2009年秋の新作アニメ感想(その1)――『にゃんこい!』と『けんぷファー』

 新作アニメ、『にゃんこい!』と『けんぷファー』を見てみた。
 まず、『にゃんこい』だが、これはかなりいいんじゃないかと思った。僕は、いつも、アニメ作品というものをトータルな観点から見ていて、もちろん個人的な好みというものはあるが、作品全体のバランスが良ければ、基本的にそれで評価したいと思っている。
 『にゃんこい』が良いと思ったのは、この作品が世界を描き出そうとする意志を少なからず持っていると思ったからである。世界というのは、つまり、人間たちによって作り出される領域よりももっと大きな外の領域ということである。
 『にゃんこい』は、まず、猫たちのネットワークを描き出すことによって、そうした人間の領域の外部を指し示す。しかし、そんなふうに、人間以外の存在のネットワークが描かれれば、それで世界が描かれることになる、というわけではない。仮に人間関係だけがそこで描かれているとしても、そうした人間たちがより大きな領域の内部に属しているということが描かれているのならば、それは世界を描いていることになる。
 ここで重要になってくるのが風景である。アニメーションにおいて風景というものは非常に重要ではないかと思うのだが、『にゃんこい』は、ただ単に猫たちのコミュニケーションやネットワークの水準だけではなく、風景の水準でも、人間の外部を描き出そうとする意志を見出すことができた。
 いったいどのような風景が描かれていればいいのかというのは一概に言うことはできず、キャラクターデザインとのバランスなどが問題になってくるのだが、例えば、京都アニメーションの作品は、風景によって世界を描き出そうという意志を十全に見出すことができる。その他、最近気になった作品を列挙すれば、『夏目友人帳』、『咲』、『かなめも』などがあるが、こうした作品の系列に『にゃんこい』も位置づけられるのではないかと思ったのだ。
 しかし、第1話だけで判断するのは早計なところもあるので、もう少しよく見てから判断したい。


 『けんぷファー』は、上記のような評価基準からするなら、のっぺりとしたアニメという印象を抱かざるをえない。つまり、人間関係だけがここでは問題となっているということであるが、しかし、それだけで、これは悪いアニメだと言うことはもちろんできない。やはり作品をトータルに見ていく必要がある。
 『けんぷファー』をテーマ的に見ていくとすれば、やはり変身ということを問題にすべきなのだろうが、アニメーションにとって変身というモチーフが重要であるとしても、この作品で特にそのモチーフを追究したいとは思わない。というのも、やはり、『らんま1/2』などの先行する作品のことがいろいろと思い浮かぶからだ。
 『けんぷファー』には、自己言及的な小ネタが目立ったが(「けんぷファーと言ってもモビルスーツのことではない」とか)、こういうプラスアルファの試みはどんどんやるべきだろう。これも作品を豊かにしていくための試みだと思うからだ。
 しかし、問題なのは、こうしたネタが作品を狭く閉じたものにしないかということである。こうした小ネタは視聴者を限定するネタであり、ある種の内輪感覚をもたらす。そんなふうに最初から視聴者を限定してしまうのもひとつの方向性だと思うのだが、オタクの共通了解というものが崩壊している現在にあっては、よほど明確な意図の下にネタを仕込まないと、「ああ、これはこういうアニメね」という早計な判断を視聴者に下されないとも限らない。単純に、小ネタを入れるのなら、シャフトのアニメぐらいに徹底してやらないとインパクトがない、ということもある。
 僕は、第1話を見ただけだと、『けんぷファー』の見所を発見することができなかったが、何話か見続けたなら何か発見があるかも知れないので、何かあったらそのときにまたちょっと書いてみたい。