『ゲド戦記』が面白くない理由――映像作品における監督の役割

 アニメ『ゲド戦記』を見た。『ゲド戦記』については、すでにネットでかなりの言及がなされているが、そうした評判をいろいろと見た上で、今回見に行ったわけである。『ゲド戦記』にまつわるネットの話題は、作品の内容についてのもの以上に、監督の宮崎吾朗スタジオジブリの現状等々の周辺事情に関わるものが多く見受けられたが、こうした作品外の次元を抜きにしては、この『ゲド戦記』という作品はもはや見ることができない。そういう意味で、『ゲド戦記』は、まさしく、現代という時代の作品だと言えるだろう。


 『ゲド戦記』についての言及をネットで読んでいて、少し疑問に思ったことがあった。それは、たとえ監督が素人であったとしても、他のスタッフが優秀であれば、それなりにいい作品になるのではないか、という疑問である。今回の映画鑑賞は、その点を検証するためのものだったと言っても過言ではない。結論を先に言えば、やはり、監督というポジションは非常に重要なものであると言わざるをえない。以下、その理由を説明してみたい。


 まず、『ゲド戦記』の作画と動画についてだが、これは、やはり、非常に良かったと言える。しかし、作画と動画がよくても、その結果、面白いアニメになるとは限らない。というのは、よい作画、よい動画というものは単なる素材にしか過ぎず、まだそれをどのように用いるのかという問題が残っているからである。


 『ゲド戦記』の問題点は、まず第一に、画面に緊張感がまったくないことである。言い換えれば、画面の隅々にまで精神が行き届くなどということはなく、常に、無駄な空間が存在しているということである。『ゲド戦記』には、無駄な空間、無駄な時間が多すぎる。つまるところ、ひとつひとつの場面やシーケンスにおいて、その場面がそんなふうに描かれなければならない必然性がまったく存在しない、ということである。必然性が存在しないから、画面が弛緩し、無駄な空間が生じるのである。


 『ゲド戦記』の各場面は、まるで下手な舞台劇のような印象を与える。そこにおいては、人物が中心になっているが、逆に言えば、人物しか中心になるものがないわけである。映画やアニメにおいて、人物が中心にならない作品はいくつもある。例えば、ヒッチコックの映画など、人物が中心というよりも、明らかに、そこでは、様々な物品が主人公だと言える。ヒッチコックの映画では、常に、物語の鍵となるような品々が出てきて、そうした物品がしばしば画面の中心に位置するのである。


 『ゲド戦記』においては、その物語の展開が、人物同士の会話の中で完全に閉じている。この広がりのなさが、このアニメを、下手な舞台劇のようなものに感じさせるのである。これから、『ゲド戦記』を見る人は、登場人物の背後の風景に注目して見てほしい。これほど意味のない風景はないと言える。そこには、「砂漠」とか「平原」といったぐらいの場所規定しかないのである。


 つまるところ、アニメにおける監督の役割とは、あらゆるものに必然性を導入することだろう。監督は、理念上、その作品で描かれるすべてのことの理由を説明できなければならないはずである。なぜここにこの人物がいるのか? なぜこの人物はここで歩くのか? なぜこの人物は歩くときに右足から前に出したのか? そうした細々したことの理由を説明できなければならないはずである。こうした細々したものが、つまりは、ディテールと呼ばれるものであり、ディテールがしっかりしているかどうかで、その作品が生きたものになるか死んだものになるかが決まってくることだろう。


 『ゲド戦記』において、例えば、ヒロインのテルーが歌を歌うシーンがあったが、このシーンでまず疑問に思うのは、なぜここでテルーが歌を歌うのか、ということである。テルーは非常に内気で、他人に対してはいつもツンツンした態度を取ってしまう少女であるが、そうした少女が、たとえ回りに誰もいないとしても、歌を歌い出すなどということは、非常に例外的なことだろう。そこには、何か、テルーが歌を歌わなければならない理由があったはずである。その必然性が不明確であるために、この重要なシーンは極めて味気ないものとなっている。おそらく、テルーは美しい自然の風景に感動して歌を歌いたくなったのだろうが、しかし、美しい風景を見たからといって、誰もが歌を歌い出すわけではないだろう。つまり、そこには、まだまだいくつかの要因が描かれる必要があった、ということである。


 『ゲド戦記』は非常に小さな作品だと思った。上映時間は二時間近くもあるにも関わらず、その時間は非常に短いもののように思われた。それは、言い換えれば、ひとつひとつの場面の時間に厚みがないということである。『ゲド戦記』で扱われているテーマは、非常に壮大なものであるはずなのに、そこで展開されるドラマは、非常にこぢんまりしたもののように思われた。物語が具体的な映像という形にまで昇華されていないように思われたのである。


 何かリアリティのあるものを作ろうとしたときに、そのリアルさは、その制作者の経験の中からしか出てこないことだろう。これは世代的な問題でもあるが、宮崎吾朗は、明らかに、二次的経験からしか出発できていない。つまり、先行者の一次的な経験から生み出された作品を経験するという二次的な経験しかないわけである。庵野秀明などは、ある種居直って、この二次的な経験が生むリアリティを作品の中に焼きつけてきたわけだが、そうした問題意識すら、宮崎吾朗にはないことだろう。


 何にせよ、『ゲド戦記』と宮崎吾朗との間には必然的な繋がりはまったくないように思えた。おそらく、宮崎吾朗にとって、もっと切実になれるテーマなり題材なりは、他にたくさんあることだろう。それは、もしかしたら、これまでジブリが築き上げてきたスタイルとはまったく異なるものかも知れない。これまでアニメ制作に関わったことのない素人を監督に起用するという暴挙をなしたのだから、さらなる暴挙として、これまでのジブリのイメージを一新するような作品を宮崎吾朗監督には作ってもらいたいものである。