崇高な学問



 昨日は宇宙のことを少し書いたので、引き続いて今日もまた宇宙の話を。


 僕は、NHKなどのTV番組で、宇宙と深海を扱ったドキュメンタリーをよく見る。というのも、これら二つの領域は共に未知の部分が多い領域であり、現在においてもロマンが感じられる領域であるからだ。


 それにしても、宇宙に対しては、神秘性を感じずにはいられない。宇宙を扱う学問である天文学についてもまたそうだ。それは、われわれの身の丈を大きく越えたものを扱っている。そこで扱われる時間も空間も、われわれの生活時間を大きく越えている。NASAなどのプロジェクトで数世代に渡って行なわれるものがあるという話だが、こうしたことにも、やはり崇高さを感じずにはいられない。


 この崇高さの効果のひとつは、自分自身の存在の価値を低めることである。スラヴォイ・ジジェクがどこかで言及していたが、モンティ・パイソンのコメディ映画『人生狂騒曲』には、そのことを扱ったエピソードが出てくる。それは、臓器提供を巡るコメディで、ある男が臓器提供のカードを持っていたために、生きながら臓器を取り出されてしまう。臓器の回収人は、男からだけでなく、彼の妻からも臓器をもらおうとする。しかし、当然ながら、彼女はそれを拒絶する。臓器の回収人は彼女を説得するために、家の冷蔵庫を開けて、ひとりの男を呼び出す。その男は、彼女を宇宙空間に連れ出し、いかに宇宙が広大であるかということを、歌い上げる。それを聞き終わったあと、彼女は自分の卑小さを恥じ、臓器の提供を快諾する、というわけだ。


 モンティ・パイソンがこのコメディで暗示したことは、ある種のギャップの存在だろう。つまり、われわれは、自分の生がどれほど掛け替えのないものであるか、ということを知っている。命がどれほど貴重なものであるか、ということを知っているのだ。しかし、他方で、この命がどれほどはかなく、また無価値でもあるか、ということをも知っている。永遠に続くかと思われる宇宙の時間に比べて、人間ひとりの時間は百年あるかないかである。今までどれくらいの人間が誕生し、どれくらいの人間が死んでいったことだろう。こうしたことに思いを馳せると、自分の命も卑小なものに思えてくるのだ。


 こうしたギャップの喚起は、例えば『荘子』のような書物にも見出すことができる。その冒頭はこんなふうに始まる。

 北の果ての海に魚がいて、その名は鯤(こん)という。鯤の大きさはいったい何千里あるか見当もつかない。突然形が変わって鳥となった。その名は鳳という。鳳の背中は、これまたいったい何千里あるか見当もつかない。[…]
 斉諧(せいかい)という人は変わったことを知っている人である。その斉諧の話によると、「大鳳が南の果ての海へと天翔るときは、まず海上を浪立てること三千里、はげしいつむじ風に羽ばたきをして空高く舞い上がること九万里、それから六月の大風に乗って飛び去るのだ」という。
金谷治訳注、岩波文庫、第一冊、18-20頁)。

 なぜ、こんな魚や鳥の話をするのかと言えば、それはまさに、宇宙の崇高さの話と同じで、われわれの身の丈から大きく跳躍するためである。それゆえ、『荘子』では、そのすぐ後に、こうした巨大なものとは対照的に、蝉や小鳥などの小さいものの話が出てくる。「朝菌は夜と明け方を知らず、夏ぜみは春と秋とを知らない」というわけだ。『荘子』は、こんなふうに、視点を次々に変えることによって、人間の視点を相対化しようとする。その目的のひとつは、自己の存在の価値を貶めることにあるように思える。


 天文学に携わっている人がどのように感じているのかは知らないが、傍から見ていると、天文学は非常に崇高な学問のように思える。それは、古代の神話が問題にしていたような、宇宙の誕生の謎に触れているのだから。人間は、不思議なことに、こんなふうにして、自分の認識を大きく超えたところに向かうことができる。しかし、いずれにしても、そこで行なわれていることは、自分がいまここにあるという謎に対して、何とか答えを与えようとする試みではないだろうか?