21世紀のビジョン



 生死の意味づけの問題を今日も追究したい。


 昨日は自己犠牲的な死について少し述べたわけだが、この死のイメージの背後には「有用性」の観念がある。つまり、他人のために死ぬこと、自分の命を他人のために役立てること、それがその人の生死に意味を与えるのである。つまるところ、ここで回避されているのは、死ぬことそのものではなく、無意味に死ぬこと、何の役にも立たずに死ぬことである。無意味であることは、死ぬことよりも苦痛なことなのだ。


 ここで思い出さずにはいられないのが、酒鬼薔薇聖斗が犯行声明文に書いた「透明な存在」という言葉である。この言葉は一種の撞着語法とでも言うべきものである。通常、何かが存在するためには、そこに実質的な何かがなければならない。不透明な何かが存在しなければならない。それゆえ、透明な存在というのは、ある意味、矛盾している。しかし、人間は、「ある」と「ない」との狭間で、存在しないが存在するという亡霊のような立場で、存在することがありうるのである。


 ここで問題となっているのは、やはり意味である。自分は存在している、しかし、無意味だ、という感慨がそこにはある。そして、手っ取り早く、自分自身に意味を与える方法というのが、他人のために生きるということ、他人のために役立つ存在になるということである。しかし、果たして、他人を介することなしに自分自身を意味づけることなど可能なのだろうか? これは極めて難しい問題である。


 現在、純愛ものがブームになっているが、こうした純愛の背後にも、生の意味づけの問題があるのではないか? なぜなら、純愛の理想とは、カップルがお互いに、それぞれを求め合うということにあるからである。二人でひとつ、それぞれがそれぞれを求め合うことによって、生の意味づけが循環的に行なわれるわけである。


 それゆえ、こうしたことから逆に考えれば、他人に必要とされていないという思い以上に、われわれにとってショッキングなものはないだろう。他人に必要とされていることが自身の存在に基盤を与えるとすれば、他人に必要とされていないのであれば、その人は存在しないも同然である。まさに「透明な存在」というわけだ。


 近年、自殺者が増えている。自殺する理由は人それぞれだろうが、中高年の自殺者が増えているという傾向はそこにある。いわゆる「団塊の世代」と呼ばれる中高年男性の存在は、酒鬼薔薇聖斗と同じくらい「透明」になりつつあるのではないか?


 会社に帰属して一生懸命働く。そこで得ていたものとは、まさに、存在の基盤である。会社のために働いている、家族のために働いている、何か他人の役に立っているという意識こそが、こうした中高年の存在の基盤になっていたのではないか? そうした中高年男性がリストラなどで突然職を失った場合、そのショックはかなり大きなものだろう。ただ働くことだけが自分の存在に意味を与えていたような人の場合、まさにその意味づけが取り払われてしまうわけだから、一挙に自分は無価値だと思うようになるだろう。会社からも見放され、家族からも見放される。こうした中高年男性の中には、家族に保険金を残すために、あえて自殺をする人もいる、という話をどこかで聞いたことがある。働くことによって他人に役立てないのなら、命を捨ててまでも家族のために、というわけだ。


 しかし、こうした話を美談だとは決して思ってはならない。これは美談などではなく、徹底的に歪んだエゴイズムである。自分の想像的な世界に埋没しているだけである。しかし、そんなふうに責めたてたとしても、何の問題解決にもならないだろう。問題の深刻さは、こうした中高年がそのような「醜い死」にしか自身の寄る辺を求められない、ということにある。彼らは他人のためにしか生きられなかった、ということである。


 今日、ネットでニュースを見ていたら、政府の諮問機関が「日本二十一世紀ビジョン」とかいうものを策定した、とかいう記事があった(産経ニュース)。僕に言わせれば、そのビジョンによって示されたものは、政府が人間というものを搾取の対象として見ていない、ということである。働かせるだけ働かせて、その稼いだ金で買わせるだけ買わせて、使えなくなったら、あとは、はい、さようなら、というわけだ。これが果たして人間の生活というものだろうか? 疑問を感じざるをえない。