人生ゲーム



 人間にとって、幸福であることは、それほど重要なことなのだろうか? そもそも、何が幸福なのか、という問題が存在することだろう。何を幸福と思うかということは人それぞれだ、と言うことはできるだろう。しかし、それと同じくらい、われわれは幸福に対して共通のイメージを持っていないだろうか?


 人生というのは、幸福を得るために、みんなで争い合う戦場のようなものなのだろうか? 幸福な人間がいて、そうでない人間がいる。幸福な人間は意味のある人生を送り、不幸な人間は無意味な人生を送っている、そんなふうに言えるのだろうか?


 われわれの人生観には投機の観念のようなものがないだろうか? 成功した人生と失敗した人生。賭けに勝った人生と、賭けに負けた人生。そうした二つの人生があり、当然とは言え、前者のほうばかりにスポットライトが浴びせられ、人々をさらなる投機へと誘う。


 様々な商品の宣伝文句にも、投機の観念を見出せないだろうか? 「この商品を買えば、あなたも○○になれます」。つまり、そこに投資をすれば、大きな見返りが得られる、ということだ。商品を買うことは、その代金と等価のものを買うことでは必ずしもなくなる。商品を買うことの内に、賭けの要素が加わってくる。将来に大きな利益をもたらす商品もあれば、むしろ逆に、大きな損失を被ることになる商品もあるのだ。


 お金と時間、それらは、投資という目的の他には使われないのだろうか? 見返りを得ること、われわれは、そのことにしか興味を持てないのだろうか?


 われわれは、最終的に、何を求めているのだろうか? 何を得るために生を投資しているのだろうか? 拡大し、成長すること。それは、ひとつの快楽である。それは、ひとつの意味を与えてくれる。以前よりも大きく、以前よりも高く、以前よりも速く。何事においても前進することは良いことであり、後退することは悪いことなのである。


 偉人、それは、われわれの社会にあっては、投機に成功した人間の名である。偉人伝の手にかかると、人間のあらゆる行為が投機となる。二宮尊徳などは、さぞかし、素晴らしい投資家なのだろう。だからこそ、学校の校庭に、その銅像が建てられているのだろう。努力というのは、ここでは、投資によって大きな見返りを得るための秘訣である。


 こうした生にあっては、死とはゲームの終わり以外の何ものでもないだろう。それは、われわれの幸福を脅かす不確定要因である。しかし、死なない人間などいない。だとすれば、いったい、誰がこのゲームのプレイヤーなのだろう?


 「人生ゲーム」と名づけられたあのゲームが示しているのは、まさに、こうしたわれわれの人生観そのものではないだろうか? だからこそ、われわれは、あのゲームを楽しむことができるのではないか? 他人の人生ほど楽しいものはない。なぜなら、そこでいくら失敗したとしても、自分の人生にとっては、痛くもかゆくもないからだ。