あるペシミズムについて――ミシェル・ウエルベック『素粒子』

 ミシェル・ウエルベックの『素粒子』という小説を読んだ。この小説は、一読して、非常に現代的な小説であると思った。これほど現代的な小説を読んだことは、ここ最近なかった。映画にしろ、何にしろ、他のジャンルにおいても、それは同じである。


 この小説の内容について論評する力は、はっきり言って、今の僕にはないと思った。読んで思ったことを少し書けば、この小説で書かれている問題は、少なくとも、19世紀において、西洋において予見されていた問題であるように思う。ニーチェがそうであるだろうし、フロイトもそうであるだろう。フロイトは、人類の未来に対して、ペシミスティックな考えを持っていたようだが、その理由がこの小説を読むと少し分かるような気がした。


 この小説を読むと、性というものがわれわれをどこにも連れていかないのではないか、という気がしてくる。性というものは不毛であり、不毛なものでしかない。


 死についてはどうだろうか? 『素粒子』が描いていることは、現代の人間にとって恐怖の対象であることは、死であるよりも、苦痛を抱えながら生き続けることだ、というものである。安楽死というテーマが20世紀になって出てきたのも、やはり、理由があることだろう。


 素粒子のことを、フランス語では、「particules elementaires」と言うようだが、ここで問題になっていることは、やはり、個人の問題だろう。つまり、「individu」、それ以上分割されないものとしての個人という問題である。「particules elementaires」という言葉(「物質を構成する要素としての部分的なもの」という意味合いだろうが)を見ていると、人間がとても小さくなったような気がする。小説の中で、確か一回だけ、「モナド」という言葉が出てくるが、そんなふうに問題になっているのは、他のものとの繋がりを絶たれた個別なものという気がするのだ。


 小説の中にドゥルーズの名前が何回か出てくるが、ドゥルーズは、人間というものをバラバラに分解して、より広大なネットワークの中に解消させようとしたように思う。つまり、個人のように見えるものは無限に細分化できるものであり、多様なネットワークの中に結びつけられているのである、と。今日においては、エコロジーがそうした視点を提供しているように見えるが、果たして、自我の相対化にどれほど成功しているだろうか?


 いずれにせよ、僕は、『素粒子』を、強い共感を込めて読むことができた。下手な希望を持つよりも、ペシミスティックであることのほうが、より真実に近いという気がした。この『素粒子』の地点から物を見ると、今日のわれわれが、言ってみれば、不可能な幻想に執着している理由も、それなりに分かるような気がした。それは、つまり、どんな形であれ、過去に戻るという幻想である。簡単にまとめてみると、個人的なものは無価値で不毛であるが、個人的なものしか価値づけるものがない、ということが今日の問題であるように思える。