『耳をすませば』について(3)



 前回は、物語という観点から、『耳をすませば』という作品を問題にした。『耳をすませば』という作品は、物語というものが三つのレベルで問題になっている作品である。ひとつ目は、物語を書いたり読んだりする対象のレベル。二つ目は、物語を生きる実存のレベル。三つ目は、それらを包括した全体としての作品のレベル(『耳をすませば』という作品のレベル)である。


 前回、この作品のテーマとして、退屈さというものがあるということを指摘した。退屈さとは冒険と対立するような観念である。日常生活の退屈さと物語に見出すことができる冒険との対立である。主人公の月島雫は、日常生活に退屈している少女である。もっと正確な言い方をすれば、退屈しつつある少女である。今はまだ日常生活の中に冒険的な要素を見出すことができるかも知れないが、それがもうすぐ失われるかも知れない。そうした危機感を覚えつつある状態にあるのが雫という少女なのだ。


 こうした問題設定は、そっくりそのまま、映画『ネバーエンディング・ストーリー』に見出せるものだろう。この作品においても、メタレベルが対象のレベルに組みこまれている。つまり、この作品の主人公が読んでいる本の世界の危機とは、人々がファンタジーに対して関心を示さなくなったことなのである。ファンタジーの世界にとっての最大の危機とは、ファンタジーの世界の中で起こる危機ではなく、ファンタジーの世界が忘れ去られてしまうことそのものなのである。


 この点で、『耳をすませば』における「物語を生きる」という次元を際立たせる必要があるだろう。これは、『耳をすませば』という作品を単なる青春物語として読むのではなく、ファンタジー作品として読むために必要な作業である。


 『ネバーエンディング・ストーリー』の最大の敵である「虚無」に該当するようなものを『耳をすませば』に見出すとすれば、それは、受験であるだろう。もっと言えば、それは、受験に代表されるような何かである。括弧付きで「現実」と言ってもいいかも知れない。そうしたものとの闘争という物語が『耳をすませば』のファンタジー的側面である。


 ファンタジー作品にしばしば見出されるような男女のカップル、つまり、危機にある王女と危機を救う王子とのカップルについては、どうだろうか? 『耳をすませば』において天沢聖司が果たした役割とは、彼もまた、ファンタジー世界を構築した(生きた)という点にある。彼が最初に雫と会ったときに(学校のベンチで雫の置き忘れた本を聖司が読んでいる場面)、彼は雫に対して非常に冷淡な態度を取る。こうした聖司の冷淡さの裏にあるのは、雫よりも先に図書館の本を読み、図書カードに自分の名前を書いて、雫に自分を意識させるというロマンティシズムである。彼は、このように、雫に対してひとつの謎を提供することによって、日常生活に冒険をもたらしたわけである。


 雫が聖司に助けられたということが決定的に見出される場面は、雫が大きな壁にぶつかった場面(杉村に告白された後の場面)、物語を読むことの疑問を(猫のムーンに)告白した場面である。このあと、聖司がやってきて、最終的には楽しい演奏会に終わるわけだが、この一連の場面は重要である。まず、聖司が地球屋の裏口から雫を中に入れるときに、テラスから街の風景を見下ろす場面で、雫が「空に浮いているみたい」と言う。そして、その後、聖司が作ったバイオリンを見て、雫は「まるで魔法みたい」と言う。これらの雫の台詞に端的に表われているのは、彼女が再びワクワク感を取り戻しつつあるという点である。少なくとも、「現実」との闘争に敗北宣言しようとするところを踏みとどまったわけである。このように、雫に対して、彼女が失いつつあるものを取り戻させようとしたのが聖司の役割だったと言えるだろう。


 さて、「現実」との闘争における最終局面とも言える場面が、物語の後半部分、物語を読むことから書くことへの移行である。聖司がバイオリン作りになるためにイタリアに行くという話に刺激を受け、雫もまた、自分にできることをやろうと決意をして、物語を書き始める。しかし、この「物語を書く」という行為をどのように評価すべきかという点が非常に難しいところである。アニメの『耳をすませば』において、この点を、ある意味、非常に厳しく描いている点からも、その難しさが窺い知れることだろう。つまり、アニメにおいて、雫は、物語を書くことに失敗するのである。


 この点が、アニメと原作のマンガとの大きな違いである。アニメにおいては、西老人が雫の物語を評価する人物として大きな役割を担わされているが、マンガのほうでは、ほとんどいてもいなくてもいいような軽い扱いがなされている。アニメにおいて、後半、聖司がイタリアに行って姿を消すと同時に、西老人の役割が大きくなっていくのは重要な移行だろう。ここにおいて、問題は別の局面に移行したと言えるのである。


 さて、結果から見てみると、おそらく、雫は、読むに耐えない物語を書いたのだろう。それは、おそらく、彼女が急ぎすぎた結果である。彼女はあまりにも急ぎすぎ、その結果、取り止めもない物語を書いてしまった。その点で、いったい、彼女がどんな物語を書いたのか、という点については曖昧になっているわけだが、それは、曖昧にならざるをえないということである。


 だが、そのようなひどい物語に対する西老人の評価は、非常に気の利いたものである。つまり、彼は、雫のひどい作品に対して、「あなたは素敵です」と言ったのである。これは作品に対する評価ではなく、作品を書いた雫自身に対する評価であるだろう。西老人が評価しているのは、作品の出来ではなく、自分の可能性を必死になって探している雫の姿勢に対してなのである。


 こうした西老人の態度(これは、まさに、宮崎駿自身の考えでもあるだろうが)は、それゆえ、極めて厳しいものであると言えるだろう。というのも、ここで、宮崎が価値を置いているのは、プロフェッショナルとしての創作活動だからである。例えば、仮に、雫が自分の書いたひどい作品にそれなりに満足していたら、どうだろうか? 「あたし、書いてみてわかったんです。書きたいだけじゃだめなんだってこと。もっと勉強しなきゃだめだって」などという台詞を言わずに、友達に自分の作品を見せて、自己満足で終わっていたとしたら、どうだろうか? 西老人の大らかな態度は、雫が泣きじゃくっているからこそ、初めて可能になるものではないだろうか?


 僕自身は、ある種、自己満足的な創作活動を必ずしも否定すべきではないと思っているので、『耳をすませば』のような結論が最善のものだとは思っていない。『耳をすませば』に見出すことができる価値観、「物語を書く」という行為に見出すことができる価値観とは、創造することの価値、新しく何かを生み出すという生産性の価値である。こうしたことに価値を見出すというのは、後期宮崎作品(『耳をすませば』以降の作品)に共通して見出すことのできる傾向である。『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』という一連の作品で問題になっていることとは、生きるエネルギーをどこから調達するのかということであって、その点で、創造性や生産性というものが価値を置かれているわけである。しかし、このような後期宮崎的な価値観から少し距離を置くべきだ、というのが僕の考えである。後期宮崎的価値観は、言ってみれば、人間の裏面を忘れ去っている。言い換えれば、宮崎は悪の存在を忘れ去ってしまったように思えるのだ。


 もちろん、ここで言う「悪」とは、ムスカのような悪人のことではなく、人間の裏面としての悪のことである。その点で、「悪」という言葉をわざわざ使う必要はないかも知れないが、常に葛藤状態にある人間という姿を忘却してしまったのが後期宮崎という気がするのだ。


 僕は、非常にネガティヴな人間なので、こんなことを考えてしまう。『耳をすませば』で、西老人は、宝石の原石の話をしたわけだが、その人間の岩石の中に原石がまったく存在していない場合というのは、まったく考えられない事態なのだろうか? あるいは、原石を見つけ出すのがあまりにも遅すぎた場合は、どうだろうか? 月島雫の焦りとは、まさに、このようなものだろう。彼女は、どれが自分の本当の原石なのかを探し回り、結果遅すぎて、雛鳥を死なせてしまうという夢を見た。こんなふうに、雛鳥を死なせてしまった人はどうするのだろうか?


 宮崎駿のことはともかくとしても、われわれの今日の価値観において、創造性や生産性にアクセントが置かれていることは間違いないだろう。雫の「書く」という行為をそのような価値観に照らしてだけ評価していいものなのかどうか。その点について、次回はさらに突っ込んで問題にしてみることにしたい。