帰ってきたヤマト

 先週の深夜、TVで、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』が放送されていたが、それを見て思ったことを少し書いてみたい。


 以前、同じような時間帯に、『さらば宇宙戦艦ヤマト』が放送されていたが、前回も今回も、映画『男たちの大和』に関連しての放送だったらしい。『男たちの大和』は未見だが、アニメの『ヤマト』を見て思ったことは、戦艦大和という船は、つまるところ、帰ってこなかった船だ、ということである。大和は今でも海の中に眠っている、という語り草がなければ、おそらく、『宇宙戦艦ヤマト』のストーリーは構想されもしなかっただろう。


 『ヤマト』の世界では、海が干上がってしまっていて、赤茶けた大地に戦艦大和が埋まっているのだが、動き出してからのヤマトと埋まっている時点での大和とは、明らかにその描かれ方が異なる。埋まっている時点での大和は、動かないということもあるが、非常に緻密に描かれていて、動き出して以後のヤマトとはまるで別の船であるかのようである。


 そんなふうにそれまで眠っていた大和が再び動き出したという点で、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』とは、まさに、帰ってきたヤマトの物語だったと言えるだろう。そして、『さらば宇宙戦艦ヤマト』になると、また再びヤマトは、旅立っていってしまうのである。旅立ち、戻ってきて、また再び旅立っていく。この往復運動は、まさに、お盆に戻ってくる祖先の霊魂のようだが、大和という船は、そうした日本人の未練とでも言うべきものが投影されている船なのだろう。


 戻ってくる大和と言えば、『かみちゅ!』のエピソードにもそうした話があったが、「大和」という名前が、サブカルチャーにおいては、「宇宙戦艦ヤマト」をも指すという点で、必然的に、ある種の二重性を持つようになっているという現状は非常に面白いものだと思う。