『耳をすませば』について(1)



 予告通り、今日から『耳をすませば』について問題にしていきたい。まずは、なぜ今『耳をすませば』を語るのか、ということから語っていきたい。


 アニメ『耳をすませば』が公開された年は1995年である。この年に公開・放送された作品で他に注目に値するものとしては、『新世紀エヴァンゲリオン』や『攻殻機動隊』などがあるだろう。僕は、以前にも言ったことだが、1995年というのは大きなメルクマールの年だと思っている。それは、80年代サブカルチャーの終わりを告げる年である。80年代的な何かに終止符を打つ作品が『新世紀エヴァンゲリオン』だったと考えられるのである。そして、このことは、『耳をすませば』にも言えることである。


 『耳をすませば』について、極めて不可解な点がある。それは、なぜ、この作品を宮崎駿が監督しなかったのか、ということである。宮崎は、この作品に、かなり積極的に関わっている(少なくとも脚本と絵コンテという形で)。ネットでこの作品について書かれている文章を見ると、この作品は宮崎の作品である、という暗黙の共通認識のようなものを見出すことができる(監督の近藤喜文があまり知られていないということもあるだろうが)。そして、このような認識は、僕も間違ったものではないと思っている。この作品は宮崎の作品で(も)あり、その点で、この作品は、宮崎駿の作品群の中に、一種の切れ目を入れるような作品だと言えるのである。


 しかし、そもそも、宮崎駿を取り上げて問題化するというのはどういうことなのだろうか? 僕は、このように問うことが極めて重要だと思っている。つまり、宮崎駿を取り上げることは、単に、ひとりのアニメ作家とその作品を取り上げることに留まらず、手塚治虫以降のサブカルチャーを考えることに繋がるのである。もっと言えば、これは、われわれと物語との関係を問題化することでもある。物語の形式という点で、手塚治虫宮崎駿との間で大きな切断線が引かれうると考えられるのである。


 だが、さらに言えば、まさに、宮崎駿自身の中にも切断線を引くことができるだろう。この切断線は、1995年以降のサブカルチャーを考えていくにあたって、極めて重要な切断線である。つまるところ、ここでの切断線で問題となっているのは、ファンタジーの形式である。宮崎駿の中でファンタジーの形式が大きく形を変えたのが1995年という年であり、そのような切断線が『耳をすませば』という作品に見出されるのではないか、というのがここでの仮説である。


 この点で、今回の『耳をすませば』論は、宮崎駿論(ファンタジー論)の一部を構成することになるだろうが、しかし同時にそれは、これまで問題にしてきたようなセカイ系論の一部を構成することにもなるだろう。


 ここで、この『耳をすませば』論の中で問題にするテーマを、いくつか、先に出しておきたい。


 第一のテーマ、それは、ファンタジーという物語である。この『耳をすませば』という作品をひと言でまとめるとすれば、それは、「ファンタジー好きの女の子が自らファンタジーを書こうとするファンタジー作品」だと言えるだろう。このように、入れ子状の構造が見出されるのがこの作品の特徴である。


 ここで重要なのは、入れ子構造の中に見出すことができる自己言及性である。つまり、ファンタジーという要素を結節点とする形で、少なくとも三つのレベルが自己言及的に関係づけられているのである。三つのレベルというのは、まず、主人公の月島雫の生活する作品世界のレベルであり、その雫が読んだり書いたりする対象としてのファンタジー作品のレベルであり、最後に、この二つのレベルを内包する全体としての『耳をすませば』というファンタジー作品のレベルである。


 『耳をすませば』という作品において、一種のメタ視点のようなものは、はっきりと表に出てこない形で導入されている。もっと言えば、そこに見出されるのは反復の形式だろう。雫の書く物語と、西老人の昔話と、雫自身の恋愛体験。こうしたいくつかの層の間で、何かが反復され、そうした反復を通して、自己言及的に、ファンタジーというものが位置づけられているのである。こうした反復と自己言及性は、80年代のサブカルチャーから現在のセカイ系作品までを貫く物語構造であると言えるだろう。


 第二のテーマは、異世界・別世界という観点である。そもそも、ファンタジーというものがひとつの異世界であるわけだが、今日のサブカルチャー作品にしばしば見出されるのは、現実世界と異世界との間の往還である。そこでの異世界とは、広く言えば、別にファンタジー世界である必要はなく、過去の世界でも未来の世界でもいい。重要なのは、そこでの往還によって、何かが変化する、ということである。


 この点で、SFのタイムスリップものも、まさしく、異世界を扱っている、ということが言えるだろう。重要なのは、ここにもまた見出すことのできる自己言及性である。現在が過去の集積の結果であるとするならば、過去を変えることは現在を変えることにも繋がる。現在の視点から過去を変えると、結果、その最初の現在も変化してしまう。


 第三のテーマは、現実という言葉である。現実という言葉は、われわれにとって、一定の重みを持っている。この重みは、現実がそれと対立させられている三つの言葉との関係の中で感じられることだろう。つまり、現実/理想、現実/夢、現実/虚構である。これらの対立軸において、常に、前者のほうに重みが置かれているのはなぜなのか? この点を考えるのが重要である。


 以上のように見てきたとき、自己言及性というのがここでのキーワードであることが理解されることだろう。自己言及性というのは、一種の歪み、捩れである。それは、何かと何かとの関係や対立を複雑にする。そこにすっきりいかない何かを導入するのである。日常生活と物語、現実世界と異世界、現実と虚構、こうした対立軸に複雑さをもたらすのが自己言及性なのである。


 今回は、非常に大雑把に、概観を描いただけなので、次回からは、もっと詳しく、具体的に作品に沿う形で、論を展開していくことにしたい。