今日のスポ根もの



 4月から新しく始まったアニメ『ガラスの仮面』を見ている。言わずと知れた、美内すずえのマンガが原作の作品だ。「なぜ今さら、このマンガをアニメに?」と最初はちょっと疑問に思ったが、しばらく見ていると、徐々に、この作品がなぜ今アニメ化されるのか、というその意義が少しずつ分かってきた。


 現在、サブカルチャーの領域において、スポ根もののリバイバルが一種のブームになっているようだ。代表的なのは、上戸彩が主演しているドラマ『アタックNo.1』だろう。上戸彩は『エースをねらえ!』のドラマでも主演だったので、『アタック』はその延長線で作られた作品なのだろう。僕はこの二つのドラマを両方とも見ていないので、正確な判断を下すことはできないが、少なくとも、この両作品のアニメを思い返したときに、これらのドラマでどのようなメッセージが提示されているのかを想像することはできる。それは、おそらく、「今を耐え忍べ」というものではないのか?


 スポ根ものは完全にイデオロギー的な作品である。『巨人の星』が典型的だが、そこでは、貧しい者(星飛雄馬)と裕福な者(花形満)とが対照的に描かれている。主人公は貧しい者であり、しかし、いつかはこの貧しさから脱却して、勝利をこの手に掴むという野望(夢)を胸に秘めている。こうした主人公のライバルとして登場するのがブルジョワの秀才である。そして、最終的には、持たざるものが持てるものに勝つのである。努力をすれば、その人がどんな生まれであっても、勝利を獲得することができる。これがスポ根もので示されるイデオロギーである。


 貧しい努力家と裕福な秀才。このペアは、少年向けの作品の典型であり、現在の作品でも、ほとんどそのまま踏襲されている(『NARUTO』など)。しかし、この貧しさという要素は、80年代において、若干その訴求力を失ったように思える。確かに、80年代にも、『おしん』や『小公女セーラ』のような作品があったが、往年のスポ根もののような作品は少なかったのではないか? むしろ、80年代においては、努力と根性といった汗臭い青春ものは格好悪く見られていたのではないか?


 しかし、今日また、この対立図式が説得力を持って蘇ってきたようだ。貧しい者が富める者を羨み、努力をすることによって、現在の困難を乗り越えていこうとする。こうした物語が、時代を問わず、昔から日本人に好まれてきたのは間違いない。そして、まさに、『ガラスの仮面』もそのような作品である。主人公の北島マヤは、貧しくはあるが、演劇に対して絶大な情熱を持っている少女。その才能を鋭く見抜き、マヤを育てることに決めた元女優の月影千草。そして、マヤのライバルであるブルジョワ姫川亜弓。この物語の構図は、細かい違いはあれ、基本的には『エースをねらえ!』と同じではないだろうか?


 結局のところ、こうしたスポ根ものの話は、サクセス・ストーリーに落ち着く。主人公がいかにのし上がっていくのか、それを追っていくのは確かに面白い。しかし、こうした物語は、他方において、現状を隠蔽する機能があるように思えてならない。「現在を耐え忍べば、その後には明るい未来が待っている」というメッセージをこうした作品は伝えてくる。しかし、そうした観念は、単に苦しい現状を肯定することにしかならないのではないか?


 アニメやドラマの主人公が頑張っているのだから、自分も頑張らないといけない。そんなふうにして励まされることは良いことなのだろうか? 若干の疑問を持たざるをえない。