『耳をすませば』について(2)



 前回は、非常に大まかな形で、『耳をすませば』という作品をどういった方向から問題にするのかということを提示しておいた。今回から、具体的に、論を展開していきたいが、まずは、物語という観点から出発したい。


 僕は、物語というものを考えるときに、いつも、それを「日常生活」という言葉と対立させる形で考えている。つまり、日常生活がまとまりのない(経験の)断片の集積だとすれば、物語はそこにひとつのまとまりを与えるものである。物語には始めと終わりがある。そこには明確な切断があり、取捨選択がある。場面と場面との間の時間は省略され、短絡させられている。


 『耳をすませば』も、当然のことながら、ひとつの物語である。そこには始めと終わりがある。この物語は、夏休みの途中から始まり、冬の初めに終わる。なぜ、夏から始まり、冬に終わるのか? このように問うことに意味があるのも、それがひとつの完結した物語だからである。


 物語と日常生活。この対立軸をさらに充実した形で理解するためには、そこに、退屈さと冒険という対立軸を重ね合わせればいいだろう。日常生活とは、それが、ルーチンワークの集積から成り立っているという点で、退屈さが入り込んでいる空間である。それに対して、物語のほうには、冒険がある。そこには非日常的な何かがあるわけだ(一見すると冒険のない物語もあるだろうが、しかし、それもひとつの物語であるという点で、非日常的な何かは見出せるだろう)。


 こうした観点から、『耳をすませば』という作品を見ていくならば、主人公の月島雫の強迫神経症的なところを見出すことができる。つまり、雫は、夏休みの間に何十冊も本を読むという目標を立てているわけだが、その理由を、単純に、「彼女が本好きだから」ということに回収すべきではないだろう。クラスメイトの杉村に告白されたあと、地球屋の前に座りこんで、猫のムーンに話しかけるシーンが重要である。そこで、雫は、自分が昔のように物語にワクワクできなくなっていることを打ち明ける。「本に書かれていることなんて嘘っぱちだ」と思うようになってしまったのである。こうした経緯から考えるのであれば、雫があれだけ本を読もうとしたのは、自分の心に芽生えた退屈さを抑圧しようとするためではなかっただろうか?


 また、さらに考慮に入れるべきなのは、雫が中学三年生の受験生だという点である。友人の夕子が塾通いをしている一方で、雫は物語にうつつを抜かしている。こうした姿を見て、雫の姉が小言を言ったりするわけである。こういう流れの中で、二学期に入ったときに、雫は、物語を自分自身で書き始めようと決意するわけである。これは、受験生の態度としては、やはり、周囲からは、一種の逃避行動と映ることだろう。普段から勉強していて、成績が良ければ、大して何も言われないかも知れないが、雫はそれほど勉強ができない生徒だろう。こうした雫の振る舞いから窺い知れるのは、彼女が、通常の中学生の生き方(勉強をして、受験をして、高校生になる)に疑問を持っているということである(ここに、彼女がファンタジーに惹かれる理由の一端も見出せる)。そうした思いは、彼女が聖司に会う以前から抱かれていたものだろう。そうした思いが、聖司に会って強い刺激を受けた結果、さらに先鋭なものになったと考えられるわけである。


 さて、話の先を急ぐ前に、ここで、物語について、もっとよく考えてみたい。物語についてよく考えるにあたって、現在放送されているアニメ『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲(ロンド)』が参考になるだろう。


 この『鍵姫』という作品は、物語好きの少年の出てくるファンタジー作品である。この作品において、物語という要素は、興味深い仕方で、その位置づけがなされている。物語は、そこでは、各人がそれぞれ心の内に秘めているものである。そして、その秘められた物語を集めると一冊の本ができる。この一冊の本を手に入れるために、「アリス能力者」と呼ばれる少女たちが、お互いの物語を賭けて闘う、というのが、この作品の大まかなストーリーである。


 このような設定のうちに垣間見ることのできる物語とは、どのようなものだろうか? まず第一に注目すべき点は、それが秘められたものであるという特徴である。物語は、通常、胸の奥に隠されていて、それが表に出てくることはない。それが出てくるためには、胸の扉を開ける必要がある。作品内においては、少女たちの持っている剣が鍵の役目を果たしていて、その剣が胸に刺さると、鍵穴に鍵を差し込んだような形となり、鍵を外すと、胸から物語が出てくる。そして、そのような形で、人目に自分の物語がさらされると、その人は、顔を赤らめて、恥ずかしがる。まとめると、物語とは、それを人に話すのが恥ずかしくなるような極めて個人的な代物なのである。


 なぜ、それを話すのが恥ずかしいのだろうか? 具体的に胸の奥に仕舞われた物語がどのようなものかと言えば、それは、その人の過去の一場面である。おそらくは誰にも話したことがないような、その人の過去の記憶であり、往々にして、それは、トラウマとなるようなショッキングなシーンである。


 われわれの誰しもが仮面を被っており、人に言えない秘密を隠し持っている、ということは容易に理解できる話だろう。しかし、なぜ、それを「物語」と呼ぶのだろうか?


 ここで、そのような過去の一場面の記憶がどのような役目を果たしているのかを考えてみよう。まず、それは、その人が自分自身をどのように見ているかという鏡の役割を果たしていると言える。そこでの過去の記憶は、極めて限定的であり、孤立したものである。それは、他のものとは置き換えのきかない、特別な地位が与えられている。その点で、この記憶は、「私」に根拠を与えるものだと言えるだろう。つまり、それは、他の誰でもないこの「私」を裏打ちする肉体のようなものである。


 そして、この記憶は、それが特権的なものであるという点で、極めて主観的なものであると言えるだろう。そのような出来事が実際に起こったという点で、その記憶は客観的なものかも知れないが、しかし、それが「私」を映し出す鏡の地位にまで押し上げられているという点で、それは主観的なものである。この主観的な切り出しが、恥ずかしいという感情を引き起こすのではないだろうか? 結局のところ、「私」を生み出したのは「私」なわけである。この自己規定の恣意性が恥ずかしさの根にあるのではないか?


 『耳をすませば』で言えば、こうした恥ずかしさは、聖司が雫に初めて自分の名前を明かしたときに、雫がファンタジックな言い回しでそのショックを表現したときに、聖司が「お前、恥ずかしいやつだなあ」と言った場面に見出せるだろう。このとき、恥ずかしさを感じているのは聖司のほうだが、雫が自分の中にどのような物語を秘めているのか、その片鱗は窺い知ることができるだろう(そして、このときの雫の台詞は、上記したような、物語に対してワクワクすることができなくなったことを打ち明けた場面の後のシーンであることを考えれば、極めて重要な台詞だと言える)。


 さて、このような個人的な物語に対して、それを集めれば一冊の本ができるという発想をするのは、極めて反時代的だと言えないだろうか? というのも、今日という時代は、極力、他人の物語に干渉しないことが良いこととされる時代だと考えられるからである。「各人には各人の物語がある。そうした物語に良いも悪いもない。それゆえ、お互いに、各人の物語を尊重し合って干渉しないのが良いことであり、お互いに関わり合うのは、客観的な次元にだけ留めるのが良い」と、こういう道徳観が主流なのではないか?


 各人の物語を収集して一冊の本を作るという方向性は、全体性を目指す方向性である。小さな物語ではなく、大きな物語を目指す方向性である。これは、われわれが、自分の小さな物語だけでは満足できない、ということを端的に示しているのだろうか? ここには、「私」の存在のパラドックスを見出すことができる。「私」は、この「私」以外の誰でもないという点で、特権的な存在ではあるが、他の人も「私」と言う点においては、特権的なものではない。おそらく、他人の物語を読むことによって気づかされることとは、自分の物語の平凡さではないだろうか? それは、他人の物語が自分の物語よりも奇抜だから自分の物語が平凡であると思う、ということではなく、他人の物語も極めて平凡であるがゆえに自分の物語の平凡さを再発見する、ということである。どんなトラウマ的な出来事も、この情報化社会にあっては、どこかですでに見たものという既視観を与えるのではないか?


 さて、この「私」の存在様態の問題は、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』に出てきたタチコマの存在様態の話に通じるものがあるだろう(もちろん、このアナロジーの順序は、もともとは逆であろうが)。タチコマの脳に当たる部分がどこにあるのかという話で、彼らのメモリー人工衛星上にあるということが分かるわけだが、こうした発想は、まさに、「私」の存在様態に関して問題になっていることだろう。つまり、それは、端的に言って、「私」はどこにいるのか、という話であり、「私」を肉体のうちに十全に還元できない場合、それを肉体を超越したどこかに位置づけるという話である。これは、一種のニューサイエンスにおいてしばしば語られるような、全人類の存在が書きこまれている台帳のようなものがどこかに存在するという話と同じであるだろう。魂(ゴースト)の現代ヴァージョンである(しかし、こうした発想は、実体的な何かを導入している点で、サイバースペース上の存在という、そもそもの『攻殻機動隊』の問題設定からすれば、やや後退した見地と言わざるをえないだろう)。


 「私」はどこにいるのか? こうした問いが物語論のうちに見出されるわけである。そして、その点で、『耳をすませば』は、一種の「私探し」の物語であると言えるだろう。雫にとっての問題とは、まさに、「私」だけの物語を見つけることである。彼女は、中学三年生という時期にあって、ひとつの岐路に立たされている。それは、単純に言えば、虚構か現実か、という選択であるだろう。しかし、誰しもが、虚構と現実とを行ったり来たりしているとすれば、話はそう単純なものではないだろう。


 物語を読むことから書くことへ。この移行はそう簡単に理解できるものではない。そこには、もうひとつ、「物語を生きる」という項も付け加えるべきだろう。「物語を生きる」という観点からすれば、物語を読むことも書くことも同じだと考えられるからである。


 次回は、この点に関して、詳しく問題にしてみることにしたい。