プロクルステスの寝台



 今日、この世界には多様な情報が溢れている。その結果、人の趣味もライフスタイルも多種多様になっている。だが、こんなふうに受容されている情報が多様ではあっても、そうした情報を受容する人間のほうも多様であると言えるのだろうか?


 われわれは、日常生活において、自己の認識の限界に突き当たるなどということはめったにない。しかし、これは、よくよく考えてみれば、奇妙なことである。つまり、その状態を言い換えてみるならば、われわれは、この世界のすべてのことを理解しているということである。われわれにとって未知のものなど存在しない。これこそが認識の限界に直面しないということではないのか?


 問題は、単純に、知っていることがあり知らないことがある、ということではない。そのような「知識」とは別の水準で、認識できるものと認識できないものとを区別することが可能だ、ということである。われわれは、あるものについて、その知識を持っていないことがある。しかし、そんなふうに知らないという形で、われわれは、それを知っているのである。それゆえ、こうした知識の土俵にも上ってこないような、別の水準のものが想定できるわけである。


 道具の使用というものを考えてみよう。往々にして、道具とは、われわれの認識を狭める働きを持っている。カフカはこんなことを言っている。

模写の技術が改良されるにつれて、私たちの眼は弱くなる。器具が器官を萎えさせてしまう。視覚、聴覚、通信交通みんな同じことです。戦争を通じてアメリカがヨーロッパに入ってきました。大陸と大陸は絡み合い、電波は人間の声を乗せて一瞬にして世界を巡ります。われわれが生きているのはもはや人間的に制約された空間ではなく、大小幾億の世界に取り巻かれた小さい破滅の星なのです。宇宙が奈落の口を開け、その奈落の底にわれわれは日々ますます個人の行動の自由を失ってゆく。やがて日ならずして、わが家の中庭へ下りてゆくにも、特別な通行券を必要とするようなことになるのではないかと思います。世界はゲットーに変貌するのです。
(グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』、吉田仙太郎訳、ちくま学芸文庫、171-172頁)。

 われわれが、どこかに、観光旅行に行ったときのことを考えてみよう。ガイドブックを見ながら名所を巡り、写真を撮り、お土産を買って帰る。こうした行動の隅々に、事前に規定された意味づけを見出せないだろうか? 遠く離れた土地に行ったとしても、そこで体験されるのは、未知の出来事というよりも、既知の出来事と言えないだろうか? ここで大きな役割を果たしているのが、ガイドブックであり、カメラであり、お土産である。これらのものはすべて、われわれに、ある種の達成感を与えてくれる。ひとつひとつのポイントで、われわれの行動に、明確な意味を与えてくれるのである。だが、こんなふうに観光旅行に行った人は、どこへ行って、何を見て、何を聞いたと言えるのであろうか?


 情報化社会において、とりわけ失われつつある能力とは、われわれの思考能力ではないのか? あまりにも情報が多すぎるために、自分ひとりだけでは情報を処理できずに、それを何か外的なものに委ねてしまう。その代表的なものがマスコミであるだろう。マスコミは、政治、経済、社会など、この世界で起きているあらゆる出来事に対して、適切なコメントと反応を示してくれる。われわれが問題にしなくとも、彼らが問題にしてくれる。かくして、われわれは、日常生活の難題に専念することができるというわけだ。


 上に引用したカフカの発言は、『審判』や『城』の作者に似つかわしいものだと言える。彼が予言したような管理社会は、今後ますますリアリティを持ってくるに違いない。そうなれば、小説の主人公であるKのような、システムの綻びによって押しつぶされてしまう人間がたくさん出てくることだろう。カフカは次のようなことも言っている。

われわれはめいめいがじつは迷路そのものなのに、定規で引いたような生活をしています。事務机はプロクルステスの寝台ギリシャ伝説によれば、プロクルステスという盗賊が人を捕らえては寝台に寝かせ、その寝台の長さに合わせて、身体を長く引きのばしたり、短く切ったりしたという)です。
(同書、172頁)。