11月の前半に見たアニメの感想

 ちょうど一ヶ月くらい前からtwitterを始めたわけだが、twitterにはライフログ的な機能もあるので、その記録を見ながら、ここ一ヶ月くらいに見たアニメの感想を、取り留めもなくダラダラと書いてみたい。


 押井守の劇場版『パトレイバー』の1と2を見てみた。1は以前に見たことがあったが、2は今回が初めて。同時に『攻殻機動隊』も見返してみたのだが、見直してみて、神山健治押井守の問題意識を、ある意味、極めて正統的に引き受けているのではないかと思った。例えば、『パトレイバー2』で提示されていた、東京を戦後の焼け野原に戻すという発想は、『東のエデン』のミサイル攻撃という形で引き継がれているのではないだろうか。
 こういう文脈で言えば、『東のエデン』においては、押井が『スカイクロラ』で提出した問いにいかにして答えるのかということが課題になっているのではないか。押井の問題は、大きな物語の崩壊、巨大な敵の喪失、終わりなき日常をいかに生きるか、といったことにあると思うが、同種の問題をいったいどのように『東のエデン』は解決するのだろうか。
 『スカイクロラ』の解決とは、言ってみれば、巨大な敵などいないと分かっていても、あたかもその敵がいるかのように行動するというその不毛さを自覚することによって辛うじて退屈な日常生活を回避するという、アイロニカルな諦念に満ちた戦略だったと言える。こうした戦略に対して、おそらく、神山はもっとベタなものを提示しようとしているように思う。それは、言ってみれば、主人公の滝沢朗に体現されているような楽観と行動力であり、そうした幼児のような天然の行為が可能となるのは、まさに彼が以前の記憶を忘却したからであるだろう。これは、つまり、『もののけ姫』で問題になっていたような「馬鹿になること(奇跡を起こすために欠かせない条件)」が今日可能となるためには、忘却という名の暴力的な切断が必要だ、ということなのかも知れない。
 果たして、以上のような方向性がどのような帰結をもたらすのか。そうしたところが今度の劇場版の注目点だと僕は思っている(ちなみに、今のところ、僕はまだ劇場版を見ていない)。


 今クールのアニメは全然消化できていない。その代わり、前クールのアニメをいろいろと消化している。
 GONZOの最新作である、『シャングリ・ラ』、『アラド戦記』、『咲』は全部見てみた。GONZOゼロ年代において重要な役割を果たしたアニメ制作会社だったというのは間違いないだろうが、そのアニメ制作会社が現在衰退しているということは、いろいろなことを考えさせられる。つまり、GONZOの作品にはゼロ年代アニメの問題が集約されているところがあるのではないか。


 『バスカッシュ』のアニメも見終わる。『バスカッシュ』も『シャングリ・ラ』もそれなりに大きな話を展開しようとした作品だと言えるが、今日においては、大きな話を展開しようと思えば思うほど、物語が上手く機能しないという、そのような困難があるように思える。
 『バスカッシュ』も『シャングリ・ラ』も、小さな人間関係を出発点にしながら、それを社会政治的なレベルの問題(とりわけ「上流/下流」といった階層の問題)、そして、そこからさらに話を大きくして、神話的なレベルの問題にまで話を発展させている。つまるところ、ここで問題になっているのは、神話の再現であり、新たな英雄の誕生である。こうした次元での物語の展開(旧来のアニメ作品においては定番だった物語展開)が、今日、大きな壁にぶちあたっているのではないだろうか。
 『アラド戦記』も、ある意味、大きな物語を展開している作品だと言えるが、しかし、この作品は、ファンタジー世界を舞台にしているという点で、ある種の括弧づけがなされていると言える。つまり、ゲーム作品という土台においてのみ可能となるような物語の定型を踏襲しているところがある。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』といったRPG作品において展開されていた物語は、旧来からあった物語のパッチワークによって出来上がっていたところがあったが、それでもなおかつ大きな物語が可能となっていたのは、まさにゲームをプレイするという水準が入り込んでいたからではないのか。
 さらに言えば、『アラド戦記』において重視されていることも、大きな物語であるよりは、小さな無数の物語であることだろう。数年前に『マスター・オブ・エピック』というアニメがあったが、この作品は、そもそも物語を展開することすら諦めて、『らき☆すた』的な日常の断片を断片のまま展開していた。僕はMMORPGをプレイしたことはないが、MMORPGにおいて重要なのは物語ではなく、別世界の日常なのではないのか。冒険と日常が対立するわけではなく、冒険という名のもうひとつの日常が存在するのではないのか。こうした文脈において、現代のファンタジー作品の主流も、もはや日常系なのではないかと思ってしまうところがある。


 結局のところ、GONZOの可能性は、『ストライクウィッチーズ』から『咲』に到る流れにあったように思うのだが、この方向性がどのような意味を持つのか、僕にはまだ十分によく分からないところがある(萌えの方向性というふうに言うのは簡単だが)。
 『咲』はマンガのほうも読んでみたが、やはり、その風景に対するこだわりには注目せざるをえない。『咲』の風景はパノラマ写真の風景ではないかと思ったのだが、それがどういう意味を持っているのかということはよく分からない。何か平面的なものに対するこだわりがそこにはあるように思う。


 ひとまずこんなところで、続きはまた今度。

歌うことと闘うこと――『マクロスF』に見出される女性的な立場と男性的な立場

 現在『マクロスF』の劇場版が公開されているわけだが、僕も今度この作品を見に行く予定なので、その予習を兼ねる形で、この作品についてちょっと書いてみたい。いったいこの作品でどのようなことが問題になっていたのかということを自分なりの視点で少しまとめてみたいと思ったのだ。


 『マクロスF』を物語的な観点から見ていったときに注目されるべきなのは、メインとなる三人の登場人物、つまり、アルト、シェリル、ランカという三人の登場人物の関係性である。これら三人の登場人物の関係を恋愛における三角関係として提示するのがオーソドックスな見方であるだろうが、そのようなありきたりの見方を踏襲しても面白くないので、ここでは、あえて別の観点を提出してみたいと思っている。それは、すなわち、これら三人の登場人物を男性と女性とで分けて、男性と女性を対立させるという観点、つまり、アルトをシェリルやランカと対立させるという観点である。


 まず注目したいのがこの作品の主人公だと言えるアルトである。アルトは、この作品の主人公であるにも関わらず、いまひとつぱっとしない。彼よりはむしろ、二人の女性のほうが目立つように思われるのだが、その理由は、簡単に言ってしまえば、彼女たちが歌姫あるいはアイドルだからであるだろう。しかし、このような設定自体が、この作品においては大きな意味を持っているのではないかというのが僕の見方である。このことについては後で問題にすることにして、まずは、アルトがこの作品においてどのような位置を占めているのかということについて考えてみたい。


 そもそも、アルトは、作品の中で、女性的なポジションに据え置かれている。アルトの家は歌舞伎の名門であり、彼は、小さいときに、女形として活躍していた。しかし、彼は、そんなふうに周囲から期待されていた道を逸脱することになる。ここには父との関係、父との確執の問題があるわけだが、この確執において焦点となっているのが彼の女性的な立場であるだろう。ここでの「女性的」という言葉の意味は二重である。ひとつは、彼の容貌が美しいということ、つまり、女形に相応しいということであるが、もうひとつは、父親との関係において、従属的な立場に据え置かれているということである。


 こうした状態にあるがゆえに、アルトは、いかにしてこのような女性的な立場を克服し、男性的な承認を獲得するのかという問題を抱えた人物として登場してくることになる。そして、そのときに、彼にとってひとつの脱出口に見えたものが空を飛ぶことなのである。ここにおいて、空を飛ぶことにも二重の意味があることが理解されるだろう。すなわち、空を飛ぶというのは、歌舞伎の女形という女性的な活動から、スリルと危険に満ちた飛行機乗りという男性的な活動へと移行すること、さらには、父親の勢力圏から大きく羽ばたいて自由になることを意味しているのである(同種の悩みは、『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユにも見出すことができる。彼の場合においては、女性的な名前を持つことが大きな問題になっていた。そして、父親の圏内から脱出するために、彼は、ガンダムで宇宙空間に旅立つことになった)。


 だが、しかし、空を飛んだとしても、アルトの悩みはなかなか解消しなかったことだろう。友人たちがつけたアルトの綽名は「アルト姫」であるし、ランカとの最初の出会いにおいても、ランカはアルトを女性と間違える。さらに言えば、アルトにとって、宇宙船の中に作り出された人工的な空は、自由に飛ぶことを許さない「低い空」である。こんなふうに自由に飛ぶことができない状態にあったアルトにひとつの解決を与えることになったのが、戦争という事態である。平和な日常生活が突如として打ち破られて、アルトは戦闘機乗りになる。大切な女性を守る男性というポジションを獲得することで、アルトは、男性的な承認を獲得する機会を得ることができたのである。


 だが、『マクロスF』の物語を以上のようにまとめることは決してできない。というのは、この作品においては、戦闘機に乗って敵と闘うアルトの存在と同等かそれ以上に、シェリルやランカの存在が大きな意味を持っているからである。物語の進展上は、アルト、シェリル、ランカというそれぞれのキャラクターは、お互いを助け合うような相補的な関係を構築していくわけだが、物語全体から見るのならば、女性を守るために戦闘機に乗って敵と闘うという男性的な物語が上手く機能しているとは言いがたい。むしろ、この作品は、歌う女性たちの存在が闘う男性よりも前面に押し出されている作品というふうに捉えたくなる。まさに、この地点において、男性的な立場と女性的な立場とが対立しているように思うのだ。


 そもそも、まず、アルトは大空を飛びたい、あらゆる束縛から自由になりたいという望みを持っていたが、彼よりも先に、もっと高く空を飛んでいた人物がシェリルだったと言える。ここにひとつの対立関係を描き出すことができる。アルトが、「低い空」の下、父との確執などという小さな世界の中でもがき続けて、思うように空を飛ぶことができないでいるのに対して、シェリルのほうは、非常にやすやすと、銀河という名の大空を飛んでいるように見えるところがある。だとするならば、女性的なポジションに据え置かれているアルトにとっては、大空を駆け巡るシェリルの存在は、まさしく、十全な承認を獲得した理想的な男性に見えたのではないだろうか。


 ここに立ち現われるのは、アイドル歌手と一介のパイロットという、初代『マクロス』に見出された不釣合いな関係である。初代『マクロス』において、一条輝とミンメイは、ミンメイが普通の女の子だったときにはそれなりに似合いのカップルだったかも知れないが、彼女がアイドル歌手として大きく羽ばたくことになると、その関係が不釣合いなものとなる。そして、輝は自分が単なるひとりのパイロットにすぎないことを自覚することになる(三角関係が前面に立ち上がるのは劇場版においてであり、テレビ版においては輝の片想いだけが強調されている)。


 アルトとシェリルの間にも同種の不釣合いな関係が見出せるのであり、この二人の関係を対立関係と呼ぶこともできるだろう。こうした対立関係が解消されて、ある種の安定がもたらされることになるのは、シェリルが病気とスランプを抱え込み、自由に飛び回ることができなくなる時点においてである。ここにおいて、アルトは、弱い女性を守るという男性的な役割を獲得することができるが、しかし、再びシェリルが歌姫としてカムバックしたときには、アルトの立場は動揺してしまうことだろう(作品内においてこの動揺がはっきりと描かれているとは言いがたいが)。


 ここでちょっと視点をずらして、歌うことそれ自体を問題としてみることにしたい。『マクロス』においては、ある種、歌うことと戦闘することとが並置されているところがある。例えば、アルトが戦闘機に乗って敵と闘っているシーンで、シェリルやランカの歌が流れるという場面がいくつかある。こうしたシーンに関して、歌は戦闘を補助するものとして機能している、というふうに言うことはできるだろう。スポーツにおける応援のように、闘っている人たちを激励するために歌がある、ということは言えるだろう。


 だが、このような歌と戦闘との相補的な関係、さらには、戦闘がメインで歌がサブという関係性にではなく、歌と戦闘との対立的な側面にもっと注意を向ける必要があるだろう。そもそも、『マクロス』において、歌の存在が人々の戦闘意欲を萎えさせることにあったとするならば、戦闘民族のゼントラーディたちが忘れていた「文化」というものが歌に体現されていたとするならば、歌の存在は、端的に戦闘の停止を意味しているのではないだろうか。このことは、歌が戦争の反対、平和を象徴するものであるということではなく、歌それ自体のうちに何か過剰なものが潜んでいるということである。戦闘という過剰が一方にあるとするならば、他方に存在するのも歌という別の過剰なのである。


 それゆえに、歌はそれだけで自律している運動体と捉えるべきである。歌はそれだけでひとつの強度を保持している。ある意味、『マクロス』というのは、こうした歌の強度を巡る物語だと言えるかも知れないが、まさに、ここに、アルトの進路を阻む大きな壁がある。つまり、アルトが何か強度のあるものを求めて戦闘機乗りになったとしても、そんなふうに戦闘行為のうちで獲得される享楽を台無しにしてしまうような、さらなる過剰がすぐ隣に存在するのだ。


 戦闘行為に見出される享楽の問題。この問題は、『スカイクロラ』において、退屈な日常生活に刺激を求めるために永遠に闘い続けるという設定の下、皮肉な形で描かれたが、こうした『スカイクロラ』の問題がそっくりそのまま『マクロスF』にも見出すことができると言える。戦闘においては生と死の境界線が問題となる。それは、つまり、不安定なロープの上を綱渡りしていくことである。そのようなロープの上をいったいどこまで渡っていくことができるのか、あるいは、どこまででも渡っていきたいというのがアルトの望む方向性だとすれば、ランカやシェリルが体現している歌の方向性は、それとは別の仕方で、ある種の過剰さを醸成していくことだと言える。


 こんなふうに考えると、『マクロス』という枠組みの中では、『マクロス』というゲームのうちにあっては、戦闘機乗りはどうしても歌姫に負けざるをえない。つまり、アルトは、彼が最初に直面したシェリルの壁をどうしても突き抜けることができないのである。戦争はいつかは終わる。戦争が終われば、戦闘機乗りは日常に回帰せざるをえない。そうした意味で言えば、戦闘と歌との対比は、非日常と日常との対比だと言えるだろう。日常生活においても歌は残り続けるのであり、劇場版『マクロス』の「愛・おぼえていますか」の歌のように、時間や空間を飛び越えて、限りなく伝播し続けるのである。


 それでは、アルトには、いったいどのような出口があるというのか。おそらく、もっとも有効な解決方法は、アルトもまた、ランカやシェリルと一緒になって、歌うことだろう。場合によっては女装をして(その女性的な立場を引き受けて)歌うことだろう。この点は、僕がこのブログで何度も強調したことであるが、男性的な尊厳を回復させるために非日常的な設定を持ち出してくることには限界がある。大きな物語を捏造することには限界がある。それゆえに、今日問われるべきなのは、日常生活のうちに、いったいどのようにして有効な出口を築き上げるのか、ということである。


 『マクロス』という作品の偉大さがあったとすれば、それは、全面戦争という究極的な出来事の解決として、歌という非常にささやかなものを持ち出してきたことにあるだろう。そして、重要なのは、歌というのがそれほどささやかなものではなく、戦闘以上の過剰さを抱え込んだ厄介な代物だった、ということである。


 以上は、非常に単純な枠組みのうちで『マクロスF』を見た視点なので、物語の細部に関していろいろと見落としがあるだろうが、ひとまず、このような観点から今度の劇場版も見てみたいと思っている次第である。その他にも『マクロスF』に関しては興味深い論点がいくつもありそうなので、余裕があれば、今度それを書いてみたい。おそらく劇場版の感想という形になるだろうが。

ちょっとした近況

 来月の頭に知り合いのIさんと、「電撃文庫で振り返るゼロ年代」と題して、ゼロ年代サブカルチャーについて話し合う機会を設けたので、現在その準備をしているところ。
 「電撃文庫で振り返る」と言っても、僕はラノベそれ自体はほとんど読んでいないので、電撃文庫でアニメ化された作品を中心に何かを語りたいと思っている。
 これまでに見ていなかった電撃作品のアニメを消化しようと思っているのだが、今のところ、『乃木坂春香の秘密』を少し見たぐらいである。次は『ブギーポップ』でも見てみるか。


 新作アニメはやはりほとんど見ていない。ちゃんと見ているのは『サンレッド』ぐらいだろうか。
 個人的には、今期は、『DARKER THAN BLACK』と『White Album』、それぞれの二期があるのが気になっているのだが、まだ見ていない。いずれまとめて見る予定。
 これら二つは、僕の中では、(ゼロ年代の重要な心性だと言える)諦念の問題を描いている作品だと思っている。ちなみに、僕が思う、諦念アニメの最高傑作は『GUNSLINGER GIRL』である。
 『White Album』は分割二クールだから、二期があるのは当然として、『DARKER THAN BLACK』に二期があったことは単純な驚きだった。一期目が完成度の高い完結した作品だったので、いったいどんなふうに続編を作っているのかが非常に気になる。「気になるなら、さっさと見ればいいじゃないか」という話なのだが、アニメに対する情熱がまだまだ回復していないので、それなりに回復したら、まとめて見てみたいと思っている。


 そもそも前期のアニメを消化しているところ。今見ているのは『東京マグニチュード8.0』。これはなかなかキツイ感じのアニメなので面白く見ている。
 そう言えば、今期のノイタミナ枠の『空中ブランコ』は、第1話だけ見た。監督の中村健治については、『モノノ怪』が非常に良かったので次回作に期待していたけど、より変な方向に展開していったなという感じで、僕は単純に面白いと思っている。『空中ブランコ』は、何というか、非常にアクの強いアニメだけど、こういう実験的な作品は当然あってしかるべきだろう。これも、いずれ、まとめて見てみたい。


 しかし、個人的には、新作のアニメを見るのをやめて、昔のアニメをいろいろと見てみたいという思いも強くある。僕にとって、80年代後期から90年代の初期は、純粋に楽しんでアニメを見ていた時期にあたるので、このあたりの時期の作品をじっくりと見返してみたいという思いが強くある。まあ、単なるノスタルジーなわけだけど、一度こんなふうに後退しないと、何かが前進することはないかも知れない。

人間関係を斜めから見る猫の視点――アニメ『にゃんこい!』について(その2)

 『にゃんこい!』のアニメを見ながら考えたことをちょっと書いてみたい。


 ちょっと前に、僕は、この作品について、猫たちのネットワークは人間たちのネットワークの外部に位置するものではないかというようなことを書いたが、よくよく考えてみると、これほどまでに、街の至るところに、猫たちが存在しているのは、まさに人間たちがそこにいるから(人間と猫が共存しているから)に他ならない、ということに思い至った。つまり、猫たちのネットワークは、人間の世界の外部に位置する自然のネットワークではなく、人間たちのネットワークの一部を構成しているのではないか、ということである。


 あるいは、こんなふうに言えるかも知れない。猫たちが実際に言葉を交わして巨大なネットワークを構築しているようにはとても思えない。それにも関わらず、「猫の集会」のように、猫たちが独特のネットワークを形成しているように想像されるのは、そこに人間関係のネットワークの一部が投影されているからである。ざっくばらんに言ってしまえば、人間には表の顔と裏の顔とがあり、猫はその人間の裏の顔を知っている存在として想定されているのではないか、ということである(飼い猫に誰にも言えない自分の秘密を打ち明ける人もいることだろう)。つまるところ、猫たちのネットワークを辿っていくことは、人間の裏の顔にアクセスすることができる通路になっているのではないか、ということである。


 こんなふうに考えると、『にゃんこい』という作品が目指そうとしている方向性をそれなりに理解することができる。つまり、『にゃんこい』が描き出そうと狙っているのはあくまでも人間関係であり、言うなれば、人間関係を斜めから描き出そうというのがこの作品の方向性ではないのか、と思うのだ。


 なぜ人間関係を斜めから描き出そうとするのか。それは、おそらく、この作品が、人間関係の豊かさ、人間関係のはらむ豊かな可能性のようなものを再発見しようとしているからである。ここで打破されることが目指されているのは、人間関係を固定したものとして捉える視点、あるいは、人間関係のネットワークの結節点となっている個々人の人格の固定化である。


 猫たちのネットワークを持ち出してくることによって明らかになるのは、人間たちが明確には意識していない、人間関係の別の可能性である。言うなれば、猫たちは、人間たちが見ていないものを繋ぎ合わせることができるがゆえに、当事者以上に人間関係のことを理解している可能性があるのだ。


 第2話のエピソードにおいては、ヤマンバのメイクをしている住吉加奈子の顔という形で、まさしく、表の顔と裏の顔との分裂が問題になっている。ここで焦点となっているのは、加奈子と(主人公の)高坂潤平との関係性であるのだが、この関係性に変化がもたらされるのは、まさしくそこに猫の視点が介入するからである。猫の視点からすると、加奈子の顔には分裂が生じない。猫にとっては、ヤマンバのメイクという、ある意味、顔の消失という事態は生じない。これは、つまり、顔が問題になるのはあくまでも人間同士の間だけだということだろうが、このような猫の視点を通過することによって、潤平は、忘れていた加奈子のもうひとつの顔を思い出すことになる。そして、そのような記憶の喚起によって、関係性の変化がもたらされることになったのである。


 こんなふうに、潤平が、ある種の豊かさ、非常に豊かな鉱脈を発見することができるのは、ただ単に、彼が猫たちのネットワークに介入することができるようになったからである。そして、重要なのは、猫たちのネットワークが普通の人間にとっては不可視なものになっているという点である。つまり、高坂潤平は、不可視のネットワークに介入することによって、見かけ上、あたかも、これまでとはまったく異なる人格を獲得したかのような振る舞いをすることになる。「まったく異なる人格」というのが言い過ぎだとしたら、彼は自身の人格の幅を広げることになった、というふうに言ってもいいだろう。


 いずれにしても、このような振る舞いの変化が、人間関係の変化をもたらすことになるというのが、この作品のポイントであるように思う。そして、そこでの変化は、外部からもたらされたものではなく、すでにその関係性のうちに潜在的な可能性として備わっていたものと考えられるのだ。


 こういう文脈において、僕は、この『にゃんこい』という作品が『夏目友人帳』と非常によく似た方向性に向かっている作品だと思っている。『夏目』と比較してちょっと気になるのはタイムスケールの問題である。『夏目』において、妖怪たちのタイムスケールは人間たちよりも非常に大きなものだった。これに対して、猫のタイムスケールは人間たちよりも小さい。このようなタイムスケールのギャップが視点の変化、世界を捉える視点の変化をもたらすことになるわけだが、『にゃんこい』においては、こうした視点の変化がどのような形で描かれることになるのか。こうした点がちょっと気になるところである。

Twitterを始めてみた

 何となく新しい刺激がほしくて始めてみた。今はまだ試行錯誤の段階だけど、個人的にはそこそこ良い感じ。
 何というか、mixiとかと比べると、他人との関係性が非常に緩そうなので、そういう緩い繋がりというのは、ひきこもり体質の僕としてはなかなか悪くないかなあ、と。関係が密になると、いろいろときつくなることがあるので。


http://twitter.com/ashizu


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情熱を失いつつある

 アニメを見る情熱をちょっと失ってきたところがあるので、情熱を回復させるためにも、録画したアニメの消化を極端に減らそうと現在画策中。
 そういうわけで、今期の新作アニメチェックも極力控えようと思っている。
 ちなみに今期のアニメでは、『君に届け』がかなり良かった。アニメ制作はProduction I.Gのようだけれど、今年は、『戦国BASARA』と『東のエデン』があったし、僕の中ではI.G株がかなり高まっている。
 『君に届け』は背景が良かった。現在『おおきく振りかぶって』のアニメを見ているけれども、これも背景がいいアニメだ。特に青空がいい。
 まあ、そんな感じで、アニメに対する情熱があまりないので、今後このブログにもアニメ以外のことを積極的に書いていくかも知れない。

父のいない世界でゲームを続けるということ――アニメ『少年突破バシン』の感想

 『バトルスピリッツ 少年突破バシン』を最後まで見てみた。


アニメ『少年突破バシン』の緩くて狭い世界
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090609#1244550232


 『バシン』については以前、上記のような記事を書いたが、この作品に対する基本的な考えはあまり変わっていない。なので、ちょっと補足的にだけ感想を書いておきたい。
 上の記事に書いた善と悪との対立構造であるが、最終回までの展開の中で、それなりに対立構造が提出されたところがあったが(ナンバー9が悪役になることで)、予想通り、そこでの対立構造がメインに描かれることはなかった。つまり、大きな水準で誰かと誰かが対立しているという構図が描かれることはなかったように思う。
 それゆえに、最終的なバトルが父と子との闘いだったとしても、そこでの対立構造の意味が非常に希薄なものになってしまっている。言うなれば、『バシン』の最終回で描かれる父と子との対立などというものは、『カブトボーグ』の第1話で描かれる父と子との対立ぐらいの重みしかない、ということである。
 そもそも、子供向けのアニメ、さらには、男の向けのアニメにおいて、何がテーマとして問題にされるべきかという問題設定などというものは、今日、ほとんどその意味を消失しているように思える。例えば、成長などというテーマを前面に押し出している作品など、2005年の『エウレカセブン』ぐらいしかなかったことだろう。そして、『エウレカ』が紆余曲折の果てにしか成長というテーマを描けなかったとすれば、今日のアニメにおいて、成長をテーマにすることは非常に困難になっていると言える。つまり、大人になるということがどういうことなのか、そこに共通了解がまったくない、ということである。
 70年代くらいのアニメを見ていると、そこには、成長するということがどのようなことなのかという、明確なヴィジョンがあったのではないか、という気がしてくる。例えば、『あらいぐまラスカル』や『母をたずねて三千里』などの作品においては、成長することがどういうことなのかということが、明確に提示されているように思う。いわゆる「世界名作劇場」の作品のすべてが成長を問題にしているわけではないだろうが、子供にアニメを見せるとはどういうことなのかという問いが70年代くらいにはそれなりに共有されていたのではないか、という気がしてくるのだ。
 僕は、『バシン』を見始めるにあたって、『エウレカ』のシリーズ構成を担当していた佐藤大が『バシン』のシリーズ構成も担当するということを知って、『バシン』においても、『エウレカ』と同様に、成長の問題が提示されるのではないかと期待していたのだが、その期待はかなりはぐらかされることとなった。
 子供の成長を問題にするにあたって、父との対決という問題設定は、ある種の定番であるだろう。『鉄腕アトム』以来のTVアニメの歴史において、父の問題は常に問われてきたところがあると言えなくもない。『エウレカ』においても父の問題は提示されていた。しかし、『バシン』において提示されたのは父との対立ではなく、『カブトボーグ』が提示したような、父との対立のパロディであり、これはむしろ、父との対立を避けるということ、あるいは、そもそも対立すべき父がいないという、そのような新しい問題設定が提示されたということに他ならない。
 主人公の馬神トッパの家庭を少し見てみれば、父母子の三人家族であるが、家計を支えているのは明らかに母である。そして、父は、自らの夢に生き、なぜだかはよく分からないが、バシンと対立する敵の頭領になってしまっている。こういう家庭像について、現在放送されているアニメですぐに思い出すのが『アイ!マイ!まいん!』であるが、『まいん』の場合は、父と娘との関係性が問題になりうるので、ちょっと事情が違うかも知れないが、しかし、同様の家族像を探せばすぐに何か別の作品で見つけることができるだろう。
 『バシン』に話を戻せば、家庭から消えた父が、仮面をつけて子供の前に敵として現われるところなんかが、何かしら現代の問題を提示しているような気がするのだ。つまり、子供の前に子供の敵として立ちはだかるためには父は子供の幻想の世界に入ってこなければならない、ということである。ここが現代の困難ではないのか、という気がするのだ。
 思い返してみれば、『母をたずねて三千里』においてもまた、家計を支えていたのは母の存在であった。『三千里』においては、まさに、父の負債が子供に対して三千里という距離をもたらしたわけだが、これほどの距離が、これほどの困難が、今日のアニメで見出せることはほとんどないだろう。
 僕としては、こういう事態を性急に嘆くのではなく、現在何が起こっているのかということを精査に見るべきではないかと思っている。『バシン』において目指されていたのは、対立関係の存在しない、ある種、居心地のいい緩い共同体である。こういう緩さが現在、一面では求められているのかも知れないが、しかし、その代償としてもたらされるのは、平板化されたのっぺりとした世界、大きな変化が何も生じない世界というものだろう。こうした世界にどのように起伏をもたらしていくのかということが今日の課題なのかも知れないが、この課題を『バシン』に引き戻して考えてみれば、いったいどうしてバシンたちはあれほどバトスピに熱中できるのかということである。バトスピに興味のない人がこの世界で生きる術はあるのかという問題でもある。
 こんなふうに考えるとすれば、やはり、『バシン』の世界は、『けいおん』などと比べると、少々きつい世界、ゲームを降りることができない世界として立ち現われてくるところがあるように思う。つまり、ゲームをやり続けることができるのならば、そこにはそれなりに緩い関係性が立ち現われてくるのだが、しかし、ゲームを降りることは許されない。逆に、『けいおん』は、ゲームを降りることも示唆されているがゆえに、より幅の広い世界を描いているように思うところもある。
 こういうわけで、僕としては、どうしても京都アニメーションの作品に目が行ってしまうところがあるのだが、京アニの作品については、また別の機会に問題にすることにしたい。『バシン』のあとに始まった『少年激覇ダン』もこれから見てみるつもりなので、何か思うところがあったら、ここに書いてみたいと思う。