精神の生命維持装置



 村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』の中に、次のような会話が出てくる。

「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」
「人はみんな弱い」
「一般論だよ」と言って鼠は何度か指を鳴らした。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ」
 僕は黙った。
「弱さというのは体の中で腐っていくものなんだ。まるで壊疽みたいにさ。俺は十代の半ばからずっとそれを感じつづけていたんだよ。だからいつも苛立っていた。自分の中で何かが確実に腐っていくというのが、またそれを本人が感じつづけるというのがどういうことか、君にわかるか?」
講談社文庫、下巻、200-201頁)

 人間が裸で生きていくのは難しい。なぜなら、人間は弱いからである。そのため、人間は、自分の身を守るために、何か武器を持とうとする。強くなるために力を手に入れようとするのである。


 『機動戦士ガンダム』にしろ、『新世紀エヴァンゲリオン』にしろ、そこで描かれているような巨大ロボットとは、まさしく武器、主人公の弱さを補うための武器ではないのか? ナノマシンによって肉体が武器に変形する人々を描いた『プロジェクト・アームズ』は、端的に、武器が力であることを示していなかったか?


 このような武器は、物理的な攻撃から身を守るための道具というだけでなく、精神的な問題とも密接に関わっている。つまり、武器は、(『アームズ』のように)肉体の一部にはならないにしても、精神の一部にはなりうる。それは「自分は強い」という観念を与えてくれるものなのである。


 人間の弱さ、それは、人間が母体から切り離されて、ひとりでこの地上に出てくるという体験と密接に関わっているように思える。自分ひとりでは歩くこともできない赤ん坊として、人間はこの世界に放り出されるわけである。それゆえ、人は群れを作っている。お互いにお互いを支え合っているのである。


 いったい、根源的に、人間の精神を支えているものとは何だろうか? 人間は何の力で生きているのだろうか? 文化の力がなくとも、人間は生きていくことができるのだろうか?


 文化、それは、諸刃の剣である。それは、われわれを生かしもし、殺しもする。われわれは、まるで、生命維持装置をつけて生きているかのようだ。われわれはただの人として生きることができず、「お前は○○だ」という意味づけを常に文化から支給されているわけである。そして、誰もが恐れているのが、この生命維持装置を取り外されることである。


 われわれが恐れていること、それは、精神の生命維持装置とでも言うべきものを取り外されることではないのか? われわれは、母体から切り離されたときに、肉体の生命維持装置が取り外されただけでなく、精神の生命維持装置もまた取り外されたのではないか? そして、それに代わるような形で、文化が、新たな生命維持装置を提供してくれたのではないか? 再度この生命維持装置が取り外されることが非常に恐ろしいのである。


 われわれは、自分ひとりだけでは、生命を維持していくことができない。外界から何かを取り入れて、自分の肉体を再活性化することはできるが、老化と死を免れることはできない。同様に、われわれは、精神の上でも、自分ひとりだけで生きていくことが難しいのではないか? これこそが人間の弱さではないのか?


 生命維持装置をつけている人間は、死と隣り合わせで生きている。われわれは日々、死の恐怖に怯えている。外的なものに自分の生命が握られているというこの実感こそが、われわれが死を恐れる究極の原因ではないのか?