グロいものについてちょっと考えてみた

 ネットを徘徊しているといろいろなものに遭遇するわけだが、たまに、俗に言う「グロ画像」と遭遇することがある。遭遇したくないときに、こういう画像を見ると、かなり気分が萎えてしまうが、しかし、ごくたまに、グロ画像を積極的に見てみたくなるときがある。


 それはなぜなのかということをちょっと考えてみたいのだが、グロ画像にもいろいろとあるので、一概には言えないかも知れないが、例えば、内臓が飛び散っている死体の画像などには、ある種の爽快さを感じることがある。


 この爽快さはどのような質のものなのかということを考えたときに、それは、簡単に言ってしまうと、人間の世界を構成している様々な決まり事や約束事というものを、一足飛びに、無効化してくれる、そうした種類の爽快感ではないかと思う。


 つまり、ぐちゃぐちゃになった死体の画像を見ていると、「なんだ、人間というのは、結局のところ、肉の塊なんだな」ということがよく分かってくるというか、非常に小さいことにぐずぐずとこだわっていたのが一挙に吹き飛んでしまうような気がするのだ。


 しかし、だからといって、そんなことで、人間の世界(社会)の決まり事がすべてが吹き飛んでしまうことはなく、一時的にそういう気分になるということだが、何にしても、グロいものが人間の世界から排除されがちなところがあるのは間違いないように思う。死というものもまた、人間の世界からは、排除されがちなところがあるだろう。


 人間の世界を構成しているのは、どちらかと言えば、美しいものだろうし、もしかしたら、決して死ぬことがない美しいものが理想とされているのかも知れない。新陳代謝は常に行なわれているだろうが、何かがずっと生き続けることが理想とされているところがあるかも知れない。


 しかし、僕は、ときたま、こうした美しいものに嫌悪感を抱くことがある。何というか、美しいものがあまりにも人工的に構築されたものだということが分かってしまうと、そこでの人工性というものに嫌悪感を抱いてしまうのだ。


 だからといって、僕は、「結局のところ、人間は、醜い動物にすぎない」ということを言いたいわけではないし、そうしたことが最終的な真理だと思っているわけでもない。そうではなくて、人間がそうした動物的な部分、自然な部分を洗練させていくことは必然的であるにしても、いったいそれをどこまで推し進めるのか、そのバランスがいつも気にかかるのだ。


 僕は、現在の日本の社会というのは、そうしたバランスが、様々な点で、あまり良くないんじゃないかと思っているのだが、簡単に言ってしまうと、この社会が理想としている人間像と醜い部分をたくさん抱えこんだ動物としての人間像との間の乖離がかなり大きいんじゃないか、と思っているのだ。


 あらゆる人間社会が虚構によって成り立ってるということで言えば、あらゆることが口に出せるわけではなく、口に出しやすいことと口に出しにくいこととが当然あることだろう。しかしながら、人間というものは口に出せることだけによって出来上がっているわけではないので、口に出せないことがどこかに溜まってしまって、そこで溜まったものが何か巨大な爆弾のようなものを作り上げてしまう、そんな事態になっているのではないか、という恐れがあるのだ。


 だから、僕としては、グロいものとか、醜いものとか、非人間的なものとか、そうしたものをもっと人間の世界に取り入れてもいいんじゃないかと思っているのだが、ここで課題になっていることを簡単に言ってしまうと、不愉快なものをどれだけ許容できるのか、ということだと思う。これはかなり難しい課題だと思うのだが、これは、個々人の心がけの問題ではなく、不愉快な言葉というものをどれだけ中和することができるのか、という言説上の問題であるように思う。つまり、ここでは、思想というものが問題になりうると思うのだ。


 われわれの社会は、不愉快なものと出会う機会を極力少なくしていると思うので、その点では非常に快適な社会だと思うのだが、逆に言えば、そんなふうに不愉快なものとの対面を避けることによって、言説を豊かにする機会を常に失っているとも言える。


 毎日のニュースで、非常に多くの人が死んだり傷ついたりしていることが報道されているわけだから、そこには、何かしら不愉快なものとの直面があるはずなのだが、ニュースだけを聞いていると、そうした不愉快さを感じる余地というものはほとんどない。僕はよく食事をしながらニュースの報道を聞いているのだが、人が何人死んだというのを聞いても、食事をするのが嫌になると思うことはめったにない。この洗練の技術というのはかなり驚くべきものではないかと思う。


 こんなふうに、人間の世界からは非常に上手く排除されている次元というものがあるわけだが、そもそも、人間の存在それ自体が、何かグロいものによって出来上がっているのだから、そのような虚構性というものは、まさに皮膚一枚の虚構性だと言えるだろう。


 何度も言うが、僕はこうした虚構性が問題だと思っているわけではなく、そのバランスが問題だと思っているのであって、現在の日本社会には、語られていないことが非常にたくさんあるように思えるのだ。


 語られていないことを語ることは人間像の更新を目指すものであり、人間像の更新は社会の更新を必然的にもたらすことだろう。比喩を用いて言えば、自らの臓腑について、あるいは、胃の中や腸の中にあるものについて、それらをどうやって言葉にしていったらいいのか、そういうことが課題になっているように思うのである。