世界の背後にある機械――『恋する天使アンジェリーク』

 『恋する天使アンジェリーク』のアニメを見ていて、少し思ったことがある。それは、現在のわれわれにとって、機械という観念が果たしている役割とはどのようなものなのか、ということである。


 『アンジェリーク』のストーリーは、普段あまり真剣に見ていないので、よく分からないところがあるが、どうも、ある種の神々の話らしい。少なくとも、そこには、二つの世界があり、一方には管理者としての神々の世界があり、他方には管理される側の人々の世界がある。管理される側の世界では、まだ文明がそれほど発達しておらず、神々の世界からの干渉を受けることによって、その世界が理想的な方向に発展していくことになる。そして、そこで中心的な役割を担っているのが、主人公の女の子ということらしい。


 このような神々と人類との関係において、興味深いのは、その中間に、現代的なテクノロジーが、つまりは、コンピュターが介在しているということである。神々は、もうひとつの世界の動向を、モニタを通して、あるいは、数値化された様々なデータを通して、観測する。


 このような機械の存在は、『ああっ女神さまっ』にも見出すことができるものである。そこにおいて、神々が持つ超自然的な能力は、言ってみれば、テクノロジーの産物である。そこで描かれる神々の存在は自律した存在というよりも、それらの神々を統べる全体的なシステムの一部という印象を受ける。つまり、そこにある究極的な観念とは、この世界を支配しているのはひとつの機械、非人格的なひとつの機械である、というものだろう。


 人類の運命を左右する神々が、ほとんど人間と変わらないような思考と感情を持った存在として描かれるというのが、多神教の特徴なのかも知れない。つまり、この観念を推し進めていけば、神々の上にさらに上位の神々がいて、その上位の神々の上にさらに上位の神々がいる、ということになるだろう。その結果立ち現われてくるのは、神々にも自由にならない自然というものの存在である。この自然の地位と機械の地位とは非常によく似たもののように思える。機械がひとつのシステム(命令−応答のシステム)であるのと同様、自然もひとつのシステムであるということである。


 ここには、まさに、われわれが機械に対して持っている観念の問題がある。機械は、しばしば、自然の代理をする。機械は、自然のシステムを補ったり、さらには、自然のシステムの背後にあるシステムとして働いたりする。それゆえにこそ、例えば、『メガゾーン23』で描かれていたような(あるいは映画『マトリックス』のほうがいいかも知れないが)世界の背後にある機械という幻想が導き出されるのである。


 こうした発想がどこに繋がっていくのか分からないが、機械の存在がひとつの壁を作っていることは間違いない。機械の存在は、自然の存在と同様に、われわれの思考をストップさせるところがある。「それは動いている」というところで、われわれは満足してしまいがちだ、ということである。


 『アンジェリーク』という作品において問題になるのは、この作品で主として描かれるが恋愛であるにも関わらず、なぜ、そのような世界観が要請されるのか、ということである。ファンタジー的世界観と少女マンガ的な恋愛の要素、そして、おそらくゲームシステムが要請したであろうテクノロジー的な要素とが奇妙にも融合した作品が、この『アンジェリーク』という作品なのだろう。そこには、超自然的なものと自然的なものとデジタルなものとの照応関係が見出されるのである。