冒険、旅、お出かけ

 昨日、『西の善き魔女』を見ながら考えたことがある。それは、言ってみれば、アニメ作品における空間分節とでも言うべき問題である。これは、別に、アニメに限る話ではないのだが、登場人物たちが土地から土地へ場所を移動する、そうした移動というものに注目することは極めて重要ではないか、と思ったのだ。
 この点で、『西の善き魔女』という作品は、非常に早いスピードで、場所を移動する作品だと言える。冒険ものの作品においては、場所というものがひとつの物語(エピソード)を形成する土台になっていて、場所の移動が物語の進展なり変更を意味することになる。このことは、『銀河鉄道999』や『ニルスのふしぎな旅』といった一話完結型の冒険もの作品を思い起こせば、容易に理解されることだろう。
 以前、僕は、このブログで、冒険ものの衰退というようなことを問題にしたが、この問題に関しても、場所の移動という観点から眺めることで、新しい整理のつけ方をもたらすことができるかも知れない。つまり、例えば、『ふしぎ星の☆ふたご姫』のような作品をどう考えるのか、ということである。
 『ふたご姫』は、明らかに、ひとつのずらしを行なっている作品だと言えるだろう。そこでずらされているのは、典型的な冒険もののストーリー、未知の国々を旅することによって様々な経験をし、結果、自身を成長させ、そのような自己の成長を通して、最終的に何らかの危機を回避する、というストーリーである。基本的に、『ふたご姫』も、そうしたストーリーを踏襲してはいるが、そこでの場所の移動は、「冒険」というよりも、「お出かけ」と言ったほうが正確であり(毎回家に帰ってくるので)、そうした狭い範囲での場所の移動(そこではいつも同じ人と顔を合わせる)においても、新しい経験を積むことは可能である、ということがそこでは示されているのである。
 このような狭い領域という観念は、『西の善き魔女』にも見出すことができるものである。そこでの性急な場所の移動は、決定的な出来事はどんな場所でも起こりえない、という一種の諦念を示しているかのようである。つまり、留まっていても、場所を移動しても、決定的な違いはない、ということである。
 『タイドライン・ブルー』のような作品を見ても、そこでの頻繁な場所の移動に、必然的な意味があるとはとても思えない(ストーリー上では意味のある移動だとしても)。『銀河鉄道999』も『ニルスのふしぎな旅』も、そこで、主人公たちは、移動しながら、常に留まってもいた、と言うことができるだろう。つまり、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』がそうだったように、主人公たちが列車に乗り続けているのに対して、他の乗客たちは乗ったり降りたりして、入れ替わっていく。つまり、旅とは、そのように留まり続けながら、やってきて去っていくものたちを眺めているという側面があるのだ。こうした旅の側面が、『タイドライン・ブルー』のような作品には見出せない、ということである。
 問題になっていることを非常に大きな視点で捉えれば、そこで問題になっていることは、自己と世界との関係、世界の持つ意味や働き、世界をどのように把握するかといった分節化、こうしたものだと思われる。ここには、必然と偶然ということも問題になっているが、同時に、内と外との分節化も問題になっている。つまり、冒険のスタート地点とでも言うべきものを確定しにくい状況がそこにはあるように思われるのである。