間があるのだ。


 つまるところ、夏というのは、ひとつの季節というよりも、ひとつの世界だと言ったほうがいいだろう。そうした点で、アニメ『あずまんが大王』で少しだけ触れられていた「夏休み最後の日」の持っている意味は非常に重要なものである。というのは、それは、単に夏の終わりを意味しているだけでなく、世界の終わりをも意味しているからである。このことを明確に描いた作品が『うた∽かた』であるだろう。この作品では、ある少女の夏休みの生活が描かれるのだが、そこにおいて、夏休み最後の日は、その少女のあらゆる生活状況が変化する日として示唆されている。それは、具体的には、少女が海外に引っ越しをする日なのであるが、しかし、そこには、引っ越し以上の意味が込められている。そこで終わることが予感されているものは、楳図かずおの『わたしは真悟』で描かれていたような子供時代の終わりに似たもの、上手く言うことができないが、ひとつの幸福な時代の終わりなのである。


 何かが終わらなければならない、あるいは、何かが終わるに違いない、という発想がここにはある。可逆性と不可逆性、それらの区別が判明でないのが、今日という時代なのかも知れない。つまり、そこには、発展もないし、後退もない、ということである。終わりを求めようとする発想は、やはり、性急であると言わねばならないだろう。むしろ、われわれの時代では、もはや大きな出来事など存在しないと思ったほうがいいのかも知れない。しかし、起伏のない生ほど耐え難いものはないとも言える。物語の着地点。そこにこそ、注目すべき点がある。