ゲームと祈り



 いま、僕は、ゲームについて、関心がある。個々のゲームではなく、ゲームそのものについて。ゲームとはいったい何か、ということに関心があるのだ。


 そんなときに、ふと思い出したのが、村上春樹の『1973年のピンボール』である。この小説の「ピンボールの誕生について」という章に、次のような文章がある(この文章は、ピンボールの研究書「ボーナス・ライト」の序文に書かれている、ということになっている)。

 あなたがピンボール・マシンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。失なうものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と[…]、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
 […]ピンボール・マシンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。
講談社文庫、28-29頁)。

 ゲームと永劫性。この観点は極めて重要である。つまり、ここで問題となっているのは時間概念である。確かに、ゲームにおいても時間の流れはある。しかし、ゲームの時間は可逆的である。常にスタート地点に戻ることができる。いわゆる「リセット」というやつだ。


 問題となるのは、ゲームの時間とわれわれの時間との間のギャップである。つまり、有限な時間によって規定されるわれわれの生と、永遠の時間の中で不死の身体をもたされたゲームのキャラクターとの間に横たわる大きな溝が問題なのだ。


 こうした観点から考えると、TVゲームに、いつの頃からか導入された「エンディング」というものは、ゲームの本質にとっては、偽りのものと言わざるをえない。それは仮の終わりであって、真の終わりではない。昔のアーケード・ゲームでよくあったように、1周目が終われば2周目が始まり、2周目が終われば3周目が始まるのだ。ゲームの中に終わりはなく、われわれがゲームをするのをやめたとき、仮の終わりがやってくるだけだ。


 こうしたことはわれわれの世界(宇宙)についても言えることだ。われわれが死んだ後でも、宇宙は続いていく。宇宙には終わりはなく(というよりも、それを検証することが誰にもできないので)、個々人の死が、世界の仮の終わりとなる。


 こうした点から、一気に話を飛躍させると、ゲームとは宗教的なものだ、と言えそうである。それは永遠なものに対する信仰から成り立っている。ゲームの1プレイは「祈り」に似ていないだろうか? 祈りについて、カフカは、次のように述べている。

人は、かりそめに与えられた個人的な意志の偶然性を踏み破り、自分の小さい自我の限界を超越しようとするのです。芸術と祈り、それは暗闇に向かって差し出された両の手にすぎません。人は自分を与えんがために物乞いをするのです。
(グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳、ちくま学芸文庫、201頁)。

 われわれは、有限な生だけを生きているわけではなく、永劫性にも片足を突っ込んでいるのだ。天文学に思いを馳せるまでもなく、われわれの生ははかないものだ。そのはかなさと対面するひとつの場所が、現代においてはゲームということではないだろうか?