死の美学化



 日本人は無宗教だということがよく言われるが、やはりこの主張は、俄かには信じがたいことである。宗教の果たす大きな役割のひとつとして、死を意味づけするということがあるだろう。これは逆から言えば、生を意味づけすることでもある。人間がどこからやってきて、どこへ行くのかということに対して、回答を与えるのである。


 日本人の大部分がどのような宗教に帰依しているのかははっきりしないが、少なくとも、古典文学を読んでみると、そこには「死の美学化」とでも言うべきものを見出すことができる。つまり、死をいかに受け入れるかということに対して、昔の日本人は(そして現在の日本人もまた)、そこに美を見出すことによって対処してきたように思えるのだ。


 このことの例には枚挙に暇がない。和歌や俳句にはすべて、同様の観念が見出せると言っても過言ではないだろう。とりわけ、それは自然物の捉え方に表われている。今は4月なので、桜について話をすると、桜の花がなぜ日本人に愛されてきたのかというその理由も、日本人の死生観と密接な関係を持っていると僕は思っている。


 和歌や俳句において、自然物がどのように捉えられてきたのかということを考えてみると、個々の対象の性質が素晴らしいから、それがことさらに歌われているのではなく、その対象が期間限定のものだから歌われているように思える。つまり、そこで歌われている花や鳥は、ある季節にしか咲かない花であり、ある季節にしかやってこない渡り鳥であって、常に日本に留まっているものではなく、1年に1回しか現われないものなのである。それゆえ、こうした対象に込められる詠み手の心情とは、有限の時間の中を生きる人間のはかなさ、そうしたはかなさから生じる哀愁といったものになる。


 ひとつ例を出せば、百人一首小野小町の歌は、こうした観点をすべて集約した歌である。

花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に

 この歌は、まず一方で、桜の花の期間限定性について歌っている。つまり、長雨によって桜の花の色が褪せてしまった(桜の花の美しさは永遠ではない)と歌うのである。そして、他方では、その桜のように、無駄に時間を費やしてしまって、自分の容色もまた衰えてしまった(自分の美貌も永遠のものではない)と歌うのである。自然物の有限性と人間の有限性。その二つの有限性がひとつにまとめ上げられているのが、この和歌なのだ。自然物の変化に人間の有限性を見出しているわけである。


 つまるところ、桜の美しさとは、そのはかなさにあるように思える。咲いているそばからどんどんと散っていく、一種のデカダンスこそがそこに見出されている美ではないのか?


 この諦念にも似た美意識が日本文学を貫いているように思えてならない。そして、そのような美意識は現在にも生きていて、日本のアニメーションなどは、まさしく、そういった文脈の下に作られているように思えるのである(とりわけ、学園ものには、その衝動を見出すことができる)。アニメに見出すことができる古典的美意識の問題はいずれまた詳しく論じるつもりだが、いずれにせよ、こうした美意識こそが、われわれの無宗教を下支えしているひとつの要因ではないだろうか?