情熱を失いつつある

 アニメを見る情熱をちょっと失ってきたところがあるので、情熱を回復させるためにも、録画したアニメの消化を極端に減らそうと現在画策中。
 そういうわけで、今期の新作アニメチェックも極力控えようと思っている。
 ちなみに今期のアニメでは、『君に届け』がかなり良かった。アニメ制作はProduction I.Gのようだけれど、今年は、『戦国BASARA』と『東のエデン』があったし、僕の中ではI.G株がかなり高まっている。
 『君に届け』は背景が良かった。現在『おおきく振りかぶって』のアニメを見ているけれども、これも背景がいいアニメだ。特に青空がいい。
 まあ、そんな感じで、アニメに対する情熱があまりないので、今後このブログにもアニメ以外のことを積極的に書いていくかも知れない。

父のいない世界でゲームを続けるということ――アニメ『少年突破バシン』の感想

 『バトルスピリッツ 少年突破バシン』を最後まで見てみた。


アニメ『少年突破バシン』の緩くて狭い世界
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090609#1244550232


 『バシン』については以前、上記のような記事を書いたが、この作品に対する基本的な考えはあまり変わっていない。なので、ちょっと補足的にだけ感想を書いておきたい。
 上の記事に書いた善と悪との対立構造であるが、最終回までの展開の中で、それなりに対立構造が提出されたところがあったが(ナンバー9が悪役になることで)、予想通り、そこでの対立構造がメインに描かれることはなかった。つまり、大きな水準で誰かと誰かが対立しているという構図が描かれることはなかったように思う。
 それゆえに、最終的なバトルが父と子との闘いだったとしても、そこでの対立構造の意味が非常に希薄なものになってしまっている。言うなれば、『バシン』の最終回で描かれる父と子との対立などというものは、『カブトボーグ』の第1話で描かれる父と子との対立ぐらいの重みしかない、ということである。
 そもそも、子供向けのアニメ、さらには、男の向けのアニメにおいて、何がテーマとして問題にされるべきかという問題設定などというものは、今日、ほとんどその意味を消失しているように思える。例えば、成長などというテーマを前面に押し出している作品など、2005年の『エウレカセブン』ぐらいしかなかったことだろう。そして、『エウレカ』が紆余曲折の果てにしか成長というテーマを描けなかったとすれば、今日のアニメにおいて、成長をテーマにすることは非常に困難になっていると言える。つまり、大人になるということがどういうことなのか、そこに共通了解がまったくない、ということである。
 70年代くらいのアニメを見ていると、そこには、成長するということがどのようなことなのかという、明確なヴィジョンがあったのではないか、という気がしてくる。例えば、『あらいぐまラスカル』や『母をたずねて三千里』などの作品においては、成長することがどういうことなのかということが、明確に提示されているように思う。いわゆる「世界名作劇場」の作品のすべてが成長を問題にしているわけではないだろうが、子供にアニメを見せるとはどういうことなのかという問いが70年代くらいにはそれなりに共有されていたのではないか、という気がしてくるのだ。
 僕は、『バシン』を見始めるにあたって、『エウレカ』のシリーズ構成を担当していた佐藤大が『バシン』のシリーズ構成も担当するということを知って、『バシン』においても、『エウレカ』と同様に、成長の問題が提示されるのではないかと期待していたのだが、その期待はかなりはぐらかされることとなった。
 子供の成長を問題にするにあたって、父との対決という問題設定は、ある種の定番であるだろう。『鉄腕アトム』以来のTVアニメの歴史において、父の問題は常に問われてきたところがあると言えなくもない。『エウレカ』においても父の問題は提示されていた。しかし、『バシン』において提示されたのは父との対立ではなく、『カブトボーグ』が提示したような、父との対立のパロディであり、これはむしろ、父との対立を避けるということ、あるいは、そもそも対立すべき父がいないという、そのような新しい問題設定が提示されたということに他ならない。
 主人公の馬神トッパの家庭を少し見てみれば、父母子の三人家族であるが、家計を支えているのは明らかに母である。そして、父は、自らの夢に生き、なぜだかはよく分からないが、バシンと対立する敵の頭領になってしまっている。こういう家庭像について、現在放送されているアニメですぐに思い出すのが『アイ!マイ!まいん!』であるが、『まいん』の場合は、父と娘との関係性が問題になりうるので、ちょっと事情が違うかも知れないが、しかし、同様の家族像を探せばすぐに何か別の作品で見つけることができるだろう。
 『バシン』に話を戻せば、家庭から消えた父が、仮面をつけて子供の前に敵として現われるところなんかが、何かしら現代の問題を提示しているような気がするのだ。つまり、子供の前に子供の敵として立ちはだかるためには父は子供の幻想の世界に入ってこなければならない、ということである。ここが現代の困難ではないのか、という気がするのだ。
 思い返してみれば、『母をたずねて三千里』においてもまた、家計を支えていたのは母の存在であった。『三千里』においては、まさに、父の負債が子供に対して三千里という距離をもたらしたわけだが、これほどの距離が、これほどの困難が、今日のアニメで見出せることはほとんどないだろう。
 僕としては、こういう事態を性急に嘆くのではなく、現在何が起こっているのかということを精査に見るべきではないかと思っている。『バシン』において目指されていたのは、対立関係の存在しない、ある種、居心地のいい緩い共同体である。こういう緩さが現在、一面では求められているのかも知れないが、しかし、その代償としてもたらされるのは、平板化されたのっぺりとした世界、大きな変化が何も生じない世界というものだろう。こうした世界にどのように起伏をもたらしていくのかということが今日の課題なのかも知れないが、この課題を『バシン』に引き戻して考えてみれば、いったいどうしてバシンたちはあれほどバトスピに熱中できるのかということである。バトスピに興味のない人がこの世界で生きる術はあるのかという問題でもある。
 こんなふうに考えるとすれば、やはり、『バシン』の世界は、『けいおん』などと比べると、少々きつい世界、ゲームを降りることができない世界として立ち現われてくるところがあるように思う。つまり、ゲームをやり続けることができるのならば、そこにはそれなりに緩い関係性が立ち現われてくるのだが、しかし、ゲームを降りることは許されない。逆に、『けいおん』は、ゲームを降りることも示唆されているがゆえに、より幅の広い世界を描いているように思うところもある。
 こういうわけで、僕としては、どうしても京都アニメーションの作品に目が行ってしまうところがあるのだが、京アニの作品については、また別の機会に問題にすることにしたい。『バシン』のあとに始まった『少年激覇ダン』もこれから見てみるつもりなので、何か思うところがあったら、ここに書いてみたいと思う。

2009年秋の新作アニメ感想(その4)――『そらのおとしもの』

 これは、なかなか好感の持てる作品だった。
 何というか、作品の落ち着きどころというか、あるギャグ作品がいったいどこまで日常から離れ、どこで再び日常に戻ってくるのか、といったような兼ね合いが非常に上手く取れている作品だと思った。
 話が進むに連れて、もしかしたら、話の規模が大きくなってしまうのかも知れないが、現在(2話)までのように、小さい規模のままで話が進むのであれば、作品のバランスは非常にいいんじゃないかと思う。
 僕はいつも、作品の舞台がどこになるのか、作品の風景がどのように描かれるのかというところに注目してしまうのだが、『そらのおとしもの』の田舎の風景は、それ自体で何かを語っているように思える。つまり、そこがバランス感覚だと思うのだが、一方で非常に大きな規模の出来事が起こりそうな予感があり、他方でそこでの出来事がささやかなレベルに収束していってしまう、この大きくなりすぎない話の展開を盛る器として、田舎という舞台は極めて適当ではないかと思ったのだ。
 ネットで少し話題になっていた、第2話のエンディング(パンツが空を飛ぶエンディング)を見ながら、僕はそういうことを考えていたのだが、このエンディングは、一方においては、そこで生じた出来事の大きさを示しているように思える。第2話全体から考えるのなら、そこでの物語は非常に小さな、ささやかな物語だと言えるだろうし、幼なじみとの思い出という小さな場所に帰着する話だろうが、作品の中で描かれている出来事のうちにはやはり過剰なものが存在しているのであり、その過剰さのひとつの出口として、全世界を飛び回るパンツというあのエンディングが位置づけられたように思える。
 別に、作品を構成している要素なりキャラなり話の展開なり、といったところは、すでにある様々な作品からのパッチワークという印象を受け、そこに目新しさはないわけだが、それらの要素の配置のし具合と、そのバランス感覚が優れている作品であるように思えた。

2009年秋の新作アニメ感想(その3)――『ミラクルトレイン』

 まず、駅の擬人化という発想がよく分からなかった。よく分からないというか、駅を擬人化することがひとつの作品をどういう方向に導いていくのか、という方向性がよく見えなかった。
 しかし、これは、よく分からなかったから面白くなかったということではなくて、むしろ逆に、今まで見たことのないものを見せられたという点で、ある種の新鮮さを感じた、ということである。
 この作品は、当然ながら、女性向けの作品だろうから、僕が気になっているところが、この作品において重要ではないのかも知れない。しかし、駅の擬人化という発想は、電車の擬人化、あるいは、何らかの物体の擬人化とは、大きく異なるような気がするのだ。
 駅とは何かというふうに考えると難しくなるのだが、駅において重要なのは、その建築的な側面、つまり、その構造的な側面であるよりもむしろ、ある種の場所の問題、路線上の地点と地点との関係性の問題、等々といったものを取り扱っているのではないだろうか。つまり、何か物体が問題になっているのではなく、もっと包括的な空間が問題になっているような気がするのである。
 それなりに腑に落ちたのは、第1話の最後の場面で、駅たちは常にそこにいる、ということが示唆された場面である。駅たちが常にそこにいるというのはやはり変な言い方になってしまうのだが、つまるところ、人々を見守る視点が常にそこにはある、ということである。これは「マリア様がみてる」というのと同じで、ここで問題になっているのは、誰かが特定の場所から見ているということではなく、誰かを常に見守っている視点が存在する、ということである。
 何らかの物体に対する愛着は、それがフェティシズムなどと呼ばれることもあるのだから、ある種の擬人化が起こるのはよく分かる話なのだが、それに比べると、駅は、構造物として見れば単なる空間、あるいは、人が乗り物に乗るための単なる目印というふうにしか思えないところがあるので、いったいどこに擬人化の生じる余地があるのか、僕にはよく分からないところがある。
 こういう観点から考えると、これまた女性向けの作品である『ヘタリア』なんかも、国の擬人化というところに多少の違和感を抱かないわけでもない。しかし、国を主体として捉えることもあるわけだから(つまり、「アメリカは〜した」とか「日本は〜した」という言い方が日常的になされる)、そういうレベルでは理解できないこともないが、別にそういうことがこの作品の人気において重要であるようには思えない。つまり、『ヘタリア』を単なる風刺マンガとか風刺アニメとして捉えることができないところがある、ということである。
 駅萌えとは駅をフェティシズムの対象とするということなのだろうか。どうも、そうは思えない。だとすれば、フェティシズム以外に、何かを擬人化する方途があるのだろうか。こういうことを考えながら、この作品は見ていこうと思っている。

アニメのプリミティブな想像力――ルネ・ラルーの『ファンタスティック・プラネット』について

 ルネ・ラルーのアニメをちゃんと見るのはこれが初めてだったが、あの独特の世界観にはやはり強く惹きつけられた。
 アニメの世界は、基本的に、想像の世界だろうから、どこでどのような点で、現実から距離を取っているのか、というところが大きな注目点になるように思える。どんな想像の産物も、無から何かを作り出すことはできないだろうから、どこかに現実の一部を含みこんでいる。あるいは、現実の要素をどのように組み合わせるかということが想像力において問題になっていることだと言えるかも知れない。
 僕は、最近の日本のTVアニメを見ていて、いつも現実のことが気になるのだが、つまり、最近のアニメ作品においては、いったい何が現実なのかということが問題になっているような気がするのだが、こういう問いを前にしたときに、いったい想像の力はどのように機能するのかということがちょっと気になる。言い換えると、「リアルである」とか「リアルでない」ということがひとつの評価基準として機能しているとしても、そのときに、何が現実的なのかということが異論の余地なく確立しているのではなく、むしろ、何が現実的なのかということが明確でないという、そういう不安定な状態がここにはあるのではないか。現実というものは、どこかに客観的に存在するものではなく、ある種の確認作業の結果、作り出されるものではないか、という気もしてくる。
 アニメにおける想像力とは、擬似的な自然法則を作り出すことにあるのかも知れない。例えば、十年くらい前に柳田理科雄の『空想科学読本』などのシリーズが流行ったことがあったが、ここで試みられていたことは、アニメや特撮作品で示されていたような擬似的な自然法則と実際の物理法則とのギャップを埋める作業だったと言えるだろう。
 われわれは、アニメや特撮で提示されていることを「リアルではない」と思い、実際の物理法則を「リアルだ」というふうに単純に思っているわけではないだろう。というのも、ある種の科学の発展は、「見かけの上でそう見えること」と「理論的な観点から見てそう見えること」との間のギャップを克服していくことにあったと思うからだ。一見したところそう見えることにこだわった考えというものを「ドクサ」と言うのだろうが、こういうドクサを克服することは非常に困難な作業であるように思える。それは、つまり、自分の実感というものを括弧に入れて何かを考えていく作業だと思うからだ。
 アニメの想像力の目指すところは、別に、科学的な真理を提示することではないだろう。ディズニーに代表されるようなカートゥーンがやっていたことは、それとはまったく逆であって、いかにして自然法則に従わないかということであったように思う。しかし、だからと言って、カートゥーンにリアルさがないわけではないだろう。カートゥーンの運動のうちには、それ独自のリアルな法則が潜在しているように思えるのである。
 ルネ・ラルーに話を戻すと、この『ファンタスティック・プラネット』というアニメで問題になっているのは、何が人間的なことなのか、ということだろう。詳しい内容については書かないが、この作品においては、二重三重の入れ子構造を用いることで、人間とは何かという問いが終始一貫して問われているように思える。人間は、精神的な存在でもあり、動物的な存在でもある。この中間的な存在の曖昧さがこの作品では輪郭づけられているように思う。
 では、そのようなことが問題になっているときに、アニメの想像力は、どんなふうに機能しているのか。僕が言いたいのは、アニメの想像力は、そこで、われわれを現実から遠ざけると同時に、ある面においては、現実に最接近させてもいるのではないか、ということだ。一見したところ人間から遠いものが描かれている地点において、極めて人間的なものが発見される。非人間的なもののうちに何か人間的なものが見出される。このようなグロテスクな経験がこのアニメには染み渡っているように思うのである。
 アニメの想像力とかリアルの問題についてはいずれまた別の機会に取り上げることにしたいが、何にしても、こういった海外の芸術アニメをたまに見ると、自分の中の、ある種プリミティブな感覚を強く刺激されるので、非常に基本的なところに立ち返って何かを考えたい気持ちになってしまう。

ゼロ年代末の一風景――『亡念のザムド』の感想

 『亡念のザムド』を最後まで見たので、ちょっと感想を書いておきたい。
 今年は『エウレカセブン』の劇場版も見たので、『エウレカ』と『ザムド』についていろいろと考えた年であったが、しかし、僕としてはこの路線はちょっといただけなかった。いったいどういう路線なのかということを明確にするのは難しいが、『エウレカ』や『ザムド』で提示されたようなアニメのスタイルが厳しい状況にあることだけは間違いないと思う。
 まず、『ザムド』に関して言えば、『ザムド』は非常に小さな話を描いた作品だと思った。別に小さな話を描くこと自体は悪いことではないが、『ザムド』は、ある種、大きな話の形式の下に小さな話を提示しているので、そのバランスがかなり悪いと思った。つまり、この作品で実際に描かれているのは、様々な登場人物たちの複数の小さな物語なのだが、それが世界の危機などという大きな物語に接続しているかのように見せかけているところにちょっと無理があるのではないかと思った。
 現在大きな物語を描くことが非常に厳しい状況にあるということは、巨大ロボットアニメがほとんど作られていないという状況を考えても理解することができる。『エウレカ』において辛うじて登場することができていた巨大ロボが『ザムド』には登場しないし、前のクールの巨大ロボアニメと言えば『真マジンガー』だけだったと思うし、『真マジンガー』にしても、ある種の回顧という括弧づけの下においてのみ成立することができたアニメだったと言える。
 『真マジンガー』は、ある種、『グレンラガン』と非常によく似た作品構造を持っていたわけだが、この二つの作品が近年成立することができていたのも、そこに一種のネタ的な観点があったからであったように思う。つまり、もはや巨大ロボットアニメが成立しないということを前提した上で、これらの作品があえて作られていたところがあったように思うのだ。そういうネタ的な観点を持ち合わせていない、ある種非常に真っ当なアニメである『ザムド』は、それゆえ、非常に厳しい勝負をしているという印象を受けた。
 いったい『エウレカ』や『ザムド』がどのような文脈の上で作品を作っているのかということが問題なのだが、今年公開された『エウレカ』の劇場版を見ていて思ったのは、この作品が過去の様々なアニメ作品(とりわけ巨大ロボットアニメの系列)の集積の上に成立している作品であり、そうした過去の作品(『ガンダム』とか『イデオン』とか『エヴァ』とか)のテーマなりモチーフなりをいろいろと喚起させる、ということである。そうした想起が、それでは、この作品においては、ある種の総合(アニメの歴史の現在)に達しているかと言えば、そんなことはなくて、ただ単に過去の作品の喚起で終わっていたような気がしたのだ。


交響詩篇エウレカセブン』の劇場版を見てきたけれども
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090503#1241340418


 まあ、そんな感想を抱いたので、『エウレカ』の映画を見たあとに、上のような感想というか文句を書いたわけだが、それとはちょっと違うけれども、やはり似たような不満を『ザムド』にも抱いてしまったわけである。
 ちょっと話は異なるが、今年公開された『ヱヴァ破』について思ったのだが、この作品は果たして巨大ロボットアニメだと言えるのだろうか。作品の形態としては、これは巨大ロボアニメであるが、しかし、その内実はもっと別のものではないのか。つまり、『エヴァ』において、大きな物語が成立しないという限界を引き受けて、なおかつそこで大きな物語を提示しようとしたときに、まさに持ち出されてきたのが個人の内面世界ではなかっただろうか。大きな物語を提示していたのが、いつの間にかに、個人の小さな物語にすり替わっていたのが、まさに『エヴァ』という作品ではなかったのか。
 新『ヱヴァ』と旧『エヴァ』との差異はあるにしても、『エヴァ』という作品がそのような限界を抱えていた作品だったとすれば、『ガンダム』や『エヴァ』、そして、宮崎駿のアニメなどの文脈の下に作られているはずの『エウレカ』や『ザムド』が同種の問題に直面しないわけにはいかない。
 もちろん『エウレカ』と『ザムド』との間にも問題の解決の仕方に差があるが、『ザムド』においては、そこでの亀裂がかなり目立つようになってしまった、という印象を受けた。つまり、そこには、言ってみれば、われわれひとりひとりがどんなに頑張ろうとも、世界の流れといったものを変えることはできない、あるいは、そういった世界の流れというものから切り離された存在がこのわれわれなのだ、というような深い諦念の影が見出せるのである。
 物語の出口としては世界が変わったように見える。しかしいったい何が変わったというのだろうか。むしろ、僕が印象づけられたのは、そうした大きな変化から根本的に切断された人たちの生き方であり、まったく空疎で不毛に見える仕事を、それでもなおかつ、ひとつひとつ積み上げていかなければならない、そのような小さな生である(とりわけそうした生は主人公の父であるリュウゾウの生き方に見出されるが、それだけではなく、他の登場人物たちにも同じ苦悩が見出される)。
 僕からすれば、誰も彼もが脇役であって、主人公のいない作品が『ザムド』だ、という印象を受けるのだが、もし『ザムド』がそういう作品であるのなら、その路線を徹底してほしかったと思うのである。誰かが誰かを殺したとしてもそれが何の意味も持たないような空疎な世界。それこそがまさに現代の世界だというところに僕はリアリティを見出したのだが、むしろ『ザムド』は、そうした諦念に反発して、何らかの希望を性急に打ち出そうとしているところがあった。だからかも知れないが、登場人物たちはみんながみんな、いつもイライラしていて、誰かを罵倒したり殴ったり説教したりしているわけだが、こういう焦燥感が僕にはちょっといただけなかったのである。
 物語の出口に希望があることは、それがエンターテインメント作品であるのならなおさら、あってしかるべきだが、しかし、そこでの希望はもっとささやかなものであってもいいんじゃないかと思った。ひとつ例を出せば、それは、『平成狸合戦ぽんぽこ』の最後に出ている幻想的な風景のシーンで、あそこで狸たちがやったことは何の問題解決にも繋がっていないのだが、そうした絶望の裏返しであるささやかな夢想が、強烈に人の胸を打つということもあるのではないかと思うのである。
 いずれにしても、『エウレカ』も『ザムド』もしっかりと作られたアニメだと思うし、映像的にはっとさせられる場面がいくつもあったので、見ていない人があればぜひ見ることをオススメしたい。ゼロ年代末のひとつの風景がここにある、ということは言えると思う。

2009年秋の新作アニメ感想(その2)――『生徒会の一存』と『とある科学の超電磁砲』

 『生徒会の一存』。
 まず思ったのは、よくこんな作品をアニメ化しようと思ったなあ、ということだ。生徒会室の中でただただお喋りしているだけの作品。第1話では、「ドラマCDで十分」とか「メディアの違いを理解せよ」といった自嘲気味な自己言及ネタがあったが、まさにその通りで、この作品は、アニメ化ということそれ自体がテーマとなっているのかも知れない。
 しかし、他方で、似たような挑戦を行なった『化物語』というアニメ作品が前クールに存在していたわけで、そういう意味では、この『生徒会の一存』という作品は、さらに大きな困難を背負い込んでしまった、という気がする。第1話では京都アニメーションに関わるネタが多かったように思えるが、この作品がむしろ意識すべきなのはシャフトの作品のほうではないかと思った。つまり、シャフトのアニメは、たとえネット上で「紙芝居」というふうに揶揄されているとしても、かなり魅力的な画面を作れていると思うので、果たして『生徒会の一存』もそのレベルに匹敵するぐらいのことができるのか、ということが問われているように思えるのである。
  監督の佐藤卓哉と言えば、『苺ましまろ』の監督であるが、『苺ましまろ』は、ある種、会話の間が重要なアニメだったと言える。それと比べると、『生徒会の一存』は、最初から最後までハイテンションを維持していて、このテンションに視聴者が付いていっているのかどうか、ちょっと疑問なところがあった(僕はやや冷めて見ていたわけだが)。
 『化物語』と同様、『生徒会の一存』も、ある種、舞台劇的な作品だと言えるが、この独特なノリに視聴者をどのように巻き込んでいくのかというそこでの工夫が毎回の見所となるのだろう(第1話はアニメネタや自己言及ネタがそうした導入になったのだろうが)。
 いずれにしても、アニメ化をするとはどういうことなのかという問題が前面化している作品だとは言えると思うので、そういう意味では、注目に値する作品であるだろう。ひとつの実験作品という認識でチェックしておきたい。


 『とある科学の超電磁砲』。
 『とある魔術の禁書目録』がなかなか良かったのと、『とらドラ』の監督だった長井龍雪がこの作品を監督しているということで期待していたのだが、ちょっと微妙な感じである。第1話を見た限りだと、当たり前と言えば当たり前だが、『とらドラ』からの文脈よりも『禁書目録』からの文脈のほうが勝っている。
 『禁書目録』にもそういう印象を抱いたが、『超電磁砲』は硬質な作品である。つまり、他方に『ポニョ』が目指したような、世界全体が生命を持っているようなアニメ作品があるとすれば、『超電磁砲』が描いているのは、生命のない人工的な世界である。
 僕は、『とらドラ』については、どちらかと言えば、柔らかい作品だと思っていて、この柔らかいところが『とらドラ』のいいところだと思っていた。そういう要素が『超電磁砲』に見出されなかったのがちょっと残念だった。
 硬い/柔らかいというところをもっと言えば、『超電磁砲』で描かれているのは、世界から浮き上がった場所で起こっている出来事という印象を与える。そもそもの作品設定がそういうものなわけだが、学園都市という人工的に作られた街は、ある種の閉塞感や息苦しさを与えるのであって、この空気の悪さがいったいどこに向かうのかということが、この作品の大きな注目点ではないかという気すらする。
 『禁書目録』においては、辛うじて外部との関係が描かれていたと言えるし、魔術と科学との対立などということも描かれていた。そうした対立軸なり何なりが『超電磁砲』では描かれるのかというところも問題であるが、僕が言いたいのは、もっと柔らかい要素がこの作品の中に入っていてもいいんじゃないか、ということだ。
 例えば、『禁書目録』においては、インデックスというキャラがひとつの出口になっていたところがあったような気がする。つまり、閉塞感の漂う世界で、インデックスが緊張の緩和する場面をいくつか作っていた、ということである(『禁書目録』第1話でインデックスが当麻の手ごとパンを食べるシーンはやはり見事だった)。『超電磁砲』においてもギャグシーンのようなものは存在するわけだが、そこでのキャラの表情とかをもっと崩してもいいんじゃないか、と思った(第1話だと、美琴が黒子の頬を引っ張る場面があったが、そこで頬がもっと餅みたいに伸びてもいいんじゃないかと思った)。
 もしかしたら、この作品の魅力は、僕の要望とは逆で、ある種の硬質さ、クールさ、人工性といったものに徹することにあるのかも知れない。そういうことを多くの視聴者が望んでいるのかも知れない。しかし、そういう硬質なアニメはいったいどこに向かっていくのだろうか。そういうところに注目して、このアニメをこれから見ていきたい。