杉崎鍵のハーレム幻想――『生徒会の一存』のOPアニメについて

 アニメ『生徒会の一存』のオープニングを見ていてちょっと気になるところがあったので、それについて少しだけ書いておきたい。


 『生徒会の一存』のOPの最後のほうに、この作品のヒロインたちの姿が次々に変化するシーンがある。ヒロインたちの名前を上げれば、深夏から真冬へ、真冬から知弦へ、知弦からくりむへ、というふうに次々と変化していくシーンである。このシーンは非常に印象的であり、僕はこのオープニングの特にここの箇所が非常に素晴らしいと思った。


 いったい、なぜこのOPの、ここの部分がそんなにも素晴らしいのか。その点について、それをただ単にアニメーションの快楽とだけ言うのではなく、ちょっと無粋になるかも知れないが、あえて意味づけや解釈というものを付与してみたいと思ったのである。


 まず最初に思いついたのは、作品内容に対する否定的な解釈、つまり、この作品のキャラ萌え的なところ(あるいはキャラ萌え一般)に対する批判的な観点がこのシーンに立ち現われているのではないか、というものである。すなわち、この作品には四人のヒロインが出てくるが、これらのキャラクターが二次元のキャラクターであるという点に関して言えば、彼女たちの価値というものはすべて同等ではないのか、造形的にも似たり寄ったりであるし、他の作品にも似たようなキャラが出てくるのではないかという批判的な観点から、このシーンをヒロインたちの等価関係が描き出されているものとする、といった解釈である。


 しかし、こうした解釈はあまり面白くはないし、そもそも、これは外在的な意味づけだと言える。そうではなく、もっと内在的に、作品内容に即して、このシーンに意味を与えることができないだろうか。


 そこで注目されるべきなのは、ヒロインたちの変化のシーンの前に、杉崎鍵の目の中にカメラが入っていくショットがあることである。このショットが意味していること、それは、一連のヒロインの変化が杉崎鍵の目の中で、あるいは、脳内で起こっている、ということではないだろうか。


 だとするならば、ヒロインたちの間に何らかの等価関係があるとしても、それを作品内容のうちにしっかりと位置づけることができるだろう。つまり、この変身のシーンは、杉崎鍵のハーレム幻想の具体的なイメージであり、彼のハーレム幻想というものがどのような性質のものなのかということを端的に表現しているというふうに考えられるのである。


 杉崎鍵のハーレム幻想においては、四人のヒロインの価値は同じである。どちらが上でどちらが下かという優劣の差はそこには存在しない。そうした意味での等価性が、まさに、このオープニングでは、あのようなヒロインたちの変化として表現されているのではないだろうか。


 さらに注目すべきショットがある。それは、ヒロインたちの変化のシーンのあとに来るショット、誰かを見つめる杉崎のアップというショットである。ここには時間の経過がある。最初に杉崎の目の中にカメラが入っていくショットの時間帯は夜だったが、杉崎のハーレム幻想を通過したあとの時間帯は昼になっている(青空が映っている)。いったい、どれだけの時間がここで経過しているのかは分からないが、この時間の経過が意味しているのは、杉崎が誰かと出会い、その誰かとカップルになるというギャルゲー的な展開ではないだろうか。


 なぜ、そう言えるのか。それは、杉崎が間違いなく誰かを見つめているからである(最初の夜のショットでも杉崎は誰かの視線に気がついて、その誰かを見つめ返す)。そして、誰かを見つめるショットの間に四人のヒロインの変化のシーンがあるわけだから、ここで見つめられている人物は、四人のヒロインのうちの誰かだと考えるのが自然である。


 さらに言えば、このオープニングで、杉崎がヒロインたちと一緒にいる場面は三箇所しかない。ひとつ目は生徒会の部屋の奥のほうで脱力している杉崎らしき白い人物がいるカット。ふたつ目は真冬から攻撃を受けて杉崎が炎に包まれているカット。三つ目は記念撮影の写真のキャプションで杉崎が幽霊扱いされているカットである。この三つを例外とすれば、このオープニングでは、杉崎とヒロインたちとはそもそも関係していない。つまり、このオープニングは、杉崎がヒロインたちの誰かと深く関係するようになるという予感だけが仄めかされたギャルゲー的なオープニングだと言えないだろうか。


 こうした地点から翻って、杉崎のハーレム幻想について、四人のヒロインが次々と変化するシーンについて考えてみれば、ここに複数の女性がいるというふうに考えるのは間違っていることだろう。杉崎を見つめる女性、杉崎から見つめられる女性はただひとりである。そのただひとりの女性がここで描かれているというふうに考えるべきである。


 だが、ただひとりの女性との関係だけがあるとすれば、それは、「ハーレム」という言葉と矛盾するのではないだろうか。いや、ハーレムとはそのようなものではない、ハーレムにおいてもただひとりの女性だけが問題なのだ、というのが、おそらくは杉崎の考えなのだろう。杉崎を見つめ、杉崎から見つめ返される女性はただひとりであるが、四人のヒロインの誰もがこの唯一の場所にやってくる。これこそがまさに真の「ハーレムエンド」の意味することではないだろうか。


 結局のところ、ヒロインたちの変身シーンが素晴らしいのは、ギャルゲー的な選択の問題が、複数性(この女性たちのうち誰を選ぶのか)としてではなく、唯一性(選ばれるのはこの女性)として提示されているからである。ギャルゲー的に言えば、四人のヒロインのうちの誰かが選ばれなくてはならず、杉崎から見られることになる女性はただひとりである。そこでの四人の関係は並列的である(誰もが選ばれる可能性がある)。しかし、選ばれるのは、常にひとりの女性だけである。


 四人のうちの誰もが唯一の女性である。この矛盾を一挙に解決してくれるのが杉崎のハーレム幻想なのであり、この幻想においては、四人のヒロインは並列の関係に置かれているわけではない。そこに等価関係があるとしても、それは、彼女たちの誰もが唯一の女性であるという意味で等価なのだ。


 つまるところ、『生徒会の一存』のオープニングのこの箇所に見出すことができるのは二つの圧縮である。ひとつは、四人の女性をひとりの女性として描き出すというキャラの圧縮であり、もうひとつは、出会いからカップル成立までの過程をハーレム幻想のうちに封じ込めるという時間の圧縮である。こうした充実した表現が見出されるという点で、『生徒会の一存』のOPは実に素晴らしいと思ったわけである。