家族の問題をどう理解すればいいか――TV版『CLANNAD』と劇場版『CLANNAD』とを比べてみて

 アニメの『CLANNAD』があまりにも良かったので、今度、原作のゲームにも手を出してみようと思っているのだが、その前に、出崎統が監督を務めた劇場版の『CLANNAD』を見てみた。京都アニメーションのTV版と比べてみると、とても同じ原作のゲームから作られたとは思えないのだが、いったい、どういうところでそんなにも違いが出てくるのかということをいろいろ考えさせられたという点では、興味深い作品だったと言える。


 TVアニメの『CLANNAD』は全4クール、50話近くにもわたって放送されたのに対して、劇場版のほうはたった一時間半しかないという時間上の制約というのが当然ある。しかし、逆に、そんなふうに時間が制限されると、いったいどこに作品の力点を置くかというところが非常にはっきりするように思う。


 結論から先に言うと、出崎統は、『CLANNAD』のメインテーマとでも言うべき家族の問題というものがよく分かっていないのではないか、と思う。僕は、出崎統というのは、青春の作家だと思っていて、若者が特有に持つ苦悩なり懊悩なりを描くという点では、非常に上手い作家だと思っている(現在放送中の『源氏物語千年紀 Genji』もそのような青春を描いた作品だと僕は思っている)。しかし、逆に言えば、どんな題材を扱ったとしても、みんな同じような形でしか描くことができないとすれば、それは大きな欠点ではないかと思う(それが作家性というものだ、というふうに言えなくもないが)。そういう意味では、『AIR』や『CLANNAD』といった最新のオタク文化を題材にしていながらも、現代の若者の動向に切り込んでいくということはまったくなく、単に出来の悪い出崎作品のひとつに列せられるという結果になってしまっているのではないかと思う。


 劇場版『CLANNAD』でも、ある程度は、家族のことが描かれていると言える。しかしながら、メインの視点は、やはり、岡崎朋也の青春の苦悶に捧げられていると言えるだろう。そもそも、渚が朋也と出会う場面で、渚のほうが朋也に積極的に話しかけているのはおかしいのではないかと思った。そんな積極性を持っているのなら、ひとりで十分に坂道を上っていけるのではないか、と。百歩譲って、渚から朋也に話しかけるのはまあいいとしても、なぜ他にたくさん学生がいる中で朋也に話しかけたのか、そこのところがちゃんと描けているとはまったく思えない。これに対して、京アニ版のほうは、渚がたまたま呟いた独り言に朋也が応えるという非常に上手い出会いの場面を描いていたと言える。内気な渚と人間関係にやや距離を置こうとしている朋也がたまたま出会うことになるという場面の描写としては、これ以上のものはないだろう。


 劇場版を見ていておかしいと思ったところをもうひとつ上げれば、それは、大人と子供の違いというところが強調されているところだ。渚が死んでから(五年間も)落ち込んで引きこもっている朋也のところに、春原や芳野といった昔の知り合いが朋也を強引に旅行に連れていく場面があるのだが、「誰に頼まれてこんなことをするんだ」と問う朋也に対して、芳野が「お前はまだ子供で、大人になったら分かることがある」という説教をする。どういうことかと言うと、劇場版では、朋也の父が芳野の家に行って頭を下げ、「息子のことを何とかしてやってほしい」ということを言うのだが、こうした大人の態度のことを子供の朋也は分かっていないというふうに芳野は説教しているのである。


 この場面を見ていて、よくよく考えてみると、確かに、京アニ版のほうは、大人と子供の違いというものが前面に描かれることはないなあ、ということを思った。少なくとも、大人と子供という言い方で何かの区別がつけられているところはないと思う。TV版で描かれているのは、自分自身の人生の夢を諦めて、他人のために何かをすることに大きな意味がある、ということである。このことは、渚の父や朋也の父だけに言えることではなく、朋也が渚に対してしたことにも言える(朋也はバスケットボールの選手として活躍するという自己実現の夢を諦めている)。つまり、ここにおいては、親子の関係や大人と子供の関係には留まらない、もっと広い、人間と人間との関係が描かれているのである。


 このような広い人間関係が、ひとまずは、家族という言葉で問題になっていることである。さらに、TV版のほうだと、家族の問題が、より広く、街の問題として提出されているところがあり、ここが非常に面白いところである。つまり、劇場版だけを見ていると、家族の問題というのは、もっとも広く取ったとしても、具体的な人間関係の重要性、友人や知り合いを含めた人間関係の重要性が強調されているぐらいだろう(困ったときに助けてくれる人がいることの重要性)。しかし、家族の問題を街の問題として考えてみると、具体的な人間関係がそこになくても、誰かの思いがまったく知らない他人に影響するということがありえるかも知れない、という可能性が提示されているように思える。そのようなより大きな問題を家族の問題としてTV版のほうは扱っているように思えるのである。


 最後に、どのようなキャラクターが劇場版から排除されているのかということを考えてみたときに、風子が出てこないというのは、非常に大きな意味を持つのではないかと思った。なぜ風子を物語の中に組み込むことができないかと言うと、それは、風子という存在がファンタジーというものを体現している存在だからだと言える(風子は姉に対する思いが実体化した存在であり、誰にとっても見える存在ではない)。こうしたファンタジー性の排除は、劇場版『AIR』にも言えることであるが、出崎統としては、『CLANNAD』をファンタジー作品として描かないというところが基本路線だったのだろう。


 この点が京アニ版と徹底的に異なるところである。京アニ版の『CLANNAD』は、徹底して、ファンタジー作品である。そこで示されている基本路線というものは、ファンタジーを介することによって表現できる何かがあるということ、家族を始めとした現代の様々な問題に応えるためには、ファンタジーという回り道が必要になる、というようなものである。『CLANNAD』の物語からファンタジーという要素を抜いてしまったら、そこにあるのは、ありふれた凡庸な物語、非常にベタで古典的な物語だろう。従って、もし実写版の『CLANNAD』というものがあったとしたら、描き方にもよるだろうが、おそらく正視に堪えないものになるのではないかと思う。『CLANNAD』の古臭い物語が成立するのは、それが美少女ゲームという枠組の中で発展したファンタジー作品であるという点をやはり抑えておく必要があるのではないだろうか。


 いずれにしても、劇場版の『CLANNAD』からは、制作者の情熱というものは伝わってこなかった(出崎統の冒険心みたいなものは伝わってきたが)。別に、京アニ版『CLANNAD』から何か猛烈に熱いものが伝わってくるわけではない。しかしながら、非常にしつこいこだわりというか、静かな情熱のようなものは十分に伝わってくる。この前の特別編でも、なぜあれほどタライをしつこく描くことができるのかよく分からないが、ああいうところに制作者のこだわりというものが感じられて、そうした細部の積み重ねがひとつの作品を素晴らしいものにさせているように思えるのである。