同人誌『セカンドアフター vol.1』

11月3日に開催される第十三回文学フリマにて、同人誌『セカンドアフター』を頒布します。
目次は以下の通りです。詳細な内容紹介に関しては以下の公式ブログを参照してください。


公式ブログ:http://d.hatena.ne.jp/second_after/20111029/1319879554

セカンドアフター vol.1
ブース番号:オ−27


第十三回文学フリマ
会場:東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)
開催日:2011年11月3日(木・祝)
時間:11:00〜16:00
サークル名:セカンドアフター
価格:500円

目次


巻頭言
志津A


ツインテールの天使――キャラクター・救済・アレゴリー
てらまっと


さよならの向う側――『電脳コイル』について
ココネ


セカイの終わりを荘厳する思想――めんまが二度死ぬとき僕達は「あの花」と別離する
兎男


対談:震災とマンガ
キャラクターと記憶の継承――『COPPELION』と『侵略!イカ娘』を中心に
イワン×志津A


震災という「破局」と新しい公共性に向けて――アナロ熊ゴジラ、あいさつ坊や、かえるくん
熱海いかほ



それでは、文フリ当日は、よろしくお願いします。

『魔法少女まどか☆マギカ』論を寄稿した件について

アニメルカ×エロ年代の想像力 SPECIAL『反=アニメ批評2011summer』
http://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-28.html
http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20110807/1312724840

コミックマーケット80
会場:東京国際展示場東京ビッグサイト
日時:2011年8月14日(日)10:00〜16:00(夏コミ三日目)
サークル名:アニメルカ製作委員会
ブース番号:東ホールP-02a
価格:1000円



上記の同人誌に『まどマギ』論を寄稿しました。「『魔法少女まどか☆マギカ』における失われた未来の風景――震災前後のアニメ状況」というものです。


上記のリンク先の内容紹介にあるように、震災前後の状況ということを軸にして、『まどマギ』、『あの花』、『日常』などの作品について論じています。『まどマギ』を『あの花』に近づけて考える、というのが論の基本的な方向性です。


3月11日以降の状況をどのように受け止めたらいいのか、ということにいろいろと悩み、このブログにもそれに関することを書こうと思って何度か挑戦したのですが、上手く書けないでいました。そんなときに今回の寄稿をすることになり、震災以後の状況に対する自分の基本的な方向性だけは何とか打ち出すことができたかな、と思います。


また、この方向性の延長線上で、自分でも同人誌の制作に着手することにしました。誌名は『セカンドアフター』と言って、11月に開催される文学フリマで頒布できるように、現在鋭意制作中です。この同人誌の情報も、随時このブログでお知らせしていきますので、よろしくお願いします。


今回の『まどマギ』論には特にエピグラフのようなものはないのですが、もしエピグラフを付けるとすれば、この歌の歌詞になるだろうな、ということを昨日、ふと思いつきました。その歌とは、1985年制作の『オバケのQ太郎』のED曲『BELIEVE ME』です。今回の『まどマギ』論では、つまるところ、この歌で歌われているようなことを問題にしたわけです。


http://www.youtube.com/watch?hl=ja&v=Bjn-OMD0zwM


いろいろありますが、今後ともよろしくお願いします。

ヤマカンにおける虚構の身体性の問題――『かんなぎ』から『フラクタル』へ

 庵野秀明は、2006年、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の制作発表にあたり、極めて挑発的な所信表明を行なった。「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした」*1。この表明が意味していることとは、『エヴァ』を更新するアニメは『エヴァ』それ自体でしかありえず、「ポスト・エヴァンゲリオン」などというものは存在しない、ということだろう。ここには、アニメの現状に対する庵野秀明の認識が明確に示されていると言える。つまり、『エヴァ』以降も、非常に多くのアニメ作品が作られ、その中には斬新な試みを行なった傑作もあっただろうが、真の意味で新しいアニメ作品はなかったのである、と(もちろん、それではアニメにおける新しさとは何なのか、ということを次に問う必要があるだろうが)。


 山本寛(ヤマカン)は、これと似たような声明を、『フラクタル』の制作発表にあたって公表したが、ヤマカンの声明は、庵野秀明の大胆不敵な声明とは逆に、悲壮感に満ちている。「もうアニメは駄目かも知れない」*2。これがヤマカンの声明の主旨を端的に示す言葉であるだろう。


 しかし、「もうアニメは駄目かも知れない」という言葉はいったい何を意味しているのだろうか。アニメというジャンルそのものが衰退の兆候を示しており、このジャンルには未来がないということを言おうとしているのか。それとも、単にヤマカンにとってのみ、アニメという表現手段が色あせて見えるということなのか(アニメには可能性はないが、実写映像には可能性はあるということなのか)。いずれにしても、この声明それ自体からだけでは、アニメに関するヤマカンの現状認識を明確な形で見出すことはできない。単に状況が悪くなっているという(ある意味ありふれた)実感が示されているだけである。


 周知の通り、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)のシリーズ演出で注目を浴びたヤマカンは、『らき☆すた』(2007年)で初めて監督の任に就いたが、「監督において、まだ、その域に達していない」という理由から、4話で監督を降板させられ、その後、京都アニメーションからも離れることとなる。ヤマカンが監督の任を初めて最後まで務めた作品は2008年の『かんなぎ』であり、その意味で、現在放送されている『フラクタル』は、ヤマカンがテレビアニメの監督を最後まで務めることになる(だろう)二作目のアニメ作品となる。


 いったいヤマカンが、アニメという表現媒体で何をやろうとしているのか、「もうアニメは駄目かも知れない」という実感の向かう先であるアニメとはどのようなものを指して言っているのか、といったようなことを問題にするにあたっては、所信表明でその認識が十分に示されていない以上、『フラクタル』に到るまでのヤマカンの来歴、少なくとも、その前作である『かんなぎ』に注目する必要があるだろう。ヤマカンの言う「アニメの未来」がどのようなものであるのか、アニメという名の下で『フラクタル』に賭けられているものとは何なのか。こうしたことを『かんなぎ』を再び見ることによって探ろうというのが本稿の目的である。





 ヤマカンは、『かんなぎ』放送前のインタビュー記事で、この作品を「同居もの」と位置づけ、『ママはアイドル』を始めとした80年代のドラマやマンガと関連づけて語っている*3。『かんなぎ』のOPアニメーションが端的に示しているように(『かんなぎ』の主題歌『motto☆派手にね!』は『ママはアイドル』の主題歌『「派手!!!」』に対するオマージュである)、この作品は、ヤマカンにおいて、まず、80年代のアイドル文化との関わりで位置づけられる*4。80年代のアイドル文化とテレビアニメとの関わりという点で言えば、例えば、『超時空要塞マクロス』(1982年)や『魔法の天使クリィミーマミ』(1983年)といったアイドルをモチーフとした作品が同時代に存在し、こうした時代を捉え返した作品として、近年では『WHITE ALBUM』(2009年)のような作品もあった。『WHITE ALBUM』とほとんど同時期の作品ということで言えば、『かんなぎ』もまた、80年代との距離感をテーマにした作品と言えるかも知れないが、そこにおいて問題となるのは、虚構に対する距離感である。


 80年代の消費社会の虚構性を問題にしたアニメ作品は、すでに同時代に存在していた。それは、例えば、(東浩紀が『動物化するポストモダン』で言及していた)『メガゾーン23』(1985年)*5や、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)などである。そして、ヤマカンが『かんなぎ』を制作するにあたって下敷きにした『ママはアイドル』(1987年)もまた、そうした虚構性を問題化していたドラマ作品だったと言える。


 『ママはアイドル』の批評的なところは、主演の中山美穂がアイドルの「中山美穂」役として出ているところである。つまり、ここには、メタレベルの視点が、テレビの中で行なわれていることは虚構にすぎないという認識が示されている。もちろん、こうしたメタな視点が何かベタなものを生み出すということはありうるだろうが(例えば「アイドルの素顔」といった形で)、中山美穂中山美穂として登場させている点で、このドラマもまた虚構にすぎないという自己言及的なメッセージを発していることは間違いない。さらに、作品の内容に関して言えば、テレビの向こう側の存在だったアイドルが、自分の母親という、ある意味、最も身近な場所を占めにやってくるということ。これは、虚構に対する距離感に一種の混乱をもたらすという点で、やはり、極めてショッキングな試みだと言える。


 こうした『ママはアイドル』の枠組みを『かんなぎ』の物語のうちにも見出したところにヤマカンの問題意識の片鱗を窺うことができる。つまり、『かんなぎ』においても、非常に遠くにいるはずの存在が突然身近にやってくるという体験が、言い換えれば、虚構の存在との距離感が、問題化されていると考えられるのである。


 それでは、ここにおいて問題化されている距離感、あるいは、虚構とは具体的にはどのようなものなのか。主人公が突然、女性キャラクターと同居することになるといった類のアニメ作品(「押しかけ女房型」あるいは「落ちもの系」などと呼ばれる作品類型)なら、現在無数に存在することだろう。『かんなぎ』も、まず間違いなく、そうした類型を踏襲した作品である。そういう意味では、このようなありふれた設定のうちに、どのように違和感をもたらすことができるのか、突然の同居という設定の不自然さをいかにして再発見することができるのか、といったことが、ヤマカンの目指した方向性だったと考えることができる。


 『かんなぎ』は、簡単にまとめてみると、主人公である高校生の御厨仁(みくりや・じん)と仁の作った木彫りの精霊像に顕現した産土神(うぶすながみ)であるナギがひとつ屋根の下で同居することによって生じる様々な出来事を描いた作品である。この同居という設定のうちにはいくつかの位相が重ね合わされていると考えられるので、以下、それを列挙してみたい。


 まず最初に、基本的な設定、ナギは神、産土神である。神という超越的な存在が人間の姿に顕現するという、この距離感が問題になっている。しかし、一神教文化ではなく、多神教文化(アニミズムの世界)である日本においては、このような神との同居という設定もそれほど驚くべきことではないかも知れない。むしろ、『かんなぎ』以前に作られた『かみちゅ!』(2005年)のほうが衝撃的だったと言える。中学生の女の子が突然、神になるということ。こうした展開もまた、あらゆるものが神になりうるアニミズムの世界においてはありうることなのかも知れないが、ここには「お前は神だ」という呼びかけがある点で(つまり自己のうちに異質性が発見される点で)、神との同居という設定以上にショッキングなものがある(またここには女子中学生の日常生活という近年のアニメ的な想像力とアニミズムの世界との親近性が暗に指摘されてもいる)。


 次に、ナギは女性である。男性が女性とひとつ屋根の下で突然生活することになるということ。上記したようにこうした作品設定はもはや珍しいものではないが、異性との共同生活(それも恋人ではない者同士の共同生活)によって生じるあれやこれやを改めて強調して描き出すという点では、それなりに新鮮な試みと言えるかも知れない。例えば、アニメ『かんなぎ』の1話と2話を原作のマンガと比べてみると、異性に対する意識が強調されて描かれているのがよく分かる。ナギの身体や下着に顔を赤らめる仁、エロ本を押し入れに隠す仁、ナギの布団の匂いを思わず嗅いでしまう仁。こうしたシーンは原作のマンガには存在しないものであり、近年の同居ものアニメの多くが素通りしてしまっている異性の存在感をあえて際立たせようという姿勢を見出すことができる(しかし、この姿勢が最後まで貫かれていたかどうかという点は問題であるが)。つまるところ、ここで問題になっている距離感とは、異性に対する距離感である。


 第三に、ナギは家族である。この位相において、『かんなぎ』は、擬似家族の物語となる。これもまた、近年のアニメ作品においては珍しくない設定だが、ここにおいて、ナギは、仁の姉というポジションを占めることになる(仁の妹ではない点が重要である)。さらに言えば、ナギは、時として、母のポジションを占めることにもなる。それは、産土神としてのナギの本性に相応しい様態と言えるかも知れないが、この点については、二重人格としてのナギという設定が上手く利用されている。つまり、一方の人格においてナギは姉であるが、他方の人格においては母である、というように。また、母というポジションに関しては、仁の家族構成においてなぜ母が欠けているのか、という謎めいた設定に対応するものであるだろう(作品中で仁の母に関する話が出ることはない)。つまり、空位であった母の場所にナギがやってくる、という形になっているのである(そして、こうした観点から、ナギと同じく母親的なポジションを占めようとする幼馴染のつぐみについて問題にすることもできるだろう)。


 第四に、ナギは、キャラクター、とりわけ『のらみみ』が明確にしたような居候キャラである。ある種、今日の「同居もの」の多くは、単なる異性との同居というラブコメ的な物語であるよりはむしろ、藤子不二雄作品に見出されるようなキャラクターとの同居という側面が強いところがある。こうしたキャラクターとの関係において問題になっているのは、まさに、虚構の存在との距離感である。そもそもナギは仁の作った木彫りの人形だったということから言えば、ナギとの同居のうちに、『ローゼンメイデン』で描かれるような人形との同居という主題、古くは『ピノキオ』や『鉄腕アトム』に見出されるような、人間未満の存在との関わりという主題を見出すことも可能だろう*6。さらに言えば、こうしたキャラクターの占める空間というのは、『ドラえもん』が端的に示しているように、家の中の非常に狭い空間、つまり、押入れのような空間だと言える(実際にナギが押入れの中に閉じこもるという天の岩戸をパロディにしたアニメオリジナルのエピソードがあったことを思い出すべきだろう)。そうした空間は、言ってみれば、家の中の余白なのであり、こうした余白のうちに入り込む存在があるわけである(こうした余白は、『ドラえもん』の「さようならドラえもん」のエピソードにおいて、「へやががらんとしちゃったよ」というふうに示される)。


 他にまだナギの存在を位置づける位相があるかも知れないが、ひとまずこのぐらいでまとめると、簡単に言って、ここにおいては、遠くにいるはずの虚構の存在が身近な場所に肉感的な身体を保持してやってくる、という経験が描かれていると言える。そして、そこで立ち現われる存在には、その二重性ゆえ、揺らぎがある。『かんなぎ』の物語が明示しているように、ナギは不安定な存在である。二重人格という設定もそうであるが、ナギは自分が何者であるのかということが自分でもよく分からない存在として描かれている(特にこの点が問題になるのが第11話である)。このように不安定な存在であるがゆえに、ナギは、目の前から突然いなくなってしまう可能性のある存在として示される。第1話の冒頭において、小さい頃の仁の前にナギが現われ、次の瞬間には、その姿を消してしまうというシーンがあるが、『かんなぎ』の物語は、この出現と消失の経験を反復していると言える*7。非常に遠くの存在かと思っていたら、次の瞬間には身近にいて、また次の瞬間には、また遠くに行ってしまっている。この揺らぎこそが、ヤマカンが『かんなぎ』において描こうとしていたものではないだろうか。


 そして、この揺らぎの問題は、身体性の問題へと、不安定な身体性の問題へと議論を展開させることができる。「ママはアイドル」という言葉が端的に示しているように、ここには、境界線上の問題、虚構の存在が肉感を持つようになる(ある種の受肉を達成する=リアリティを持つ)といったような身体性の問題が提示されていると言える。そして、この身体性こそが、おそらくは、ヤマカンの関心を強く惹いた問題系であり、『かんなぎ』を『ママはアイドル』に近づけて考えようとするヤマカンの意図も、つまりは、この虚構の身体性の問題へと集約されるように思われるのである*8


 虚構の身体という問題系がヤマカンの作品において最も鮮烈な仕方で提示されるのはダンスだろう。ダンスというのは、言ってみれば、人間の未訓練の肉体を、鍛錬によって、明確な形式性と方向性を備えた身体へと変換することではないだろうか。つまり、ダンスというのは、ある意味で、人間の身体をアニメのキャラクターの形式的な身体(死んだ身体)に近づけることだと言えるわけだが、それでは、人間ではなく、アニメのキャラクターがダンスをするとはどういうことなのだろうか。そこで目指されている方向性は(少なくともヤマカンのダンスにおいては)単なるリアリズムではないだろう。つまり、ここで提示されているのは、単にアニメーションの快楽としてのダンスということではなく、アニメのキャラクターが特別な身体性を獲得することだと思われるのである。


 『涼宮ハルヒの憂鬱』のED、『らき☆すた』のOP、そして、『かんなぎ』のOP。ヤマカンが演出したこれらのダンスシーンで狙われていることとは、身体レベルでの触発の機能だとは言えないだろうか。『ハルヒ』のEDダンスが、YouTubeを介して、ブームを巻き起こしたように、そこには、人が踊ってみたくなるという点で、ある種の誘発の機能があるように思われる*9。ここで問題になっている身体性のおそらく対極に位置すると思われるのが、東浩紀が『動物化するポストモダン』で分析していたような、データベースによって構築されたキャラクターの身体性、つまり萌えキャラ(萌え要素の組み合わせによって出来上がったキャラクター)の記号的な身体性である。こうした記号的な存在であるはずの(萌え)キャラクターたちが、突然、ある瞬間に、肉感的な身体性を獲得するということ。そうした特殊な瞬間や揺らぎこそが、ヤマカンの狙い定めている地点であるように思われるのだ*10


 『涼宮ハルヒの憂鬱』でヤマカンが演出したエピソードを見ることによっても、こうした身体性に対する問いを見出すことができる。例えば、第1話「朝比奈ミクルの冒険」。このエピソードは、ヤマカンが監督を務めた自主制作映画(『怨念戦隊ルサンチマン』)の経験が役立っていると言われるが、そこにある歪みにもっと注目すべきだろう。つまり、ここには、素人の一般人の演技というものが問題となっており、まだ十分にその形式性を獲得してはいない身体への興味、不自然に動く身体に対する興味が見出されるわけである。ここにおいては、まさに、実写映像で把握されるような人間の身体性とアニメーションにおけるキャラクターの身体性との境界領域が狙われていると考えられる*11。また、同様の身体性は、第12話「ライブアライブ」でも問題にされていることだろう。楽器演奏という形で示される身体性は、ダンスと同様に、訓練されてひとつの形式となった身体性だと言えないだろうか。


 萌えというのは、ある意味で、日本の貧しいアニメ環境における豊かな発明品だと言える。90年代からゼロ年代にかけては、このような萌えの試みが過度に進んだ時代だったと言えるが、そうした極めて記号的な操作に対して、ヤマカンは違和感を持っていたのだろう(しかし、これは逆に言えば、ヤマカンがそうした記号的な操作に敏感だったということでもあるが)。いずれにしても、こうした違和感が岡田麿里に対するヤマカンの高評価に繋がっていることは間違いない。つまり、岡田麿里がシリーズ構成を担当したアニメ作品、とりわけ『true tears』(2008年)と『とらドラ!』(2008年)とは、ヤマカンにとって、記号的な存在であるアニメのキャラクターがそこからはみ出すような身体の動き(表情)を見せた作品、萌えの狭間にキャラクターの内面が窺えるような作品として捉えられたはずである。


 『かんなぎ』と『とらドラ』とは同時期の作品であり、ヤマカンが『かんなぎ』で試みたかったことが『とらドラ』においてより明確な形で示されていることは皮肉な事態だと言える*12。さらには、萌えとギミックの権化であるようにヤマカンには見えたであろう京都アニメーションが、まさに、ヤマカンの関心の中心であると思われるキャラクターの身体性を問うような作品、つまりは、『けいおん!』を作り上げたこともまた皮肉な事態だと言える*13。ギミックからドラマへ、記号的な萌え表現からそれとは別の身体性へ*14ゼロ年代の終わりにヤマカンが鋭くも予言していたアニメの方向性は、彼の言うとおりになったところがあるが、しかし、それは、ヤマカン自身の作品において十全な形で実現したとは言いがたいところがある。





 それでは、こうした文脈の延長線上において、現在放送中の『フラクタル』はどのような作品として立ち現われることになるのだろうか。


 『フラクタル』が宮崎駿の『天空の城ラピュタ』(1986年)に似ているということは、多くの人がすでに指摘していることであるが、誰もが同種の連想を働かせることは想定内のことだろうから、それでは、なぜヤマカンは、『ラピュタ』に似せて『フラクタル』を作ったのか、ということが問われねばならない。周知の通り、『ラピュタ』に似せて作られた作品はいくつか存在し、その最も代表的な作品は庵野秀明の『ふしぎの海のナディア』(1990年)であるわけだが、『フラクタル』がこの『ナディア』に似せて作られていることもまた多くの人が指摘していることである。


 重要なのは、『フラクタル』が何かに似ているということではなく、おそらく『フラクタル』が、『ラピュタ』から『ナディア』へというアニメ史の反復をさらに反復しようとしているということである。ここにはコピーのコピーというヤマカンの自覚がある。つまり、まず、庵野秀明における「コピー」の自覚、自分たちには宮崎駿がやっているようなオリジナルの作品は作れないといったような自覚があるわけだが*15、この庵野の自覚を踏まえて、ヤマカンは、自分はさらにコピーのコピーにすぎないという自覚を持っているのではないだろうか*16


 こうしたコピーのコピーという意識は、すでに、ヤマカンが監督した自主制作映画『怨念戦隊ルサンチマン』(1997年)に見出すことができる。この作品は、ガイナックスの前身であるダイコンフィルムが1982年に制作した自主制作映画『愛國戰隊大日本』へのオマージュ作品であり、すでに『大日本』が戦隊もののパロディであったことから考えるとすれば、『ルサンチマン』はまさしくコピーのコピーである。『新世紀エヴァンゲリオン』を始めとして、庵野秀明のアニメ作品には、先行する作品の引用がいろいろと見出されるわけだが、『エヴァ』の衝撃を様々なところで語るヤマカンであればこそ、オリジナルから自分が非常に遠いところにいるという自覚を必ず持っているはずである。


 そして、このコピーのコピーという自覚は、まさに、『フラクタル』の作品内容と重なっているところがあるように思われる。例えば、この作品においては、フラクタルシステムを巡って、それを肯定する僧院側とそれを否定するロストミレニアム側との対立が描かれるわけだが、そこにおいて、ロストミレニアムの生活様式というのは、フラクタルシステムに依らないもの、つまり、より自然なものとして描かれる。しかし、ここでの自然さというものは、明らかに相対的なものであり、現代のわれわれの生活様式に近いというものでしかない(例えば、近代的な生活様式を否定するアーミッシュとロストミレニアムとを比べてみたら、どうなるだろうか)。つまり、ロストミレニアムの生活様式が、すでにオリジナルから遠く離れたものなのであり(何を本来の人間性と見るかは問題であるが)、フラクタルシステムに依拠した生活はそれに輪をかけて遠く離れているだけだ、と言うこともできるはずである。


 同種の距離感は、家族関係(完全な個人主義が達成されている『フラクタル』の世界と現代的な核家族との差異)や身体性の問題についても言えることだろう。そうした意味においては、『フラクタル』で最もラディカルな問題提示をしているのはネッサの身体性だろう。完全にヴァーチャルな存在であるはずのネッサの身体におけるリアリティという問題がここにはある。そして、このネッサの身体性においてこそ、『かんなぎ』でヤマカンが取り扱っていたような身体性の問題が集約して見出されるように思われるのである。とりわけ、ネッサにおいては、触れられる/触れられない、見える/見えないという知覚のレベルにおいて、身体性の問題が(さらには存在の問題もまた)提示されている。つまり、そこに見出されるのは、『かんなぎ』のときと同様、突然その姿を消してしまうかも知れない不安定な存在であり、虚構であるにも関わらず何らかの肉感を持つような身体性なのである。


 『フラクタル』の物語がいったいどこに向かうのか、ヤマカンの提示しているような問題系がどのように展開されるのか。そうしたことに関しては、『フラクタル』を最後まで見なくては分からないが、『魔法少女まどか☆マギカ』が異常な盛り上がりを見せている現状からすると、『フラクタル』がどれほど切迫した問題(リアリティを感じさせてくれるアクチュアルな問題)を提示できているのかという点については、なかなか厳しいところがある。『まどかマギカ』は、魔法少女という優れてアニメ的なイメージ類型を上手く利用しているところがあるが、同様のことは『フラクタル』についても言えるだろう。つまり、『フラクタル』は、『ラピュタ』が描いていたような冒険ファンタジーのイメージを利用しているわけだが、だとすれば、『まどかマギカ』と同様に、そうしたイメージからどんなふうにずれることができるのか、といったことが課題になっているはずである。


 『フラクタル』が冒険ものの様式を踏襲しているとすれば、いったいクレインたちの旅がどこに向かうのか、その旅を経ることによってクレインたちは何を発見することになるのか、ということが当然問題になることだろう。そこから、『ラピュタ』からの距離感が、さらには、『ナディア』からの距離感が測られることになる。『ラピュタ』において、パズーたちの冒険は、文明の起源へと遡る。高度に発達した文明が一度滅び、現在の科学技術の発展は二度目の発展であることが示される(つまり人類は同じ過ちを繰り返す可能性があることが示唆される)。こんなふうに、ここには外から自分たちの日常を眺める視点が存在するのであり、自分たちの未来の姿も同時に示されていると言える。『ナディア』において、ジャンたちの冒険は、人類の起源へとたどり着く。『ナディア』では、『ラピュタ』の枠組みからずれるために、SFや特撮といったオタク的な想像力が過度に注入されることとなる。それゆえ、ここで見出される人類の起源というのも、ある種、オカルト的な様相を呈しているわけだが、まさに、このような擬似的な起源を構築することこそが、オリジナルからの距離感(「大地を離れては生きていけない」という『ラピュタ』の主張に対するアンサー)を示していたと言える。


 それでは、『フラクタル』において、同種の距離感はどのように示される可能性があるだろうか。『フラクタル』において重要であるのは、やはりそのSF設定であるだろう。そこで示されている風景が、『ラピュタ』のような、ファンタジー作品の風景であるとしても、それは、技術の力によって生み出された風景、つまり、再構築された自然の風景だと言える。一見自然に見えるが、しかし、それは再構築された自然である。これはまさに身体性に関しても言えることであるが、この距離感をどのように示すことができるのかというところが、『フラクタル』の注目点であるだろう*17


 ネッサの身体性に関して、またドッペルの存在という設定に関して、そこにおいては、触れられるものは触れられないものよりも価値があり、虚構のうちに何らかの価値を見出すのは間違っているという主張を読み取ることもできるだろうが、このような凡庸な主張は、すでに、『電脳コイル』(2007年)というアニメが徹底的に疑問視していたということを思い出すべきだろう(『電脳コイル』においては、電脳ペットであるデンスケの存在が、このような虚構の身体性の問題を集約して示していた)。そうした意味では、『電脳コイル』と同様に、拡張現実をモチーフにしている『フラクタル』は、この『電脳コイル』に拮抗するような虚構のリアリティの問題を提示することができるのかどうか、ということが問われていると言える。加えて、そうしたリアリティが、ダンスに代わるような何らかの斬新なアニメ表現によって示されるのかどうかということも問われていることだろう。


 失われた自然をアニメの中で再現するという再自然化の過程が宮崎駿ジブリ)に見出されるとすれば、また、すべては虚構であり複製であるが、そうした虚構のうちにもリアリティを見出すことができるということを庵野秀明ガイナックス)が示しているとすれば、ヤマカンは何を示すことができるのだろうか。『電脳コイル』においては、電脳空間が、単に平板化された奥行きのない世界としてではなく(つまり肉感的なリアリティをもたらさない世界としてではなく)、昭和30年代の風景がかつて示していたような、奥行きを持つ世界として提示されていた。前述したように、『フラクタル』で示されることが、ヴァーチャルなものの虚偽性を暴露し、素朴な自然さを称揚するものであるとすれば、あまりに凡庸であるだろう。ヤマカンの興味が虚構の身体性にあるとすれば、そのような凡庸な結論には決して至らないはずである。


 そもそも、『かんなぎ』が、まさしく、自然との断絶をテーマにしていた作品だった。『ラピュタ』風に言えば、『かんなぎ』は、大地から人間が離れてしまった以後の物語である。そこにおいて興味深いのは、土地に根付いていたはずの神が、新しい形態の下で、つまり、ローカルアイドルとして、ひとりのキャラクターとして、再誕生したことである。この種の現象は聖地巡礼という形でまさに問題になっていることだと思われるが、『らきすた』の鷹宮神社/鷲宮神社に端的に示されているように、そこにおいて、土地と人との関係は一義的ではなくなる。そこでの土地は、『電脳コイル』が描いていたように、情報ネットワークのうちに再統合され、ある種の情報端末のような機能を果たしていると考えられるのである。


 周知のように、ゼロ年代には、昭和30年代ブームが起こったわけだが、過去を美しく描くというノスタルジーの方向性においては、アニメの虚構性は大いに役立つことだろうし、そうした意味において、すでに失われてしまったものを、ゼロ年代のいくつかのアニメは、これまで描いてきたと言える。こういうふうに整理してみると、すでに80年代に宮崎駿が『ラピュタ』の後に『となりのトトロ』を作ったというのは重要な転換点であると言えるが、いずれにしても、この種のノスタルジックな過去の風景に対して現在の風景を際立たせてきたのが、ここ数年の日常系アニメだったと言える。こうした文脈において、おそらく『フラクタル』が問うているのは、アニメは具体的な未来の方向性を指し示すことができるのか、ということではないだろうか。「もうアニメは駄目かも知れない」というヤマカンの実感も、そうした未来との関わりで述べられた発言と考えるべきだろう。『ラピュタ』が未来のアニメであったのと同じ意味で、『フラクタル』も未来のアニメたりうるのかどうか。飛行石がブルーウォーターになり、それが今はネッサという少女の姿になっているということ。ここにはテクノロジーに対する姿勢と同時に未来に対する姿勢も見出せるわけだが、そこで虚構の身体性がどのような意味を持つことになるのか。まさにここでは、今ここに立ち現われていないものをどのように思い描くことができるのかという想像力が試されている。アニメがそのような想像力にとって良い場所であるのかどうか。今後の『フラクタル』の展開を注視したい。

*1:庵野秀明総監督所信表明:我々は再び、何を作ろうとしているのか?」(みんなのエヴァンゲリオン(ヱヴァ)ファン)

*2:監督声明」(フラクタル - FRACTALE - 公式サイト)

*3:「普通にできたらええねん」 「らき☆すた」「かんなぎ」のアニメ監督・山本寛さん」(うわさのニュースワイドショーブログ(元は毎日新聞の配信記事))

*4:ヤマカンと80年代文化との関わりを指摘した記事として、「新房昭之、山本寛両監督の作品にみる、とんねるずの面影」(さよならストレンジャー・ザン・パラダイス)を参照のこと。

*5:東浩紀は、『メガゾーン23』が80年代文化の虚構性に対して示していた認識を次のようにまとめている。「八〇年代の日本ではすべてが虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構が続くかぎりは生きやすいものだった」(『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001年、31頁)。

*6:こうしたキャラクターの存在様態については、拙稿「キャラクターの不定形な核――『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」(『アニメルカ』3号、2010年)を参照のこと。

*7:ナギと出会った高校生の仁が再び神社を訪れて、過去の自分の体験を思い出し、再びナギが目の前から姿を消してしまったのではないかと一瞬考えるシーンが第1話にはあるが、これは原作にはないシーンである。この点を指摘しているブログの記事として、「ナギと仁の出会いシーン分析・考察::アニメ『かんなぎ』第一幕 「神籬の娘」」(クリティカルヒット)を参照のこと。

*8:アイドルの身体性というのも、まさに、このような揺らぎを示しているのではないだろうか。大塚英志は、岡田有希子の自殺と絡めて、アイドルの身体について語ったことがあるが、まさにこのような地点こそ、ヤマカンがアイドル文化に向ける関心の中心ではないだろうか。『「おたく」の精神史』(講談社現代新書、2004年)第8章「岡田有希子と「身体なき」アイドル」を参照のこと。ここにおいて、アイドルの死と身体性の問題が、キャラクターの死と身体性の問題と重ね合わされていることは間違いない。

*9:アニメのキャラクターたちが、ダンスほど明確な形ではなくても、ある瞬間に特別な身体的振る舞いをするということ。こうしたシーンを単に強度のあるシーンと捉えるのではなく、身体レベルでの触発が狙われているシーンとして考えることはできないだろうか。こうした瞬間を切り取り、拡大して見せてくれるのがMADである。もちろん、アニメの強度のあるシーンをダイジェストしたMAD(いわゆる作画MAD)も存在するが、あるキャラクターの動作や台詞を何度も反復させただけのMADも存在する。こうしたMAD作品の具体例として、『けいおん』MAD「【10分間耐久】うんたん【唯かぁいいよよ唯】」、それから、『らきすた』MAD「らき☆すた こなた256アハ体験(最終版」を参照のこと。また、こうしたMADについて「触覚=イメージ」という言葉から問題にした論稿として、cineeye「手がイメージを見る」(『アニメルカ』2号、2010年)も参照のこと。

*10:ヤマカンのダンスアニメに関しては、単にダンスシーンだけではなく、そこでの構成、とりわけカット割りに注目する必要があるだろう。『ハルヒ』にしろ『らきすた』にしろ『かんなぎ』にしろ、ダンスの映像が途中で途切れて、そこにキャラクターのアップが挿入されるということ。こうした構成のうちに、言ってみれば、単なるリアリズムには留まらない、アニメ独特の効果(萌えの効果)が見出されるわけである。

*11:ヤマカンのアニメ演出に関しては、しばしば、「fix(カメラ固定)主義」ということが語られるが、この点に関しても、身体性に対する興味と絡めて問題にすることができるかも知れない。fix主義に関しては、『オトナアニメ』10号(洋泉社、2008年)の平池芳正の指摘(17頁)を参照のこと。

*12:かんなぎ』と『とらドラ』とを比較したブログの記事として、拙稿「アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感」(metamorphosis)を参照のこと。

*13:けいおん』と身体性の問題を取り扱った論稿として、杉田u「『けいおん』の偽法――逆半透明の詐術」(『アニメルカ』3号、2010年)を参照のこと。この論稿は、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で取り扱っていた風景と内面との関わりという議論を『けいおん』においても見出している点で注目に値する。またブログの記事としては、「キャラクターの身体が揺らぐ――『けいおん!!』の後期OPについて」(EPISODE ZERO)が『けいおん』における身体性の問題を論じていたが、残念ながら今は読むことができない。また、『けいおん』に関してではないが、同様にキャラクターの身体性を論じた最近の記事として、「可塑性、性、距離―アニメ『放浪息子』とキャラクター」(ジビインコウ)も参照のこと。

*14:ギミックからドラマへというヤマカンの方向性に関しては、インタビュー記事「ヤマカン、語りまくって気がついたら10000字」(『オトナアニメ』10号)を参照のこと。また、この点に関するブログのまとめ記事として、「「かんなぎ」で山本寛監督がしたい事〜オトナアニメより〜」(あしもとに水色宇宙)も参照のこと。

*15:コピー世代という庵野秀明の自覚については、例えば、大泉実成編『庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン』(太田出版、1997年)を参照のこと。

*16:コピーという言葉から、宮崎駿庵野秀明に対するヤマカンの関係性を問題にした記事として、「『フラクタル』ヤマカンが身を賭した理由とは」(ソラゴト体系)を参照のこと。

*17:フラクタル』における身体性の描写に注目している記事として、「『フラクタル』#1を楽しむために」(幻視球)を参照のこと。

日常系の地平としての世界の果て――『けいおん!』と対話する『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』

 『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』は2010年の1月から3月にかけて放送されたアニメ作品である。つまり、この作品は、2010年代の冒頭に出てきたのであり、「アニメノチカラ」と名づけられたアニメシリーズの最初の作品ということから考えても、何らかの形で新しいアニメの可能性を模索しようとしていたと言える。「アニメノチカラ」という言葉には、おそらく、次のような危機意識が反映されていることだろう。すなわち、現在のアニメ(特にテレビアニメ)は、それが以前持っていた可能性の多くを見失ってしまった。アニメにはもっと豊かな可能性があったはずだ。その豊かさを、アニメの力を再発見すべきだ、といったような危機意識である。


 『ソラノヲト』に見出されたアニメの可能性がどのようなものであったのかということとは別に、アニメという言葉が、その一般名詞の使用法とは違って、どのような特殊な意味を持ちうるのか、具体的にどのような特定の作品傾向をイメージさせるのか、ということは大きな問題であるだろう。「アニメノチカラ」といったときに想起されているのは、おそらくひとつの作品傾向であり、そこで仮想敵として想定されている現在のアニメも、ひとつの作品傾向を指しているにすぎないことだろう。「アニメノチカラ」というプロジェクトが成功したのかどうか、いったいそこでどのような可能性が切り開かれたのかということを考える前に、そもそも『ソラノヲト』がどのような作品であったのか、どのような文脈の下で出てきた作品なのかということを振り返ってみたい。





 『ソラノヲト』には「世界の果て」という言葉が出てくる。「世界の果て」は第5話のサブタイトルにもなっていて、人が住める場所の限界がこのような言葉で呼ばれる。『ソラノヲト』は一度文明が滅んだ後の世界が舞台になっていて、人類は衰退へと向かっている。この作品には終末的な雰囲気が漂っているわけである。


 「世界の果て」はセカイ系的な言葉だとも言えるが、『ソラノヲト』をセカイ系と呼ぶことはできないだろう。むしろ、『ソラノヲト』は日常系の作品だと言える。そうした作品において、「世界の果て」という言葉が出てくるところが興味深いわけだが、それでは、この言葉には、いったい、どのような意味合いが込められているのだろうか。


 「世界っていう言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのはケータイの電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」。これは、『ほしのこえ』の冒頭の有名な台詞であるが、ここにおいて、世界という言葉は、意図的に矮小化されて捉えられている。ケータイの電波が届く範囲の外にも世界が広がっていることは自明である。だとしても、その外と「私」とはほとんど関係がない。だから、「私」と関わりのある範囲がすなわち世界であると、こんなふうに世界という言葉が限定される。もちろん、こうした意図的な矮小化に対して『ほしのこえ』がもたらした捻りとは、8光年という長大な距離でもケータイの電波が届く、ということである。つまり、ここでは、逆説的な仕方で、世界の広大さが示されると同時に、「私」の可能性の大きさも示されているのである。


 『ソラノヲト』において、「世界の果て」という言葉は、人類の限界を指し示す。それは人間の可能性の限界だと言える。人間は、これ以上、発展もしないし展開もしない。つまり、人間に未来はない。「世界の果て」と名づけられた国境線、ノーマンズランドの砂漠の風景が指し示しているのはそのような限界であるだろう。こうした希望のない状況下で生きていくことの意味とは何なのか。『ソラノヲト』が提示しているのはこのような問いであるだろう。もっと言えば、無意味な生の意味とでも言うべきものがここでは問われていると言える。


 もちろん、こうした世界観は、現代の人類、少なくとも現代の日本人に対する観点をも示していることだろう。人類は衰退している、文明が衰退しているというところにリアリティを持てるかどうかというところが、この作品を鑑賞するにあたってのポイントとなる。人類は衰退しているというふうに大げさに考えなくても、人々の生きるエネルギーのようなものが衰弱しているのではないかといったような実感がここにはあることだろう。似たような実感を描いたアニメ作品はすでにいくつかある。例えば、2008年から2009年にかけて放送された『キャシャーン Sins』。この作品では、人間の文明はすでに衰退し、その代わりに出てきたロボットたちの文明もまた衰退しているという形で、世界の終わりが描かれていた。また、同じ2008年には、『スカイ・クロラ』という作品もあった。そこでは、変化も進展もない世界で永遠に生き続ける人たちの生、倦怠としての生が描かれていた。


 こうした似たような作品と比べてみると、同じように人類の衰退という状況下にありながらも、『ソラノヲト』にはペシミズムや絶望感といったものを見出すことはできない。むしろ、『ソラノヲト』が示しているのは、人類の衰退、世界の終わりという状況にあってもなお、世界は美しいという感慨である(ノーマンズランドの日没の風景は美しい風景として提示されていることだろう。こうしたところにこそセカイ系の片鱗を窺うことができる)。あるいは、人類が衰退しているからこそ世界が美しく見えるのかも知れない。さらに言えば、『ソラノヲト』が示しているのは、そんなふうに人類が衰退し、人間の生に無意味さが付きまとうようになったからこそ、日常の輝きが再発見されるようになった、ということである。これこそが日常系の観点である。


 こうした点で、『ソラノヲト』は(日常系の代表的な作品と言える)『けいおん!』と一緒に見られるべき作品であり*1、『けいおん』の一期と二期との間に挟まれて放送されたことはほとんど必然だとも言える。『ソラノヲト』が『けいおん』に対して批評的な観点を持ち合わせているとすれば、それは、『けいおん』の日常の輝きが可能となるための条件を明示しているところにあるだろう。つまり、日常の輝きの裏面には、人類の衰退という事態が、世界にはもう大きな変化は訪れないという諦念がある、ということである。


 『ソラノヲト』が『けいおん』に最も近づいた瞬間とは、もちろん第2話、廃墟となった校舎の音楽室で、主人公のカナタが、別にありえた自分たちの日常、放課後の音楽室で楽器を演奏する自分たちの姿を夢想する場面である(これは厳密に言えば夢想ではないかも知れない。というのは、カナタは学生服のことなど知らないだろうから。これは世界の別の可能性が垣間見られた瞬間だと言ったほうがいいかも知れない)。第1121号要塞、通称・時告げ砦がもともとは学校であったという設定は重要である。そのことが暗に示しているのは、『ソラノヲト』が学園日常もの、『けいおん』と同じような作品だ、ということである。カナタたち第1121小隊のメンバーの年齢は14歳から18歳であり、中学生か高校生の年齢である。彼女たちがもし現代の日本に生まれていたとしたら、『けいおん』の唯たちのように、放課後の音楽室で楽器を演奏していたかも知れない。そうした可能性が第2話で示されているわけだが、それ以上に示唆されているのは、『ソラノヲト』で描かれる時告げ砦の日常生活もまた、『けいおん』と似たような水準で捉える必要がある、ということである。


 『ソラノヲト』が描き出しているのは、日常系作品に限らず、いわゆる学園を舞台にしたアニメ作品などで日々行なわれているようなことが、別の場所で別の形を取って再現されている、ということである。『けいおん』の唯が軽音楽部に入ったのと同じように、カナタは軍隊に入りラッパ吹きとなる。第2話で校舎を探索するエピソードは一種の肝試しと考えられるだろうし、第5話の監視装置をチェックする任務は、作中で語られていたように、遠足と考えられる。第6話のギャングを演じる話は、その演じるというところに注目すれば、文化祭の出し物のように捉えることができるし、第7話ではお盆が描かれていた。つまるところ、『ソラノヲト』では、学園ものの作品に出てくる諸々のイベントが、まったく別の状況下で再現されているのであり、この距離感のうちに、『ソラノヲト』の批評性を見出すことができる。


 つまるところ、『ソラノヲト』は、日常系の地平のうちに世界の果てを見出したと言える。学校、部室、生徒会室などといった日常を送るための場所こそが世界の果てであり、上記した『ほしのこえ』と同じ意味で、そこが世界のすべてだと言える。こうした点で、2010年の初めに世界の果てを示した作品が『ソラノヲト』だったとすれば、2010年の終わりに世界の果てを示していたのは『侵略!イカ娘』だったと言える。『イカ娘』において世界の果ては海岸線として示されていた。海の向こうは、『ソラノヲト』で言えば、ノーマンズランドである。海岸線という場所で、夏休みがいつまでも続く限りにおいて、日常の戯れも継続する。海の向こうという彼方からやってきたイカ娘が、彼女が自分で言うとおりに、ひとりの使者だとすれば、彼女は人類に何を伝えようとしているのだろうか。『イカ娘』において重要なのはそのメッセージではなく、メッセージが届かない限りにおいて日常は続く、ということだろう(これは、『Angel Beats!』において、この世界に満足しない限りにおいて、学園に留まり続けることができるというのと同じである)。カフカの断章に「皇帝の使者」と呼ばれるものがあるが、それと同様に、使者としてのイカ娘のメッセージはいつまでも届くことはなく、この届かないという地点に世界の果てを見出すことができるのである。


 翻って『ソラノヲト』のことを考えてみれば、『ソラノヲト』はやはり、メッセージが届くことの重要性を示している作品だと言える。最終回である第12話は、ノーマンズランドでの戦闘が描かれたわけだが、対峙していた二つの軍隊を止めることになるのは、停戦を知らせるラッパの音ではなく、『アメイジング・グレイス』の曲であった(このシーンは、もちろん、『風の谷のナウシカ』において、王蟲の大群を止めるために群れの先頭に舞い降りたナウシカの無垢な行為を想起させる)。この作品で、言語の壁や時間の壁を乗り越えて届くものとして示されているのが音楽である。もちろん、音楽というのは象徴であり、ここで示唆されているのは人間の可能性であるだろう。人間は、自分がそう思っているよりも、遙か遠くへ進むことができる。こうした希望がここでは示されていると言える。


 だが、『ソラノヲト』では、人類の衰退は止まり、世界の終わりは回避されるだろうという希望的観測が最後に示されているようには思えない。むしろ、『ソラノヲト』では、人類は衰退するだろうが、それでもなお、人間は生き続け、人間の可能性は遠くに届いていく、ということが示されているように思う(こうした音楽の超越性を印象深く描いている場面として10話の最後を上げることができる。そこではリオとカナタとが『アメイジング・グレイス』を合奏し、その音楽が街中へと響き渡るわけだが、この音楽は、二人がラッパから口を離した後でも、BGMとして鳴り続ける。つまり、ここでは演奏者から切り離されて、どこまでも響き渡っていく超越的な音楽が示されているわけである)。これは、音楽をモチーフにしている点でも、ある種、マクロス・シリーズに通じるところがある。少なくとも、『超時空要塞マクロス』の劇場版、『愛・おぼえていますか』で描かれていたのは、以前の文明(プロトカルチャー)が残した歌が新しい文明においても伝わるということであった(そして、歌が戦闘意欲を萎えさせるというところも同じである)。


 こんなふうに人間の可能性を称揚する点で、『ソラノヲト』をロマンティックな作品と悪く言うこともできるだろうし、また、悪の矮小化こそが『ソラノヲト』の欠点だと言うこともできるだろう。というのは、この作品のほとんど唯一の悪人と言えるホプキンス大佐の役割がかなり低く見積もられていると思われるからだ。『ソラノヲト』において、戦争を積極的に行なおうと考えている人物はこのホプキンス大佐ぐらいしか見当たらない。第12話で対峙していた兵士たちも、停戦の知らせがやってくると、みな、戦争しなくていいと喜ぶ。誰もが戦争を望まない状況において、ただひとり戦争を望むホプキンス大佐は一種の狂人だと考えられるが、この狂気を安く見積もるべきではないだろう。ホプキンス大佐の言い分とは、人類を発展させるためには戦争が必要だ、というものである。つまり、ホプキンス大佐は、人類の衰退、世界の終わりを止めようとしている人物だと考えられる。ここにおいて倫理的な選択が提示される。人類の衰退を止めるために人殺しをするか、それとも、人殺しをしないために人類の衰退を甘受するか。これは極端な二者択一であるが(というのも、作中で、戦争こそが人類の衰退を招いた原因として語られているからだが)、この作品においては、もちろん、後者が選択されたと考えるべきだろう。つまり、人類の歴史よりもこの日常のほうが価値があると判断されたわけである。


 しかし、人類はそんなに素直に自身の衰退を受け入れられるのだろうか。例えば、旧時代の遺物であるタケミカヅチを蘇らせようとするノエルの欲望とは、人類の衰退に抵抗しようとする欲望なのではないのか。タケミカヅチはまさしく兵器である。そうした意味においては、タケミカヅチの復活は、『風の谷のナウシカ』で言えば、巨神兵を蘇らせようとするのと同じなのではないのか。ノエルのうちにあるのは単なる好奇心かも知れない。しかし、そのような人間の探究心こそが、科学技術を発展させ、近代兵器を生み出し、戦争による災禍を生み出したのではないのか。


 人類の衰退に対して抵抗しようとする意志。その点に関して、『ソラノヲト』は、日常における抵抗や日常における闘争というものにもっと目を向けるべきだったのかも知れない。そうした試みはまさに『けいおん』においてなされていることであり、『ソラノヲト』が『けいおん』に対して批評的な作品であったとしても、『ソラノヲト』は自身の作品のうちでその批評的観点を完遂していなかったのではないか。というのも、『ソラノヲト』は、奇跡を描き出すにあたって、戦争の回避という大きな出来事をやはり持ち出してきているように思われるからだ(言い換えれば、『ソラノヲト』においては、日常が徹底されることはなかった)。


 空の音は時間や空間を飛び越えていつまでも鳴り響く。『ソラノヲト』で示された音楽の可能性(人間の可能性)がこのように壮大なものだとしたら、『けいおん』で演奏された音楽はどこに届いたと言うのだろうか。『けいおん』二期のラストの台詞、「あんまりうまくないですね」の反復を考慮に入れるとすれば、唯から梓へという伝達こそが、『けいおん』で成し遂げられたことだろう。これは、『ソラノヲト』で示された奇跡と比べるならば、非常に微々たる変化だと言える。一方では戦争が回避されたのに対し、他方ではひとりの少女を感動させたにすぎない。


 しかし、『ソラノヲト』の出発点においてもまた、イリアの演奏が少女だったカナタに届くという小さな出来事が描かれていなかっただろうか。そうした意味において、『けいおん』で示されていたのは、奇跡という観点の変更だったと言える。つまり、音楽によって人々が戦争をやめたという大きな変化をもたらすことだけが奇跡なのではなく、日常における出会い、無数の出会いの可能性があったにも関わらず、この出会いが実現したということへの驚きのうちに奇跡が見出されるということである(人は常に誰かと出会っているということで言えば、出会いなどというものはありふれた出来事である。しかし、無数の可能性がある中で、この出会いが実現したというふうに視点をずらせば、そこに、ありえないことが起きたという奇跡を見出すことができる)。


 『ソラノヲト』をこうした出会いという観点から見てみるならば、大きな枠組みにおいては、この作品は、カナタとリオとの出会いを描いていると言える。そして、それを媒介する役割としてイリアの存在があり、『アメイジング・グレイス』の曲がある。カナタは、自分の人生に大きな影響を与えた人物と音楽を、思いがけない場所で再び見出すのである。ここでカナタは何か大きな流れを見出す。それは、過去に何か出来事が起こり、その出来事の反復として現在があり、その反復のうちに自分たちが巻き込まれているというような認識である。「炎の乙女」の伝説が示しているのもそのような反復であるだろう(炎の乙女はカナタたち第1121小隊のメンバーの姿で描かれる)。


 「変わらないんだ」というカナタの台詞に示されているように、ここには、普遍的なものに対する信仰がある。こうした普遍という観点からするならば、人類の衰退というのもそれほど決定的な出来事だとは言えなくなるかも知れない。つまり、ここで差し出されている希望とは、人類が滅んでも音楽は残る、ということである。こうした『ソラノヲト』の観点に対して、『けいおん』を再び持ち出せば、『けいおん』における音楽というものは、あくまでも副次的なものであるだろう。『けいおん』において、ある種の反復が描かれるとしても、そこにあるのは徹底的に限定された視点である。つまり、この時のこの場所でしか起こりえないことがある、ということである。


 ここに、『ソラノヲト』と『けいおん』とがすれ違う場所があるだろう。これはアクセントの違いかも知れないが、そのアクセントの違いが視点の違いとして立ち現われる。『ソラノヲト』においては反復が重視される。いつかどこかで起こった出来事がこの時のこの場所で反復されるということが強調される。それに対して、『けいおん』では、いつかどこかで起こったかも知れない出来事がこの時この場所で起こったという事実を強調する。だから、『けいおん』においては、音楽は聞いている人の心に必ず届くということが無前提に信じられているわけではない。むしろ、音楽が届いたことこそが奇跡なのである。


 『けいおん』についてはまた別の機会に問題にするとして、『ソラノヲト』についてまとめれば、この作品は、日常系に歴史的な観点をもたらしたと言えるだろう。言い換えれば、『ソラノヲト』は、日常系の外部を指し示した、と言える。そして、「アニメノチカラ」の他の二作品もまた、何らかの形で、歴史的な観点を、つまり、外的な条件を指し示そうとする意志を持っていたと言える。例えば、現在は(戦時に対する)平時であるというのが『ソラノヲト』がもたらしている視点だろう(平時という条件においてのみ日常系は成り立ちうる、と)。しかし、これは、逆に言えば、戦争という特別な出来事をあまりにも意識した視点だと言える。そして、このことは、この戦争というモチーフが、もっと言えば、太平洋戦争という日本の経験が、戦後のサブカルチャーに大きな刻印を残していて、現在においても、この戦争イメージから抜け出すことがほとんどできていないということを示している。しかし、この戦争イメージは、サブカルチャーにとって、そこから抜け出したりそれを乗り越えたりするようなものではなく、常に対峙すべき条件なのかも知れない。『ソラノヲト』は、そうした戦争イメージとアニメとが密接な関係にあることを如実に示している作品だとも言える。戦後65年目の年を最初に飾ったアニメ作品、それが『ソラノヲト』である。

*1:ソラノヲト』が、『けいおん』を仮想敵とまでは言わないまでも、重要な対話者と見なしているであろうことが暗示されている記事として、以下を参照のこと。「アニメでも箱庭は作らない 「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」監督に聞く」(ASCII.jp)http://ascii.jp/elem/000/000/533/533685/

『アニメルカ vol.3』に寄稿した件について

 vol.2に引き続いて、vol.3にも書かせてもらいました。今回書いた文章は、「キャラクターの不定形な核――『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」というもので、タイトルに示されているように、手塚治虫論とエヴァンゲリオン論とが融合したような文章になっています。
 vol.2では、「エンドレスエイト」(『涼宮ハルヒの憂鬱』)、『かなめも』、『けいおん!』という2009年に放送されたアニメを問題にしたのですが、そこでの議論の延長線上に今回の文章があります。つまり、vol.2の文章でもキャラクターについて少し言及しているわけですが、そうしたキャラクターという観点が出てくる淵源を手塚治虫の作品と『エヴァ』とに見出すというのが今回の試みです。
 今回の文章を書くにあたっての基本的な発想として、『エヴァ』テレビ版最終二話という悪評高いエピソードを、キャラクターという観点の下で、新しく捉え直すことができるのではないか、ということがあります。
 『エヴァンゲリオン』はゼロ年代を生き延びてきたコンテンツだと言えますし、新劇場版が作られている現在にあっては、まだ生み出されている途上にあるコンテンツだとも言えるでしょうが、そんなふうに生命力を保ち続けている理由とは何なのか。それは、『エヴァ』が、その作品の中ですでに、現代にも通じるキャラクターについての観点を明確に提示しているからではないのか。こんなふうに僕は思ったわけです。
 今回の文章のうちでは、キャラクターという観点を現在の萌えアニメなどと結びつけているわけではないのですが、僕としては、『けいおん!』、『侵略!イカ娘』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』といったここ最近のアニメ作品、さらには、初音ミクといったゼロ年代を代表するキャラクターと結びつけることのできる議論を展開したと思っています。
 ここ最近のアニメ作品との関わりという点では、おそらく編集者の方が意を汲んでくれたのだと思いますが、僕の文章の前後に、『けいおん!』や『ひだまりスケッチ』を論じた文章があるので、そうした他の論稿も参照してもらえると、ゼロ年代の終わり、あるいは、10年代の始めというこの時期にあって、僕が『エヴァ』について書く必要のあったその必然性を実感してもらえるのではないかと思っています。


アニメルカ vol.3』の詳細については、以下を参照してください。


アニメルカ vol.3』(特集:アニメ表現論) 目次
http://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-20.html


明日(12月5日)の文学フリマに来ることができる方は、よろしくお願いします。

『セキレイ』に見る関係性の問題

 現在、『セキレイ』のアニメの二期が放送されている(『セキレイ〜Pure Engagement〜』)。『セキレイ』の一期が放送されていたとき(2008年夏)、僕は、この作品を見ながら、関係性というものについていろいろと考えていた。そして、今、二期を見ていても、やはり、関係性のことを考えている。
 『セキレイ』の一期が放送されていたときに僕が考えていたのは関係性についてであり、その時点のアニメの多くが関係性をどのように描くかということを問題にしているように思えた。関係性という言葉がやや漠然としているとすれば、コミュニケーションが問題になっていると言い換えてもいい(コミュニケーションという言葉も漠然としたものであるが)。人間と人間とがどのような関係を構築していくのかといったことを問題にしている作品が多かったように思ったのである。
 そうした観点から僕は、二者関係と三者関係、競争的関係と家族的関係などという言葉を用いて、関係性について考えていたが、この路線でいろいろと考えていくのに少し困難を覚えた。なので、この路線での探究は一時停止したままである。
 しかし、『セキレイ』の二期が始まって、2008年の時点でいろいろと考えたことを思い出したので、『セキレイ』を問題にするにあたって、ポイントになりそうなところを、自分の過去記事に準拠する形で、いくつか指摘してみたい。


1、バトルロワイアルというゲーム形式は関係性の縮減だと言える。複雑な関係性を単純明快なものにする。佐橋皆人は、大学受験という課題(社会生活上の課題)を棚上げし、バトルロワイアルのゲームに参加する。
2、家族的な関係性は、しばしば、敵対的な関係や競争的な関係を廃絶する理想的な関係性として提示される。『セキレイ』においては、出雲荘という場所において、擬似家族的な日常生活が営まれる。
3、『セキレイ』をハーレムアニメと呼ぶことは可能だろうが、ハーレムという関係性においては複数性だけではなく唯一性も問題になる。つまり、『セキレイ』においては、アシカビとセキレイとの関係性は唯一絶対のものである。唯一絶対の関係性が並列しているところにハーレムの関係性の特徴がある。


 僕が『セキレイ』を見ていて面白いと思うのは、アシカビと関係した後の(羽化した後の)セキレイたちが、それ以前との関係性を大きく変えるところである。それは、言ってみれば、関係性のツンデレ的な変化を見せるのだ。
 ツンデレは、一般的には、女性のキャラが男性のキャラに向ける関係性の変化に関して用いられる言葉であるが、『セキレイ』が示す関係性の変化は、男女間の一対一の関係性に留まらず、集団への帰属のレベルにおいても生じうる。そこには、家族的な関係性に対するツンデレのようなものを見出すことができるのである。
 僕が『セキレイ』を見ていて一番面白く思っているのはここである。個々のセキレイは、それぞれの性格や歴史や問題を持っていて、そうした固有性にあっては、それぞれが孤独である。しかし、ひとたびアシカビと関係を持ってしまうと、それぞれの固有性を保持しながらも、集団のうちにしっかりと所属する。
 こんなふうに考えると、『セキレイ』においては、敵対的な関係性をどのようにして解消するか、分断しているものをどのように結合するか、といったことが課題になっていると言えるだろう。新しい結合方法の模索は今日的な課題だと言えるが、『セキレイ』においては、単に家族的な関係性の重視という形でそれがなされているわけでもないだろう。むしろ問うべきなのは、家族的な関係性が保持されるためにはそこにどのような支えが必要なのか、ということである。
 『セキレイ』がひとまず提出した答えはハーレム的な関係性というものだろうが、これが最終的な答えであるわけではないだろう。ハーレム的な関係性を共同体のモデルとして考えるのは、本質的かも知れないが、厄介である。
 『セキレイ』が描いていることで最も重要であるのは、関係性の変化にあたっては強い抵抗が生じる、ということである。そうなってくると、いかにしてこの抵抗を除去するか、ということが最も重要な問いになってくるだろう。あるいは、なぜそのような抵抗が生じるのか、というふうに問うたほうがいいかも知れない。
 いずれにしても、『セキレイ』は、様々な関係が切れたり結ばれたりすることに敏感な作品であり、切れた糸を上手く結び直そうと模索している作品である。一度切れてしまった糸を再び結び直すことは困難であるということを描くほうが現代的かも知れないが、新しい関係性の構築という課題は模索され続けるべきである。


(関連する過去記事)
日常の脆弱な関係性から非日常の強固な関係性へ――アニメ『セキレイ』について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20080819#1219148624
杉崎鍵のハーレム幻想――『生徒会の一存』のOPアニメについて
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20091225#1261763512

アニメーションにおける風景の問題

 この前、『ニルスのふしぎな旅』について文章を書き、そこで僕はこのアニメの自然の風景について指摘したわけだが、この自然の風景は、当時のアニメーションにおいては、アメリカ的な都市の風景、つまり、消費社会的な当時の日本の風景に対する一種の対抗軸の役割を果たしていたのではないだろうか。こうした観点から、アニメーションにおける風景について、僕の考えていることをちょっと素描してみたい。


 自然の風景が消費社会的な都市の風景に対する対抗軸になっているということ。これは、世界名作劇場の一連のアニメ、それからスタジオジブリのアニメについて特に言えることである。そこで描かれる19世紀から20世紀初頭にかけての地方の風景、外国の風景は、その当時の日本の都市の風景の変質と密接に関わっているような気がする。おそらく、1960年から80年くらいの間に日本の風景が大きく変質したのではないかと思うのだ。
 アニメーションの領域においても、アメリカ化された風景、つまり、消費社会的な風景が描かれることがある。例えば、『魔法使いサリー』(1966-1968年)などは、『奥さまは魔女』などのアメリカのドラマの影響が多大にあったと思われるが、アメリカ的な消費社会的な価値観と魔法というアニメーションの特質のひとつとを上手く結びつけて提示していた作品だと言える。
 こうした作品に示される消費社会的な価値観に対する抵抗が、自然の風景に基づいた世界名作劇場のようなアニメを生み出したのではないかと思うのだ。つまり、ここにおいては、消費社会的な風景が非本来的なものとして、自然の風景が本来的なものとして捉えられているわけであり、必然的に、動物を描き出すことが何か本来的なものを描き出すことと密接に関わるわけである。
 『ニルスのふしぎな旅』においても、そこで描かれるのは都市の風景ではなく地方の風景だ。そこには美しい自然の風景(北欧の風景)しかない。『ニルス』という作品が一種の道徳的な価値観を指し示すために作られているとしたら、それが可能であるのは、こうした自然の風景という土台があってのことだろう。


 アニメーションの風景ということで言えば、スタジオジブリの諸作品の風景はやはり注目に値する。ジブリ現代日本の風景をリアルに描き出すようになったのはいつなのかというふうに問うのは重要なことだろう。例えば、『となりのトトロ』(1988年)においては、昭和30年代の地方の風景が、世界名作劇場の外国の風景と同様な機能を果たしていたと言える。しかし、『トトロ』と同時上映の『火垂るの墓』においては、そのラストに、現代の風景が少しだけ描き出される。過去の日本の風景をリアルに描出するという志向性が現代のほうに向かった瞬間だと言える。
 『火垂るの墓』に続く高畑勲の作品、『おもひでぽろぽろ』(1991年)もまた、ひとつの重要な通過点である。そこでは、現代の都市の風景/地方の風景が対比させられ、さらには、過去の風景と現在の風景とが対比されている。そこで対比させられているのは、もちろん風景だけではなく、そこでの生活様式の違い、価値観の違いである。『おもひでぽろぽろ』においても、現在の都市の風景がストレートに描き出されることはない。
 『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)を経て、1995年の『耳をすませば』が決定的である。この作品では、現代の風景が真正面から描き出される(都市の風景とまでは言えないだろうが。そこで描かれるのは郊外の風景である)。この年に『新世紀エヴァンゲリオン』が放送されたことを考えるのなら、やはりこの時点がひとつの節目になるのだろう。『エヴァンゲリオン』においては都市の風景が描かれるのと同時に、様々な商品(記号的な消費物)をリアルに描き出すという視点があった。これは、つまり、消費社会的な風景を(ファンタジーという形ではなく)リアルに描き出す視点が確立された、ということだろう。あるいは、逆に言えば、現代の風景をリアルに描き出すために、消費社会的な記号性が利用された、ということである。


 『耳をすませば』と『エヴァ』以降においては、現代の都市の風景をリアルに描き出すアニメなど珍しくなくなった。しかし、そうした風景にどのような意味を込めるかというところでアクセントの大きな違いがあり、そこに何らかの価値観の変化を見出すこともできる。
 例えば、新海誠の描き出す風景は『エヴァ』によく似ているが、そこで商品に向けられているまなざしは、時代性というものと密接に関わっている。あるひとつの時代、過ぎ去っていつの間にか見えなくなってしまう一時代の風景を描出するために新海は商品を利用する。商品に当てられる光は、そうした商品が短い生命しか持ちえないということを示している。つまり、商品を持ち出すことは、必然的に、ある特定の時代を描き出すことになってしまう。新海誠の喪失感のテーマと商品の記号性との相性は非常にいいわけだ。
 京都アニメーションもまた、商品に光を当てるが、それは新海のように時代性を映し出すためではないだろう。京アニが狙っているのは、おそらく、キャラクターと関わる何かであり、キャラクターに何か現実的な支えを提供するために、そうした商品が(あるいは特定の場所が)必要になってくるのだ。


 ざっと素描してみたが、アニメーションにおける風景という観点で問題化できることはまだまだたくさんあるように思う。消費社会的な欲望に関しても、それが現代においてはどうなっているのかという点はひとつの問題であるだろう。リアルなものへの志向性がひとつあり、虚構に対する志向性もまたひとつある。このあたりをどのように分節化して、過去と現在とをどのように区別すればいいのか、という点がひとつの課題である。