『ルパン三世』はどう変わるのか――『ルパン三世VS名探偵コナン』を見て

 先日放送されたスペシャル番組、『ルパン三世VS名探偵コナン』をやっと見たので、思うところを書いておきたい。


 毎年放送されている、いわゆる「ルパン・スペシャル」について、僕は、基本的に、冷ややかな目で見ていた。見るときもあり見ないときもあるという感じだったが、ここ数年はあまり見ていなかった。というよりも、なぜ『ルパン三世』というアニメが、これほどまでに継続的に作られ続けなければならないのか、その必然性がまったく理解できないでいた(今もよく分からない)。


 確かに、『ルパン三世』というのは、TVアニメの代名詞的なところがあると言えなくもない。現在の『ルパン三世』のイメージを決定しているのは、原作のマンガでもアニメの第一シリーズでもなく、おそらく、アニメの第二シリーズだろうが、この第二シリーズが、個人的な実感から言うと、TVで頻繁に再放送されていたように記憶している(80年代から90年代にかけて)。つまり、気がつくとTVで『ルパン』が放送されているという状態があったわけだが、このような印象が形成されたのは、第二シリーズの再放送のためだけでなく、『カリオストロの城』を始めとした劇場版がいくつかTVで放送されたり、まさに1989年からは「ルパン・スペシャル」が毎年放送されるようになった、という流れがあったためだろう。


 こんな状況にあっては、確かに、『ルパン三世』という作品が、単なるTVアニメの一作品であるに留まらず、TVアニメそのものを代表するような、何か象徴的な存在になってしまっているという状態を理解できなくもない。しかし、なぜ、数ある作品の中でも、特に『ルパン』がその座に選ばれたのか、というところについては、やはりよく分からない。


 最近、たまたま、宮崎駿が『ルパン三世』について語っている昔の対談記事(1981年に行なわれた大塚康生との対談)を読んだのだが、その中で、宮崎は『カリオストロの城』を作ったときの心境について、次のように述べている。

ルパンの劇場物をやらないかといわれたとき、なんで今さらって僕は思ったんですよね、率直にいって。
 つまり僕の想いとしては、これは大塚さんもそうだと思うけど、ルパンっていうのは六〇年代から七〇年代にかけて生きてたキャラクターでね。今さら出てくるには古すぎるって思ってましたから。
(中略)
 で、その後に新シリーズがあって、劇場版があって。これで一区切りついてたわけで、本当のことをいうとルパンっていうのは終わった作品だなあと思ってた訳です。それを再度やるっていわれたときに、実は非常に当惑したというのが本当のところです。
(中略)
 まずルパンっていう企画は実にフトコロが深いんですよね。その、何か絶対的な永遠のルパン像があるんじゃなくて、いろんなものを放りこめるから、大塚さんがいったように、いろんな解釈が生まれてくる。だから百人の人間がいると百のルパン像があるんですね。そこで、自分なりのルパン像を作らなければならない羽目になったときに、六〇年代末から七〇年頭に一番生き生きしていた男が、今、生き恥をさらして生きているというふうに構えるしか手がなかったんです。
(『映画「天空の城ラピュタ」ガイドブック』、徳間書店、1986年、186-187頁)

 そんなふうにして生まれた作品が『カリオストロの城』だった、というところに、僕は、非常によく納得できるところと少しばかりの違和感があった。よく納得できるところというのは、『カリオストロの城』には、ひとつの時代が終わった後の作品というところがはっきりと見出せるからである。『カリオストロ』の物語とは、ルパンが思い出の場所にもう一度帰ってくる話だと言えるだろう。つまり、作品の中に、明確に時間の経過が描かれているのであり、そのような時間の経過が、歳を取ったルパン、若い頃とは違うルパンといった年齢の違いというものを明確に印づけているのである。


 これに対して、僕の抱いた違和感というのは、ルパンというのは歳を取らない存在ではなかったのか、というものである。ルパン・ファミリーは永遠に歳を取らず、いつまでも銭形に追いかけられているのではないのだろうか。こうした僕の実感は、80年代以降に作られた『ルパン』作品に影響されているのだろうが、少なくとも宮崎駿の中では、『ルパン三世』とは、終わりのない物語ではなく、明確に終わりのある物語、言い換えれば、時代性を持った作品ということなのだろう。


 『ルパン』の第一シリーズが1971年で、第二シリーズが1977年、そして、劇場の一作目(『ルパンVS複製人間』)が1978年で、二作目の『カリオストロの城』が1979年。これらの作品を時代性を持った『ルパン』作品だとすれば、80年代以降の『ルパン』とは、時代性を失ったというよりも、時代性をあえて抹消することで、永遠の生を獲得した、そのような『ルパン』作品だと言えるだろう。


 しかし、「永遠の生」というのはおそらく言いすぎだろう。80年代以降の『ルパン』もまた、多かれ少なかれ、時代に拘束されているはずである。「怪盗」という観念の寿命が尽きる時がいつか来るはずである。そもそも、『ルパン三世』という作品それ自体が、一度は死んだはずの「怪盗」の物語を新しい形で蘇らせたものではなかっただろうか(『ルパン三世』には探偵小説よりもハードボイルドの要素が見出せる)。


 少なくとも、僕にとって、『ルパン三世』というのは、すでに死んだ作品だった。新しく作られる『ルパン』作品を見ても、取りたてて何か得るものがあるとは思えなかった。むしろ、大して斬新なことがなされないというところが、『ルパン三世』という作品が毎年放送されている理由なのかも知れない。僕みたいに新しく作られる深夜アニメを絶えずチェックしているような人間などというものはほんの一握りの人間であって、多くの人(とりわけ年長者)にとっては、アニメと言えば、『サザエさん』であり、『ドラえもん』であり、『ルパン三世』なのだろう。そのような古き良きTVアニメのイメージを維持し続けるために、『ルパン三世』が毎年放送されているのかも知れない。


 そんなふうに漠然と思っていたのだが、今年の『ルパン』は、『ルパン三世VS名探偵コナン』などという色モノ企画になっていて、この変化はいったい何なのだろう、ということをちょっと考えさせられた。この変化というのは、2005年に『ドラえもん』のアニメがリニューアルされたことと何か関係があるのではないか、ということも思った。いったい、今回の「ルパン・スペシャル」では何がなされているのだろうか。


 まず僕が連想したのは、現在放送されている特撮『仮面ライダーディケイド』で問われている「全てを破壊し、全てを繋げ」というテーマである。『ディケイド』では、これまでの平成ライダー作品を、言うなれば、メタな視点から対象化し、それらの物語を繋ぎ合わせるという大胆な試みがなされているわけだが、ここでの狙いは明確であるように思う。つまり、もはや、物語のパターンというものは出尽くしているのであり、キャラクターや設定を変えただけの物語ならいくらでも新しく作れるだろうが、そんなふうにして新しい物語を捏造するよりも、これまでの物語を融合させることで、何か特別な化学変化が起きないだろうか。起きるとしたら、そこからこれまで見たこともないような物語構造というものが生じるかも知れない。そうしたことが狙われているように思えるのである。


 そして、同様のことが、今回の「ルパン・スペシャル」でも問題になっていたのではないだろうか。つまり、この先、いくらでも、新しい『ルパン』の物語を作ることはできるだろうが、そこでの新しさというのはシチュエーションの新しさなのであって、物語構造それ自体が新しくなるわけではない。それゆえ、『ルパン三世』という作品のマンネリズムそれ自体を克服することはできない。もちろん、このマンネリの部分を取り除いてしまうと、それはもはや、『ルパン』の物語ではなくなってしまうかも知れない。多くの人が期待しているのは、いつもの『ルパン』が放送されることなのかも知れない。


 この点が『ドラえもん』のリニューアルを連想させるところなのだが、『ドラえもん』が、物語の基本的な構造を変えることなく、作品の印象を一変させたのと同様の変化が『ルパン』にももたらされる必要があるのではないか。そうした危機意識があったからこそ、今回のような色モノ企画が出てきたのではないかと思うのである。


 今回の「ルパン・スペシャル」でなされていたことは、『ルパン』と『コナン』という二つの世界でこれまで行なわれてきたお約束を組み合わせることだったわけだが、ここには、間違いなく、メタの視点を見出すことができる。つまり、二つの物語において何がお約束であるかということを視聴者が知り尽くしているということがここでの前提であり、二つの物語がすでにマンネリ化していることすらも前提となっている。こうした視点から二つの物語を強引に融合させ、それぞれの物語を相対化して眺めること。そのようなメタ視点を作品の内側に組み込むこと。そうすることによって、マンネリ化したこれら二つの物語は一時的な輝きを取り戻すことができたのではないかと思う。


 何というか、二つの物語を近づけてみると、それぞれの物語がいかに荒唐無稽で、馬鹿げていて、リアリティというものがないか、そのような意味での物語の虚構性が如実に現われ出ていたように思うのである。二つの物語のそれぞれのキャラクターたちが、自分たちの役割を、どれほど決まり悪く引き受けなければならないのか、そうした違和感すらも表現できていたように思える。つまり、様々なお約束が相対化されて、一旦はギャグの対象になることで、逆にそのことが古びた物語に生命を与える、そうした効果をもたらしていたように思うのである。


 僕としては、今回の「ルパン・スペシャル」は非常に楽しめたが、しかし、物語がメタなレベルに進むというのは、基本的に、ジャンルの衰退を意味していると思う。従って、今回のような措置というものは一時的なものであって、物語の再生を本格的に目指すのであれば、別の新たな方策というものを考え出さなければならないだろう。『ドラえもん』の場合は――リニューアル作品をそれほどちゃんと見ていないのではっきりとは言えないのだが――物語構造の部分は基本的に同じままで変えることなく、逆にキャラクターの印象を大胆に変えることによって、これまで構築されていた『ドラえもん』の世界を一変させたところがあるのではないかと思う。そして、このようなリニューアルの問題に『ルパン』も直面しているのではないかと思うのである(これまでの「ルパン・スペシャル」でもいろいろと実験が試みられているかも知れないが)。


 最初に言ったように、いったいなぜ『ルパン』が放送され続けなければならないのかよく分からないが、おそらく、何か昭和的なもの、これまでの日本というものが持っていたイメージが現在もまだ生き続けているということを確認するものが必要だ、ということなのだろう。もしかしたら、天皇制というものもそのような役割を担っているのかも知れないが、いずれにしても、変わらない何かがあるということが、われわれの生活の基盤を構成しているのだろう。


 しかし、一方で、時代は変化しているはずである。変わらなく見えるものの内実も変化しているはずだろう。そもそも、ルパンの声優だった山田康雄が亡くなり、栗田貫一に変わったことが大きな変化だった。ルパンの声が昔から変わらないように見えるところが錯覚である。『ドラえもん』の声優が一新されたように、『ルパン』の声優も変わらざるをえないだろうが、それに伴って作品それ自体にどのような変化がもたらされる可能性があるのか。今回のスペシャル番組はそうしたことをいろいろと考えさせられて、非常に面白かった。