戦時下での平時

 アニメ『Soul Link』を見ていて、少し気になるところがある。それは、このアニメ作品から、まったくと言っていいほど、緊張感が感じ取られない点である。

 作品のストーリーから考えるのであれば、この作品には、当然のことながら、緊張感が溢れているはずである。というのも、この作品は、軍の訓練施設がある宇宙ステーションがテロリストに占拠されるという話だからである。軍人の卵である少年少女たちがテロリストたちと闘うという緊迫感に満ちたストーリーにも関わらず、なぜ、そこには緊迫感が欠けているのだろうか?

 最近放送されたアニメで、同様に緊張感のない作品として、『ガンパレード・オーケストラ』の名前を上げることができる。白、青、緑、どの章を取ってみても、そこには、戦時下という状況から当然出てくるはずの緊張感が欠けている。

 『ガンパレード・オーケストラ』において、この謎は、作品がいったいどのような方向を向いているのかということを考えれば、自ずと解けるところがある。というのも、この作品で主に描かれることは、幻獣と呼ばれる外敵との闘いではなく、少年少女たちの人間関係、あるいは、土地への愛着といったものだからである。

 この点で、『ガンパレード・オーケストラ』は、間違いなく、セカイ系の構造をなしていると言えるだろう。つまり、そこには、ひとつの乖離が、日常生活と戦闘状態との間に乖離があるのだ。これは、『最終兵器彼女』についても言えることだが、そこにおいて、戦争というものは、日常生活の周辺にある外的なものにすぎない。戦争は、時々、日常生活に侵入してくる自然災害のようなものにすぎないのである。

 それゆえ、ここには、平時か戦時か、という二者択一は存在しない。平時と戦時は、あたかも、二つの異なった場所のように、空間的に配置されているのである。

 このように考えてくれば、『Soul Link』の緊張感のなさも、同種の構造の結果だと言うことができるだろう。つまり、そこで重要なのは、非常事態を背景にしたひとつの日常生活であり、そこで関心が持たれているのは、日常生活における人間関係であって、テロリストに占拠されたという状況そのものは二次的な意味しかもたされていないのである。

 こんなふうに、空間的に、世界が二つに分裂している状態は、セカイ系の作品を始めとして、今日のいくつかの作品を考えるにあたって、重要な観点になることだろう。上記した二つの作品が、両方とも、ゲーム作品でもあるという点も、重要な要因かも知れない。つまり、ゲームにおいては、しばしば、戦闘画面とそれ以外とが明確に分かれているように、局面というのが、世界を分節化する重要な要因になっていると考えられるのである。