世界から世界へ、場所の移動

 昨日に引き続いて、場所の移動に関して少し書いてみたい。
 場所の移動という観点から見るならば、異世界ものの作品も、違ったふうに見ることができるように思える。つまり、場所の移動という点で言えば、異世界に行くことも、未来や過去に行くことも、他の土地に行くことも、それほど大差ないのではないか、ということである。
 しかし、そこには、やはり、何らかの区別があるように思える。ひとつひとつの作品が、そこでどうしてそのような設定を持ってきたのかということに、やはり、それなりの理由があるだろう、ということである。その必然性をどのように考えるのかというときにも、場所の移動という視点が有効であるように思えるのだ。
 例えば、『ツバサクロニクル』において、中心的な経験として示されているのは、他の世界にも同じ人物がいる、ということだろう。まず、そこで、前提としてあるのは、世界には、同じ人間はひとりしかいない、ということである。これは、論理的に言って、まさにそうであるだろう(完全に同じ性質を持った人間が二人いるとしても、そこで二人いるという時点で、その二人は別の存在者だろう)。このことから、仮に、世界が複数存在するのであれば、それぞれの別の世界に同じ存在者がいる、ということが成り立つことになるだろう。こうしたリアリティは、『劇場版 鋼の錬金術師』でも描かれていたことであるが、いったい、そこで何を示そうとしているのだろうか?
 単純に言って、そこで示されようとしていることとは、私が存在していることは必然的であったとしても(私が存在していることは不可逆的な出来事であるとしても)、私が現在そうあるようにあることは偶然的である、ということだろう。言い換えれば、そこで示されているのは、一種の相対化であり、もし周囲の環境が現在と異なるものであるのなら、私も違ったものになっていただろう、という想像である。
 だからといって、ここで、別の場所で生まれればよかった、ということが主張されているわけではないだろう。ここでの相対化の狙いは、現在の状況が絶対的なものではないというところにあり、その結果、少しばかり自己を自由にするところにあるように思われる(ここでの一連の問題は、まさに、『新世紀エヴァンゲリオン』で提起されていた問題であるだろう)。
 『ノエイン』で問題にされていたことも、やはり、相対化であるだろう。今日のサブカルチャー作品で、主に参照されている物理学理論と言えば、それは、相対性理論であるよりも、むしろ量子力学である。このことは、主に相対性理論が参照された80年代サブカルチャーの状況と今日の状況との差異を示している。
 相対性理論サブカルチャーの物語にもたらしたもの、それは、端的に言って、「浦島太郎」の物語に見出されるもの、つまり、われわれの有限の生は、他者と(死へ向かう)時間を共有しているがために、絶対の孤独を免れている、というものである。あるいは、別の言い方をすれば、われわれは、土地や歴史のおかげで、無限の空間や無限の時間に投げ出されずにすむ、ということである。自分がどこにいるのか分からなくなり、その結果、自分が誰なのかも分からなくなること。そうした可能性を、相対性理論は示唆しているということである。
 これに対して、量子力学サブカルチャーの物語にもたらしたものとは、端的に、観測問題で示されていること、つまり、世界は多様な可能性に満ちているが、しかし、現勢化している世界はひとつだ、ということである。ここにおいて、セカイ系の諸問題、記憶の想起や忘却の問題が絡んでくるわけだが、こうした過去の介入の問題は、相対性理論においても無縁ではないだろう。しかし、もちろん、相違点はある。相対性理論において、過去は、現在において接近可能なもの、それは、記憶の想起による過去の再現(反復)という形で問題になってくる。それに対して、量子力学においては、過去というものは、多様な可能性を持ちつつも、現在という地点から、常にすでにそうだったものになるもの、日々更新の対象になるようなものである。その点で、『ノエイン』で描かれていたような、過去に知っていた人のことを覚えていないという経験が大きな意味を持つようになるのである(『ノエイン』においても、『雲のむこう、約束の場所』においても、そこで危機として示されているのは、世界の書き換えである)。
 もちろん、断るまでもないことだが、以上述べたことは、サブカルチャー作品の物語に影響を与えた限りでの物理学の話である。しかしながら、それらの理論は、やはり、時代のリアリティに合致するからこそ、好んで参照されているのだろう。
 場所の話に戻れば、今日という時代は、まさに、物理的な場所の移動よりも、精神的なものの次元、特に記憶の次元における場所の移動のほうが、リアリティを持っている時代なのだろう。その点で言えば、『ツバサクロニクル』のような作品も、そこで記憶の問題が扱われているだけに、精神内的な場所の移動を扱っている作品と言えるかも知れない。そこにおいて、世界から世界への移動がリアリティを持つことになるのだろう。