『ニルスのふしぎな旅』についてのメモ

 『ニルスのふしぎな旅』のアニメ(1980-1981年、スタジオぴえろチーフディレクター:鳥海永行、全52話)を最終回まで見た。
 このアニメ作品では、動物の動き(とりわけガンたちの動き)が描出されている。動物の動きを描出すること、ある種の自然を描き出すことが、アニメーションの欲望として、間違いなく存在しているように思える。
 自然を描き出すというのは、そこに自然からの断絶があるということ、断絶した自然をアニメーションという形で再現しようとすることでもある。そうした意味で、自然を描き出すことは、人間の再自然化と関わっている。
 自然からの断絶、人間の再自然化ということで言えば、そこに母という主題が入り込んでくるのは必然的である。『ニルス』の物語は、再自然化と自然からの断絶という物語の展開のうちに、母からの離脱という主題を含みこむ(端的に言えば、そこで、子供から大人へという成長物語が展開される。しかし、この成長物語を単に道徳的な水準で、乱暴者が大人しくなった(馴致された)というふうに捉えるべきではないだろう。『ニルス』において成長の主題はいくつかの位相を持つ。結婚し子供を持ち父となったガチョウのモルテンの物語もそのひとつである。そうした個々の物語とは別に、人間と動物との関係、人間と自然との関係が問われていることは間違いない。つまり、人間的なものとは何か、ということが問われている)。
 ニルスは家から離れ、再び家に戻ってくる。ここでの周期を形作っているのは渡り鳥たちの運動である。ニルスは小さくなることによって、人間と動物との狭間に位置する。動物たちとコミュニケートできるようになる。つまり、そのことによって、ある種の再自然化を達成する。
 しかし、小さくなることによって、ニルスは居場所を失う。彼は人間でもないし動物でもない。ニルスは人間と動物を結びつけようとするが、動物になりきることはできない。ニルスは道具を使用し、その道具の使用が動物たちを助けもするが、火の使用に代表されるように、動物たちとの断絶をも強調する。
 そういう意味では、再自然化の試みは失敗せざるをえない。ここには、母からの切断がある。
 イヌワシのゴルゴの存在が重要である。このイヌワシは他の動物たちと仲良くしようと、自然の法則、自らの本能を曲げて行動しようとする。彼は兎を食べずに魚を食べる。彼は本能を曲げて、アッカ隊長率いるガンの群れに付き従おうとする。しかし、そうした彼の意思とは裏腹に、彼の本能は本来のワシに近い行動を促す。彼は最終的には兎を食べるようになる。アッカとゴルゴとの別れを決定づけるのは、こうした意味では、自然の力である。
 しかし、人間はこんなふうには行かないだろう。むしろ、人間においては、自然化されないというところに、母との別れがある。ニルスは再び人間になることによって(大きくなることによって)、アッカ隊長たちとコミュニケートすることができなくなり、そこで必然的な別れが生じる。
 『ニルス』という作品の大部分を占めるのは動物たちとコミュニケートするシーンだ。そこにアニメーションの領野がある。動物たちの視点、人間を相対化する視点がそこにはある。
 ニルスは動物たちと話すだけでなく不思議な出来事(夜に銅像が動くなど)を何度も経験し、昔の物語(巨人たちの話)を聞いたりもする。そこで問題になっているのは、言ってみれば、世界の豊かさといったものであり、そうした領野にアニメーションは介入するが、『ニルス』という作品全体は、そうした豊かさからの決定的な断絶を印づける。
 アッカ隊長たちガンの群れは空に飛び立ち、ニルスはただそれを見送ることしかできない。ここから人間の世界が始まるわけだ。

『アニメルカ』誌に寄稿した件について――2010年も半ばを過ぎて

 『アニメルカ vol.2』に寄稿した。


アニメルカ vol.2』目次(アニメルカ公式サイト)
http://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-14.html
アニメルカ vol.2』目次+夏コミ販売告知(反=アニメ批評)
http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20100809/1281360179
夏コミ新刊『アニメルカ vol.2』のご案内(EPISODE ZERO)
http://d.hatena.ne.jp/episode_zero/20100808/p1


 僕は今回、「日常における遠景――「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」という文章を書いた。僕がこの文章で狙ったことは、2009年から2010年へ、ゼロ年代から10年代へ、という時代の変化の一端を輪郭づけることである。


 もちろん、時代は10年ごとに規則正しく変化するわけでもないから、2009年が2010年になったからと言って、何かが変わる必然性もないわけだが、そんなふうに暦の上に見出される区切りをひとつの指標にして、何らかの時代の変化について考える切っ掛けを掴むことはできるだろう。


 僕は、『アニメルカ』誌の登場も、そうした時代の変化に対応している出来事だと思っている。まさに、この同人誌は、2009年から2010年への移行期間に出現した。それでは、その間に、どのような状況の変化があったのか。


 『アニメルカ』誌は、ネット上に散見されつつも分断されている多様なアニメ語りを可視化させる目的のために作られたという。

現在、アニメを巡る言説は混迷を極めている。アニメ誌や批評誌、ブログやtwitterに匿名掲示板――そうした複数の媒介上で展開される、アニメに関する様々な言論や問題意識は、相互につながりを持つことなく依然分断されたままだ。この第一号では、そうした雑多で孤立した言説の数々をひとつの誌面上にまとめあげることで、アニメ批評・アニメ語りの潜在的な多様性を明らかにすることを目的とした。
(「アニメルカ 序」、『アニメルカ vol.1』)

 言い換えれば、ネット上においてはその存在が辛うじて見出されるアニメ言説なるものがネットの外においてはまったく等閑視されているという危機感の下に、この同人誌は作られた、ということだろう。


 この危機感は、また、次のようなことも意味している。すなわち、ネット上に見出されるアニメ言説は、その存在が一時期的なものであり、状況が変化してしまえば、もはや見出されなくなってしまうような代物であるだろう、と。


 『アニメルカ』第1号の「序」においては、上に引用したように、ブログ、twitter、匿名掲示板が、ネット上のアニメ言説を支えるメディアとして例示されているが、僕は、この三つの中では、やはりブログの役割が非常に大きかったと思っている。そして、ブログというものも、時代性を帯びたネット上のサービスだと考えられるとすれば、ネット上のアニメ言説というものも大きく変化せざるをえないことだろう。


 まとめると、ネット上のアニメ言説とは、ブログやtwitterといったネット上のサービス(アーキテクチャとも言えるだろうが)によって左右されるような代物であり、アニメ言説という何らかのまとまりがそこに見出されているのも、これらのサービスが個々の断片的な言説を、それぞれのサービス固有の仕方で、結びつけているからだと言えるだろう。


 ということは、つまり、『アニメルカ』誌が目的とするような「雑多で孤立した言説の数々をひとつの誌面上にまとめあげること」は、ある意味、すでにネット上において実現していることだと言える。むしろ、ネット上においてのみ、そうした「雑多で孤立した言説」が何らかのまとまり(の見かけ)を保持できているのかも知れない。


 だが、それを可視化(意識化)することができるかどうかという点に大きな違いがあるだろうし、おそらく、『アニメルカ』誌は、まずは、事態の可視化を行なうことが重要だと考えているに違いない。『アニメルカ』誌は、別に、(ネット上の)アニメ言説の全体を指し示そうとしているわけではないだろう。むしろ、逆説的な仕方で、全体の見通しがたさを示そうとしているかのようにも見える。


 「アニメルカ 序」では、上に引用した個所のあとに次のような言葉が続く。「『アニメルカ』はここから十年代における新たなアニメ批評の可能性を模索したい」。これを単なる常套句として聞き流すこともできるだろうが、僕としては、ここで、「アニメ批評」という言葉が出てきていることを重視したい。ネット上のアニメ言説の多様性を明示することと新たなアニメ批評の可能性を模索することの間にはかなりの距離があるだろうが、この二点を結びつけることが必ずできるはずだという何らかの信念が編集者の方々にはあったのだろう。『アニメルカ』誌はこのような賭けの下においてのみ成立していると考えるべきである。





 僕が第二号に寄稿した文章の話に戻ると、こうした状況下において、僕は、やはり、2009年という時点に焦点を定めた。10年代がどのような時代なのか僕にはまだよく分からないし、10年代のアニメ言説がどうなるのかもよく分からない。そこで、まずは、ゼロ年代に出てきた二つの言葉、セカイ系と日常系について問題にしてみることにした。


 2009年には、「エンドレスエイト」というセカイ系の終わりを端的に示すような作品が出現すると同時に、『けいおん!』のように日常系を代表する作品も登場した。これらの作品が共に京都アニメーションという同じ制作会社によって作られたという点に注目して、日常系の現在について考えた。


 現在も『けいおん!』の二期が放送されているように、『けいおん!』という作品がゼロ年代から10年代の移行に際して重要な作品になることは間違いないが、それでは10年代は日常系の支配する時代になるのかと言われれば、それは違う気がするし、そもそもそこでの「日常」という言葉の内実が問題になりうる。


 僕が危惧するのは、そこでの「日常」という言葉が単なる現実志向を意味しないのかどうか、という点である。「現実」という言葉の意味もまた厄介であるが、僕が言う現実志向とは、現実を虚構と対立させて現実のほうに価値を置くような発想のことである。こうした発想に従えば、日常系作品などというものは、単に現実生活を上手く生き抜くためのマニュアルになってしまうだろうし、何らかの教訓を提示することがアニメ作品の目的ではないだろう。


 そうした点で、僕は、今回の文章のうちに孤独の問題をも伏在させた。便所飯とか孤独死とか無縁社会という言葉が漂う現在において『けいおん!』のアニメを見ること。こうした構図にあって、虚構的な箱庭世界を構築することによって日常系アニメは孤独な人たちを現実逃避させている、というような決まり文句から日常系アニメ作品をサルベージさせなければならない。


 こうした緊張関係の下で、日常系と呼ばれる作品群が、とりわけ『けいおん!』がどのような闘いを展開しているのか、つまり、日常生活における冒険という果てしない課題をどんなふうに遂行しているのかという点についてよく見ていく必要がある。そうした闘争の中においてしか日常という言葉に新鮮な意味を付与することはできないだろう。

「私はここにいる」――『涼宮ハルヒの消失』に見る肯定の思想

(ネタバレ大いにあり)


 今月の6日から公開されている劇場アニメ『涼宮ハルヒの消失』。僕は初日に見に行ってきたのだが、感想をブログに書くのはしばらく控えようと思っていた。何というか、考えがまとまるための熟成期間がしばらく欲しいと思っていたのである。それでは、現在、もう考えが熟成したのかと言われると、まだ十分ではない気もするが、待っているといつまでも書かない気がしてきたので、ひとまずこの作品について自分が考えていることを書いてみることにする。


 また、僕は、『涼宮ハルヒ』という作品だけでなく、その制作会社の京都アニメーションも非常に重要だと思っている。つまり、京都アニメーションが作るアニメとはどのようなアニメなのかということにも関心を持っている。しかし、京都アニメーションについてはまだ考えがまとまらないので、ひとまず今回は、この『ハルヒ消失』というアニメがどういった作品であるのかという点に集中して考察を展開してみることにしたい。京都アニメーションの作品としての『ハルヒ消失』が他のアニメ作品とどういう関係にあるのか、等々のことについては、また別の機会に問題にしてみることにしたい。





 まず、いきなり、原作にはなかったアニメオリジナルの場面について考えることから始めてみよう。それは、物語の終盤、病院で目覚めたキョン長門有希と会話をする場面である。原作でキョン長門は病室で会話をするが、アニメでは屋上で話をする。なぜこのような変更をしたのか。答えは明確であるように思える。それは雪を降らせたかったから、長門有希の「ユキ」と雪の「ユキ」とを掛けたかったからである。


 この場面を単に感傷的な場面として捉えるのは容易であるが、僕はこのシーンが、「消失」という物語全体において、非常に重要な役割を果たしていると思っている。そもそも、この場面で降っている雪をどのような意味を持つものとして考えることができるだろうか。僕が連想したのは、アニメ『CLANNAD AFTER STORY』最終回の一場面、朋也たちのいるアパートの外が光の玉で満ちている場面である。「消失」の最後で降る雪も、この光の玉と同じ意味を持っているとは言えないだろうか。つまり、ここで問題になっているのは、別の世界の記憶、別の世界に住んでいた者たちの思い、とりわけ、もうひとつの世界にいた長門の思いではないだろうか。


 キョンから「ユキ」と呼ばれることで顔を上げる長門有希。この瞬間に、もうすでにこの世界から消失してしまったもうひとつの世界の長門の思いが結晶化されたとは言えないだろうか。忘却されていたものが、この瞬間だけ、想起されたとは言えないだろうか。少なくとも、この場面では、キョンから名前で呼ばれるという可能世界で想定される出来事が奇跡的に実現している。この場面を挟むことによって、長門の「ありがとう」という最後の言葉にも非常に多くのニュアンスが込められることになる。この「ありがとう」は、長門が真に伝えたかったメッセージをキョンが受け取ったこと、つまり、長門をひとりの女の子としてキョンが認めたことの感謝の印だと考えられないだろうか。





 そもそも、「消失」で描かれる世界が、長門有希の望む世界であったとすれば、長門は何を望んだのだろうか。昔のアイドル風の言い方をすれば、「普通の女の子になる」ことが長門の願いだったのだろうか(普通の女の子になり、キョンと恋愛関係に陥ること)。長門の望みについてはまた後で問題にするとして、ひとまず、この「普通」というものについて考えてみよう。


 「消失」で描かれる世界は、宇宙人も未来人も超能力者もいない世界、ハルヒが超越的な世界改変の力を持っていない世界である。そうした普通の世界にやってきたキョンは、果たして自分はこのような世界に生きることを望んでいたのか、というふうに自分自身に問いかける。つまり、不思議なことが起こらない、普通の日常生活を送ることがキョンの望みだったのだろうか、と。物語終盤での自己内対話は、一見すると、そのことを巡って行なわれているように思える。


 しかし、この自己内対話の場面で問題になっていることは、日常か非日常か、普通の世界か不思議な世界か、という選択だけでは必ずしもないように思える。今まで自分のいた世界を選ぶかこの新しい世界を選ぶかの二者択一において、キョンは、かなりあっさり、今までいた自分の世界のほうを選んでいるように思える(緊急脱出プログラムを起動させるシーン)。つまり、キョンに葛藤があるにしても、日常か非日常かというところが葛藤の中心ではないように思えるのだ。


 では何が問題になっているのか。おそらく、キョンの葛藤は、現在自分がこの世界にいるということを積極的に引き受けることができるのかどうか、というところにあるのではないか。この世界から他にどこにも行くことができないとすれば、(「消失」で描かれていたような)この世界かあの世界かという選択を行なうことができないとすれば、この世界で生きていかざるをえないのではないか、と思う人もいるかも知れない。しかし、そうなのではなく、この世界で生きていくことを自分で積極的に選択していくという最後の仕上げは誰にとっても問題になりうることだと思われる。


 誰も自分で選んでこの世界に生まれ出てくるわけではない。そういう意味では、誰もが世界に対して受け身の姿勢で臨んでいるとも言える。世界と「私」との関係においては、世界のほうが「私」よりも優先する。こうした関係性を逆転させ、自分がこの世界を選んだのだというふうに関係性を再構築すること。こうした手続きは誰にとっても問題になりうることだし、まさにこの問題を描いているのが、この『涼宮ハルヒの消失』という作品であるように思われるのだ。


 キョンは基本的に受動的な人物として描かれている。彼は、自分が巻き込まれた状況に対して、シニカルな距離を取ることで、何かに関わることを極力避けようとする。彼は何かに熱くなることがほとんどなく、冷めた視線で自分の置かれた状況に的確なツッコミを入れていく(こうしたキョンの態度は村上春樹の小説の主人公「僕」のデタッチメントな態度と相同だと言える)。そうした自分の受動的な態度に根本的な反省を加えているのがこの「消失」だと考えられないだろうか(すでにそれ以前に「溜息」のエピソードでキョンは自分の態度に反省を加えていたが、「消失」ではさらに根本的なレベルで反省を加える)。


 しかし、この世界で生きていくことを自分から積極的に肯定していくことは非常に困難な作業だと言える。というのも、それは言うなれば、自分で自分の逃げ道を封じていくことに繋がるからである。傍観者的な態度のままでいることはもうできない。どんな形であれ、自分がこの世界にコミットしているということを認めていかなくてはならない。





 ここでちょっと視点を変えて、ハルヒの抱えている問題に焦点を当ててみよう。この世界に生きていくことを自分から積極的に引き受けていくということ。これは、ハルヒの意識のレベルにおいては、不思議なことがほとんど起こらない退屈な日常というものを受け入れていくことだと言える。少なくとも、この世界がつまらないとしても、それを世界の責任だと言うことはできない。ハルヒは、そのことを自覚しているので、自分から面白いものを探したり、面白い状況を自分で作っていこうとする。しかし、彼女の中にも揺れがあって、もしかしたら問題は自分にではなく、この世界にあるのではないかというふうに考えてしまうために、世界崩壊を初めとした危機が何度も起こることになる。


 ハルヒの悩みを別の方向から明確にすれば、「憂鬱」のエピソードで描かれていたように、自分こそが平凡な「ただの人間」でしかないんじゃないか、というものだろう。彼女が未来人や宇宙人といった特別な存在を求めるのも、ハルヒ自身が自分の可能性に疑問を持っているからだと言える。「憂鬱」のエピソードにおいて、ハルヒをこの世界に留めることになったのはキョンのおかげだと言えるが、『涼宮ハルヒ』という作品全体を通して、この根源的な問題、つまり、この世界で「私」が生きていくことの問題は残り続けていると言える。


 そうした意味で重要なエピソードであるのが「笹の葉ラプソディ」である。このエピソードは「消失」でも再び取り上げられることになるわけだが、なぜこのエピソードがそんなにも重要なのか。それは、この三年前の七夕のエピソードが『ハルヒ』という物語全体の起点になるからだとも言えるが、もっと重要なのは、このときにハルヒが校庭に書いたメッセージが「私はここにいる」だったからである。


 つまるところ、あらゆる物事の結節点になるのが「私はここにいる」という一事なのである。ハルヒは自分が平凡な人間かも知れない、この世界は退屈なものかも知れないという危惧を抱えているかも知れないが、だとしても、彼女はそこにいる。つまり、この世界で生きている。このことを疑うことは非常に難しいだろうし、仮に疑ったとしたら、ありとあらゆるものの根拠が失われてしまうことだろう。「私はここにいる」という一事から出発するということ。そして再びこの一事に帰ってくるということ。つまり、「私はここにいる」ということを自分の選択した結果として引き受けるためにはどうしたらいいのか、ということがこのエピソードで問題になっているのではないかと思うのである。





 さて、それでは、「消失」に話を戻そう。「消失」において世界の選び直しが問題になっているのはハルヒではなく、キョンのほうである。キョンはどんなふうに、この世界を選び直すのか、つまり、「俺はここにいる」という事実を自分の選択の結果にするのか。非常に興味深いのは、「消失」において、こうした選択行為の問題が、たった一度の選択としてではなく、合計三回の選択の問題として提示されていることである。その三つとは、まず、文芸部のパソコンで緊急脱出プログラムを起動するかどうかという場面、二つ目は、世界改変直後の長門に再修正プログラムを打ち込むかどうかという場面、そして、最後の三つ目は、再修正プログラムを長門に撃ち込むために過去に戻る場面(これは「消失」では描かれない)である。


 なぜ選択行為がこんなふうに三つに分裂しているのか。それは、まさに、自分がいるこの世界を自分自身が選ぶという状況を作り出すためである。最初の選択行為において、キョンは、自分が現在いる改変後の世界から改変前の世界に戻ることを選択する。このときキョンにとって重要だったことは、自分の見知っているSOS団のメンバーに会いたいということである。それゆえ、キョンは非常にあっさり緊急脱出プログラムを起動させる。


 しかし、次の選択行為の場面において、長門に再修正プログラムを撃ち込もうとする前に、かなり長い独白が、自己内対話が挟み込まれる。なぜ最初の選択行為においてあっさり答えを出したのに、この選択行為の時点では長々と悩むのか。その理由は上に書いたように、ここにおいては、こちらの世界かあちらの世界かということがもはや問題なのではなく、自分の今までいた世界を受動的にではなく積極的に引き受けることができるのかどうか、ということが問題になっているからだと思われる。


 そして、興味深いのは、この二度目の選択行為の根拠になっているのが、一度目の選択行為だった、ということである。そもそも、二度目の選択において、キョンは、何かを選ぼうとしているのではない。選ぼうとしているのではなく、自分がすでに選んでしまっているということを確認しているのだ。この確認が決定的であるのは、この地点において、世界と「私」との関係が逆転するからである。すでに自分はどこかの地点でこの世界に生きることを選んでいたのだということを確認するのだ。


 最後に、最も奇妙な選択行為の場面、自分がすでに過去にこの世界を選んだという選択行為をこれから未来で行なうという場面がやってくる。キョンはすでに元の世界に戻ってきている。しかし、世界を再改変するための行為はまだ終わっていない。世界は再改変されているのだから、キョンがこの世界に戻ってきているのだから、選択行為はすでになされているはずである。だが、キョンはもう一度自分から積極的に選択する必要があるのだ。この状況こそが重要である。この状況こそ、自分がいるこの世界を自分自身が望んだものとして再度選択していくこと(過去を作り出すために未来に行為すること)なのである(第二回目と第三回目との間に空いた短い時間で「消失」の物語は終わるわけだが、この時間とは、世界に対して受動的であったときとこれから世界を積極的に引き受けていくときとの間に空いた短い時間だと言える)。





 さて、「消失」において、こんなふうに自分のいる世界を自分で選び直すという手続きが問題になっているとしても、そうした手続きを行なうための大きなきっかけとなったのは、別の世界の存在があったからである。つまり、この世界ではない別の世界というものが立ち現われてきたからである。この別の世界とは、端的に、平行世界と呼べるだろう*1。つまり、もし自分が違う選択をしていたら違う人生を歩んでいたかも知れないというふうに想定されるような可能世界のことである。そして、「消失」が興味深いのは、ここで問題となる可能性が、キョンの可能世界としてではなく、長門の可能世界として立ち現われてきたところである。


 そもそも、長門の抱えている問題とは何だろうか。キョンはこの世界に対して受動的な態度を取っていたわけだが、長門はそれ以上の態度で世界に臨んでいたと言える。つまり、長門はこの世界に自分自身を関わらせないという形で臨んでいたのである。これは端的に諦念的な態度と言えるだろう。長門には「私」というものが存在しない。長門は自身の置かれた環境と情報統合思念体と呼ばれる超越者との媒介を果たすだけである。彼女は、「エンドレスエイト」のエピソードで描かれていたように、世界で起こることをただ単に観測して、突発的な事態に対処するだけである。


 こんな長門が自我を持ってしまったというのが「消失」で描かれていることである。長門は感情を持ってしまった(それは恋愛感情かも知れない)。いずれにしても、この「私」の出現は、長門にとっては「エラー」とか「バグ」として捉えられるものである。つまり、「私」の出現は、単に観測対象であった世界に何らかの影響を及ぼすかも知れないのである。そうした長門の悩みが世界改変という根本的な事態を引き起こしたわけだが、ここで長門がやったこととは、自分のうちに生じた自我を、ある意味、抹消するというものだったと言える。彼女は葛藤を解決するために、まったく別の自分を作り上げたのである。


 「消失」で描かれる世界。この世界は長門が望んだ世界という意味では、長門の夢の世界だと言える(ここにおいて『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』との比較検討が可能になる)。しかし、この世界に、元の世界の長門はいない。キョンが抱いたのも、この長門はあの長門ではない、という印象である(「俺は今のお前じゃなくて、今までの長門が好きなんだ。それに眼鏡はないほうがいい」)。しかし、こんなふうに自分をまったく別の存在に作り上げてしまったということ、自分のうちに生じた感情をこんなふうに抑えてしまったということ、これこそが長門の隠れたメッセージになっているのであり、そのメッセージをキョンはちゃんと聞き届けたと言える。そのメッセージとは、つまり、「私はここにいる」ということ。長門の中にひとりの女の子としての感情が芽生えたということである。


 最初の選択行為の場面において、キョンは、長門の作り出した世界かハルヒの作り出した世界か、どちらを選ぶのかということを問題にしていたとも言えるが、そこでキョンハルヒの世界を選んだというふうには言いがたいのは、ハルヒがこの世界を作り上げたその原因の一端はキョン自身にもあるからである。そのことが描かれているのが三年前の七夕である(「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!」)。つまり、結局のところ、キョンは、ハルヒの世界ではなく自分自身の世界を選んだとも言えるのである。そして、長門の夢の世界を選ばなかったとしても、長門の真のメッセージをキョンはちゃんと受け取ったはずである。


 上記したように、改変後の長門の姿は長門自身が望んだものだとすれば、ある意味、長門は自分自身を見失ってしまったのではないかと思う。『しゅごキャラ!』の「×キャラ」のように、自分自身を見失う形で誕生したキャラクターが改変後の長門だったのではないか。だとすれば、元の世界に戻ってきたキョンが「何としてでもお前を取り戻しに行く」というふうに長門に言ったのは、この世界にいる長門の存在を、長門の中に生じた自我を承認する行為だと言えるだろう。ここにおいて、長門のメッセージは長い回り道をしてキョンに届いたと言える(そして、ここで、冒頭に問題にした「ユキ」のシーンがやってくるのである)。


 この最後の場面での「情報統合思念体」を巡るやり取りは非常に興味深い。「なんだって一人寂しく部屋に閉じこもって本だけ読んでそうな、鬱な娘を設定しやがったんだ」というキョンの非難は、この『ハルヒ』という作品を書いた作者の谷川流に向けて、さらには、こうした長門のようなキャラクターを好むオタクたちの集合的無意識に向けて発せられた非難の言葉だと言えはしないか。つまり、キャラクターたちは、作者や読者の欲望に支えられた夢の世界の中で生きているのであり、そういう意味では他人の夢の中でしか生きざるをえない。そういう状況の中で、なおかつ、この生を肯定していくにはどうしたらいいのか、というようなキャラクターの生の問題もここには含まれているように思える。こうしたレベルにおいては、作者の谷川流もキャラクターたちの思いというものを無視することができないのではないかと思う(つまり、このシーンを書いたことによって、谷川流はキャラクターたちの「私はここにいる」というメッセージを聞き届けたはずである)。





 長々と書いてしまったが、作品の最後の場面(これも原作にはない)について言及することで、この考察を終えることにしたい。


 アニメのラストカットは、図書館で本を読んでいる長門が、貸し出しカードを少女に作ってあげる少年の姿を見て、本で口元を隠す、というものである。貸し出しカードをキョンに作ってもらった思い出は長門にとって大きく、改変後の世界においては、この思い出が長門キョンを繋ぐ絆となっている。この最後の場面で長門が何を思ったのかという点についてはいろいろと想像できるが、もっと重要だと思われるのが、長門キョンとの関係性ではなく、見知らぬ少年と少女との間で、何かひとつの物語が、もしかしたら改変後の世界で長門が夢見たような物語が展開されるかも知れないという可能性である(こんなふうに他者に委ねられた可能性については京都アニメーションの別のアニメ『AIR』の最後でも描かれていることである)。


 別のどこかで、自分の知らない人たちが、自分の実現しなかった夢を別の形で実現しているかも知れないということ。これが、実現しなかった可能世界の思いの出口のひとつになりうるのではないかと思うのである。「エンドレスエイト」の最後でキョンが言っていたことが重要である。平行世界の自分からのメッセージがあの既視感であり、そのおかげで自分はループを脱出するために行動することができたのだ、と。しかし、消失してしまった平行世界の自分との間に明確な関係性があるという保証はまったくない。原因・結果の関係性はそこにはないのではないかと思う。だが、そこにあえて関係性を築くということ。それこそが他者と関係するということであり、そのことが自己の救済をもたらすことに繋がるのではないかと思うのである。


 おそらく、ハルヒキョンとの関係性において最も重要だと思われるのが、この他者性の問題である。今回の「消失」のエピソードでより明確になったことは、ハルヒの欲望とキョンの欲望とが相補的な関係にあるということである。「卵が先か鶏が先か」という言葉と同様の意味で、キョンが先かハルヒが先かという問題が生じる。この点を突き詰めて行けば、自己と他者というような問題に行き着くだろうし、小説の構造的なことを言えば、キョンの一人称が当然問題にならざるをえなくなるだろう(村上春樹の小説の一人称が問題であるように)。


 こうした諸々の問題が今後描かれるエピソードで根本的なレベルから取り扱われることを期待して、次の『ハルヒ』のアニメを待ちたいと思う。

*1:コメント欄参照

偽者として生きるということ――『魔法少女リリカルなのは』に見る現代的な不安

 フロイトは「精神現象の二原則に関する定式」という論文の中で次のような奇妙な夢を報告している。

 ある男が父が長いあいだ苦しんだ不治の病気を看病したが、父の死んだ翌月に何回も次のような夢を見たという。父がまた生きかえって、昔のように彼に話をしている。ところが彼は、父がもう死んでしまっているのに、それを知らないでいるのを非常に心苦しく感じていた。
(『フロイト著作集6』、井村恒郎訳、人文書院、1970年、41頁)

 自分がもうすでに死んでいるのにそのことを知らないということ。ここにひとつ現代的なモチーフを見出すことができるような気がする。


 こういうことを僕が思ったのは、『魔法少女リリカルなのは』のアニメ(第1期)を改めて見たからなのだが(劇場版『なのは』も見た)、この作品に登場するフェイトというキャラクターが抱えている問題というのも、まさに、この「自分がすでに死んでいるのを知らない」という状態ではなかったか。


 フェイトの場合は、正確に言えば、「自分がすでに死んでいる」ではなく、「自分が偽者であることを知らない」という状態である。彼女は自分が母親の本当の娘だと思っている。しかし、実際はそうではない。彼女は死んだ娘アリシアの代わりに生み出されたクローン人間である。その事実を知ったフェイトがいったいどのようにして立ち直ることができたのかということが、この物語の大きな山場だと言っていいだろう。


 現代の問題というのは、つまるところ、こんなふうにすでに何かが死んだり崩壊しているのに、まだそのことに気がついていない、あるいは、薄々気がついているにも関わらず、そのことを直視することができない、ということである。とりわけ、家族関係の問題は深刻であるように思える。フェイトの物語に象徴的に見出されるのも、すでに亀裂が走っている家族関係である。


 アニメの次のような場面が印象的である。フェイトの思い出においては、母親との親密な関係がしっかりと存在している(母親とのピクニックの場面)。しかし、そこには、ひとつ不安要因もある。この思い出の中で、母はフェイトのことを「アリシア」と呼ぶのである。この事実を疑問に思いながらも、フェイトはそのことを追究しようとはしない。逆に言えば、この時点で、フェイトは何か不穏なものを感じ取っているわけだが、それを直視することができないのだ(不穏な予感にさいなまれながらも、真実を追究した人物として、ソフォクレスの描くオイディプス王の名前を上げることができるだろう)。


 数年前に耐震偽装問題というものがあったが、ここにもまた何か不穏なものが感じられないだろうか。自分の住んでいる家が大地震のときに崩壊するかも知れないという安全性に対する不安だけがここで問題になっていたのだろうか。いや、それだけではなく、ここには、ハウスとしての家だけではなく、ホームとしての家が崩壊するかも知れないという不安も含意されていなかっただろうか。つまり、単にハウスとしての家の耐震強度にだけ不安があるのではなく、ホームとしての家のレベル(家庭や家族関係のレベル)においても耐震強度の不安が見出されたのではなかったか。


 こうした崩壊の予感を見事に描いたアニメ作品として、『東京マグニチュード8.0』の名前を上げることができるだろう。『東京マグニチュード』においては、まず始めに家族の崩壊の危機の問題が提出され、その問題が、ある意味、大地震という物理的な崩壊という形で表現される。そして、逆説的にも、物理的なハウスの崩壊が、むしろ、ホームの修復に役立つという、そのようなプロセスが描かれていた作品だったと言える。


 話を元に戻すと、つまるところ、僕は、『なのは』の物語をそんなふうに理解したわけである。すでにもう崩壊しているものにいかにして直面し、そこでの問題をどんなふうに克服するのか。そうしたことを描いた作品だと思ったわけである。


 自分が偽者かも知れないというフェイトの不安もまた極めて現代的であるように思う。これは家族の崩壊の問題と同じ文脈なのだが、ここでの問題とは、自分のアイデンティティに大きな穴が開いてしまっている、ということである。自分が何者であるのかというその実存の根底に大きな穴が開いてしまっているのだ。


 こうした底が抜けてしまった実存の問題に関して、僕は以前、『テイルズ オブ ジ アビス』を題材にしながら論じたことがあるので、興味がある方はそれも読んでいただきたい。


交換可能な生としてのレプリカの生――アニメ『テイルズ オブ ジ アビス』について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090929#1254229650


 偽者としての生とはどのような生なのか。『アビス』に近づけて考えてみれば、それは、誰か別の人の存在を剥奪してしまったという罪を抱えた者の生のことである。フェイトの苦しみとはまさにこうしたところにあるだろう。


 フェイトの悩みは、母親の要求に上手く応えられない、というところにある。母のプレシアはフェイトに「ジュエルシード」と呼ばれる宝石(魔力を秘めた結晶体)を集めてくるように要求する。フェイトはその要求に上手く応えることができない。そのことにフェイトは自責の念を抱く。しかし、おそらく、フェイトが薄々感じ取っていただろうことは、母親の要求はもっと過剰だ、ということである。つまり、母が真に望んでいることは、愛する娘アリシアを蘇らせたい、というものである。フェイトは母の愛を獲得するために、母の要求に応えようと努力するわけだが、そもそも母の愛は別の方向に向かっている。たとえフェイトが母の要求を完全に満たしたとしても、フェイトが母の愛を獲得することはできなかっただろう。


 自分が偽者であることをフェイトが知ったとき、おそらくフェイトが感じた気持ちというのは、罪の意識だったことだろう。母親が欲しかった本当の娘では自分がないことに対する罪の意識、自分が偽者であることに対する自責の念。フェイトがアリシアの偽者であることにはフェイトの責任はまったくないわけだが、しかし、彼女は、母の欲しいものを与えることができなかったことに対して罪の意識を抱いたことだろう。


 ここでの罪を、ある種の原罪として位置づけることができるように思える。それは、つまり、知らず知らずのうちに自分が誰かの居場所を奪い取ってしまったという罪である。フェイトは母から「お前は偽者だ」と宣告されることによって、自分の居場所を剥奪されるわけだが、しかし、罪の意識という観点からするならば、そもそも剥奪行為を行なっていたのはフェイトのほうだったということになる。


 なぜ自分は生まれてきたのだろうか。自分の生きている意味とは何か。こうした問題に直面した場合、それに答えることは容易ではないが、『なのは』の物語において、フェイトは前進する。彼女が行なったことは、自分の同一性を確認すること、ある種の生まれ直しをすることである。


 フェイトとプレシアとの最後の対面の場面で、フェイトは母に向かって次のように言う。「私はアリシアテスタロッサじゃありません。あなたが作ったただの人形かも知れません。だけど、私は、フェイト・テスタロッサは、あなたに生み出してもらって育ててもらったあなたの娘です」。この台詞の含意は明確である。フェイトはアリシアと同じ姿形をして同じ記憶を持っているかも知れないが、アリシアそのものではない。つまり、偽者である。しかし、アリシアではなく、フェイトという別の名前を与えてくれたということ、そんなふうにひとつの存在を獲得することができたということ、そのことから、フェイトは、やはりプレシアのことを母と呼ぶのである。「私があなたの娘」なのではなく、「あなたが私の母さん」だ、というふうにフェイトは言う。彼女はこんなふうに関係性の再構築を行なうのである。


 結果として、そんなふうにフェイトが言ったとしても、プレシアはフェイトのことを認めることがなかったが(劇場版においてはちょっとした救いが描かれる)、しかし、彼女は自分自身の存在を獲得することができたと言える。それは、言うなれば、偽者の存在という自らの存在規定を肯定することによってである。偽者だったからこそ、彼女はフェイトという名のひとつの存在を獲得することができたのだ。ここにおいて、フェイトに取りついていたアリシアの亡霊は死に、真にフェイトという名の存在が誕生したと言えるのである。


 こうしたフェイトの生まれ直しの過程において、なのはという少女が大きな役割を果たしたことは間違いないだろう。なのはが果たした役割がどんなものであったのかということは、この作品の最後の場面で端的に描かれている。最後の場面で、なのははフェイトに向かって、二人がどうやったら友達になれるかということを教える。なのはの答えは単純である。名前を呼ぶこと。名前を呼ぶことこそが、まさに、存在の承認というレベルにおいて問題になっていることであり、フェイトというふうに呼びかけられることで、彼女は、アリシアに肉体を貸し与えていた存在としてではなく、これまでもずっとフェイトという名の存在者だったというふうに承認されることになったのである。


 僕は、こうした物語展開から、現代人の生の問題というものを見出さざるをえない。偽者の生の問題と関連する現代人の生の問題とは、言ってみれば、自分が偽者であるかも知れないという不安に絶えず脅かされつつ、あたかも本物であるかのようなフリをして毎日を過ごすということ、これではないだろう。つまり、ここには、何か決定的な欠損があるのではないかという不安が、暗い予感あるのだ。


 『なのは』が最初にテレビ放送されたのは2004年であるが、東京では同時期の同じ時間帯に、『舞-HiME』と『ローゼンメイデン』という二つのアニメも放送されていた。『舞-HiME』と『ローゼン』についてはこのブログでも何度か問題にしたが、こんなふうに『なのは』について考えてみると、これら三つの作品にはやはり共通する問題が見出せるように思える。そんなふうにゼロ年代の半ばに提出された問題が2010年代になってどのような展開をすることになるのかというのは大きな問題である。『なのは』という作品が何かを開いたとすれば、『なのは』が可能にしたこととは何なのだろうか。そうしたことを考えていくのは重要であるだろう。


 また、ゼロ年代には、家族の再構築、あるいはもっと広く、関係性の再構築を描いた作品がたくさんあったが、そうした問題設定がこれからどのように展開していくことになるのかというのもひとつの注目点だろう(僕は依然として『けいおん』が重要だと思っている)。いずれにしても、2010年代が始まったということに乗じて、何か新しい方向性、希望のある方向性を打ち出してみたいと思っている。そのためには、ある種の反省も必要になると思うが、何にしても、書かなければならないのに書かないまま終わってしまった記事がたくさんあるので、そうした課題をちょっとずつでもこなしていきたいと思っている。

出来事のない世界――反RPGとしての『ゆめにっき』

言葉のない世界が生み出す言葉――ゲーム『ゆめにっき』について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090524#1243184056


 以前、フリーゲームの『ゆめにっき』について感想を書いたことがあったが、もう少し内容に踏み込んで書いてみたいと思ったので、ちょっと書いてみることにしたい。以前に書いたことと話が重複するところがあるかも知れないが、それでも書いてみることにする。


 以前、僕は、『ゆめにっき』について、「言葉のない世界」という観点から、そして、コミュニケーション(の不在)という観点から、この作品を問題にした。つまり、このゲーム内では、基本的に、(言葉による)コミュニケーションというものが存在しないのであるが、逆にこのコミュニケーションの不在が、ゲームの外で、このゲームのファンたちの間で、コミュニケーションを活性化させているのではないか(キャラクターに名前を与えたり、作品解釈をしたり、二次創作を行なったり、など)、ということを書いたのである。


 また、僕は、このゲームについて、「反ゲーム」というふうに書いたが、「反ゲーム」というのが言い過ぎだとしても、少なくとも、「反RPG」というふうには言えるのではないかと思う。そのときに問題になるのは、そもそもRPGとはどのようなものなのであって、そこで何が行なわれているのか、ということである。そうしたゲームの本質に関わることを、この反RPGのゲームが逆照射することになるのではないか、と思ったのだ。


 その点について再びちょっと書いてみたいと思うのだが、『ゆめにっき』において、言葉によるコミュニケーションが不在であるという点は、RPGというゲームジャンルを考える上で何か決定的な視点を提供しているように思える。つまり、RPGの世界においては、広い意味でのコミュニケーション、他の人間と何らかの形で関わることが問題になっているのではないだろうか。逆に言えば、『ゆめにっき』で提示されている世界は、主人公の他には人間が出てこない世界(人間的なキャラクターが多数登場するとしても)、他人と交渉したり関わり合ったりすることができない世界だと言える。


 それゆえに、『ゆめにっき』の世界は、まったくの孤独な世界だと言うことができる(孤独という状態が非常に特異な仕方で描かれている)。『ゆめにっき』の夢の世界は非常に広大である。しかし、その広大さは何か空虚なものを、満たされないものを満たしてくれるわけではない。むしろ、夢の世界が広大であればあるほど、主人公の少女の孤独が引き立つことになる。つまり、結局のところ、夢の世界の広大さと現実世界の少女の行動範囲(自分の部屋とベランダだけ)は、他の人間との交渉が存在しないという意味で、等価なのである(夢の世界はこれほどまでに広大なのに、彼女がどこかに行き着くことはない)。


 『ゆめにっき』においては、通常のRPGで描かれている、人間的なコミュニケーションが欠けている。あるいは、別の言い方をしてみれば、『ゆめにっき』には、イベントというものが存在しない。『ゆめにっき』には何の出来事も存在しない。


 ここで言う出来事とは、単に何かが起こるということではなく、世界に本質的な変化が生じるということである。世界の何かが変わり、世界がそれ以前とは異なったという、そうした意味での変化(不可逆的な変化)がもたらされるということ。そうした変化が『ゆめにっき』には存在しないのである。


 通常のRPGにおいては、変化というものは、大きく分けて、環境の変化とキャラクターの変化の二種類あることだろう。環境の変化というのは、物語が進行するということ、あるいは、イベントが進行するということであるが、単に主人公たちの行ける場所が広がるとか、出現する敵キャラが変わるということも環境の変化であるだろう。もうひとつの変化はキャラクターの成長、パラメータの変化であり、端的にはレベルアップとして表現されるものである。この二つの変化が、バラバラにそれぞれ独立して生じるのではなく、連動することになるという点が重要であるだろう。つまり、その場合には、自身の成長が環境の変化をもたらすことに役立つのであり、環境の変化がさらに自身の変化を促すこともあるだろう。こうした相互影響があるからこそ、RPGには何か進展のイメージがもたらされることになる。自身のキャラクターが成長するということと物語の進展とが連動するのである。


 RPGの醍醐味、あるいは、RPGによって満たされる欲望という観点からするなら、上記のように何かが進展・発展することだけがRPGにおいて満たされる欲望ではないだろう。RPGにおいて満たされる欲望という点においては、レアアイテムの蒐集などに代表されるようなコレクションの欲望というものも存在する。この蒐集の欲望は上記したような(世界の)変化とは必ずしも関係がない。蒐集することは蒐集することだけに意味があるのであって、(アイテムなどの)使用とは切り離される。ゲームシステム上は、何らかの環境を変化させるために(容易に敵を倒すことができるようになるなど)、そうしたレアアイテムの存在があるだろうが、単に蒐集の欲望を満たしたい人にとっては、取り立てて何か変化が起こる必要はないだろう。


 いずれにしても、こうした意味での世界の変化が『ゆめにっき』には乏しいのである。『ゆめにっき』の世界は、基本的に何も変化が生じることのない世界、出来事が何も起こらない世界だと言える。唯一ありうる変化というのは、「エフェクト」と呼ばれる、主人公の姿や動作を変化させる一連のアイテムを使用したときの変化であるが、これは、ほとんど蒐集して終わりになってしまうアイテムである。こうしたエフェクトを持っていないと起こらないイベントというものも存在すると言えば存在するのだが、それをイベントと呼ぶことにためらいがあるのは、そうしたイベントが何か他の出来事と関連し合うことがないからである。つまり、何か特別なことが起こったとしても、それはただそれだけで完結してしまう出来事であり、かつまた、それは何度でも起こすことのできる出来事なのである。それゆえ、こうした出来事が世界の変化に繋がっていくことはない。


 さらに、エフェクトを用いて、主人公ができることに注目してみよう。主人公は、言葉を用いて他人と話すことはできないわけだが、「包丁」のエフェクトを用いることで、夢の世界にいる住人たちを殺すことはできる。しかし、そんなふうに誰かを殺したとしても、その殺したという事実が他の諸々の事象に影響を与えることはない。殺したという事実は殺したという事実それ単独で留まり、それ以上の何ものでもなくなる(殺した事実がパラメータの変化などをもたらすことはない)。さらに言えば、誰かを殺したとしても、その人物はすぐに復活することになるから、究極的には、それを殺人行為と呼ぶことすら難しい。単に一時的にそのキャラクターが世界の中から消えるというだけの話である。


 ちなみに、『ゆめにっき』では、夢の住人たちを殺すと、お金が手に入ることがある。これは、RPGにおいては、ある種、当たり前になった感覚である(敵を倒すとお金が手に入る)。しかしながら、『ゆめにっき』において、お金を使用できる機会があるのは、唯一、ジュースの自動販売機だけであり、そのジュースを飲むと主人公のライフが増えるのだが、そのライフがこのゲーム上で何か意味を持つことがないので(敵からダメージを受けるなどということがこのゲームにはない)、結局のところ、お金を獲得することにも意味がないことになる。


 包丁の使用の話に戻ろう。前にも書いたことであるが、この包丁で誰かを殺すという行為が、『ゆめにっき』においては、ほとんど唯一のコミュニケーション手段だと言える。誰かを殺すことは、存在のネットワークとでも言うべきもの(人間においては社会関係など)に大きな影響を与えることになるわけだから、何か大きな変化を起こすための手段となりうる。だが、『ゆめにっき』においては、誰かを殺しても何の変化も生じないし、誰かと話す代わりに誰かを殺すことになっているとしても、誰かを殺してしまえばその人物とはもはや何も交渉することができないわけだから、殺すことはまさにコミュニケーションの終わりを意味すると言える。


 エフェクトには、包丁以外にも、夢の世界の住人たちに干渉することができるものがある。それは、例えば、「猫」や「信号」といったものである。「猫」は夢の住人たちを主人公に引き寄せることができ(つまり招き猫)、「信号」は夢の住人たちの動きを停止させたり再び進めさせたりすることができる。こんなふうに他のキャラクターたちに干渉することができるとしても、そのことが結果として他に何の影響も生じさせないとすれば、そのような干渉行為にも、包丁による殺人行為と同様、ほとんど何の意味もないと言える。


 こうしたことから逆に考えると、通常のRPGにおいては、誰かと言葉を交わすことによって、出来事を生じさせ、世界に大きな変化をもたらすことがゲームの醍醐味になっているところがあると言える。そして、そこで生じた変化は言葉によって語られる必要がある。つまり、意味が付与され、物語化される必要がある。こうした意味付与のプロセスを『ゆめにっき』は決定的に欠いているのである。それゆえにこそ、物語化や意味付与の過程は、このゲームをプレイした人に、さらには、このゲームのファン共同体に委ねられることになるのである(とりわけ、主人公の少女の現実生活を想像し、夢の世界の諸断片を結びつけることによって)。


 『ゆめにっき』の世界は関係性というものが存在しない世界だと言えるかも知れない。これは、つまり、夢の世界が現実世界とほとんど何の関係も持っていないということである。『ドラゴンクエスト6』のように、夢の世界で起こった出来事が現実世界に影響を与えるといったような、二つの世界の間での影響関係というものは存在しない。『ゆめにっき』の少女が現実世界でほとんど何もすることができない以上、夢を見ているだけでは、そこにはほとんど何も変化は生じないのである。


 つまり、もっと言えば、主人公の少女は、夢の世界にとっては、亡霊のような存在だと言える。少女は夢の世界の構成員ではない。彼女は外の世界からやってきた人物、夢の世界には存在しない人物である。その世界に内属していないからこそ、彼女は世界と関係することができない。つまり、世界に何も変化をもたらすことができないのである。


 『ゆめにっき』は「RPGツクール」というRPG制作ソフトを用いて作られているようであるが、まさに、RPG制作ソフトによって与えられた基本的な枠組みが、このゲームを反RPGにしている大きな原因であるように思える。これは、つまり、『ゆめにっき』という作品にもっと相応しいゲームジャンルなりゲームシステムなりが他にありうるのではないか、ということである。しかし、それがどんなゲームジャンルなのかはよく分からないし、むしろRPGという枠組みが(つまり形式と内容とのある種のズレが)この作品に独特な魅力を付与することになった原因なのではないかとも思うのである(このゲームをRPGのようにプレイしてみたくなるからこそ、通常のRPGとの様々なギャップが際立つことになる)。


 こんなところでひとまず『ゆめにっき』に対する考察を終わりにしたい。ゲームに対する興味は他にもいろいろと持っているので、それはいずれ別の形で展開してみたいと思っている。




(関連する過去の記事)
暴力とコミュニケーション(その3)――秋葉原無差別殺傷事件と加藤智大について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090124#1232813402

このブログの一年間を振り返る(2009)

 先日、ゼロ年代と2009年のアニメを振り返る記事を書いたので、それとは別に、2009年のこのブログを振り返る記事をちょっと書いてみたい。


 というよりも、そもそも、このブログは5年近く続けているわけだが、もうそろそろ、ある種の限界に近づいているという実感が僕の中にはある。このブログでは、主として、アニメ作品を取り上げて、それについての考察や感想をいろいろと書いてきたわけだが、こうしたブログの方向性それ自体をちょっと考え直してみるべきなのかも知れないということをちょっと考えているわけだ。


 今年からtwitterを始めたわけだが、今後はtwitterを主な活動の拠点に据えようかとも考えている。しかし、僕の文章はどうしても長くなってしまうので、今後もブログには何か文章を書いていくことになると思うのだが、何というか、今後はtwitter上の文体というか、140字という短い字数の上でどのようなことを書いていくかということの重要性が問われそうな気もするので、そうした意味での文章修行をちょっと行なってみたいという思いもある。


 さて、今年僕がこのブログにどんなことを書いてきたのかということを振り返ってみようかとも思っていたのだが、それは面倒なので、主に問題したアニメ作品名だけを列挙してみることにしたい。


鉄のラインバレル
CLANNAD
とらドラ!
キャシャーン Sins
夏目友人帳
天体戦士サンレッド
機動戦士ガンダム00
WHITE ALBUM
ルパン三世VS名探偵コナン
涼宮ハルヒちゃんの憂鬱
けいおん!
戦国BASARA
交響詩篇エウレカセブン
涼宮ハルヒの憂鬱
宇宙をかける少女
バトルスピリッツ 少年突破バシン
エンドレスエイト
テイルズ オブ ジ アビス
黒神
にゃんこい
亡念のザムド
マクロスF
乃木坂春香の秘密
生徒会の一存


 他にもいろいろとアニメは見たが、このブログ的には上記したあたりが2009年のアニメだったと言える。


 僕は、やはり、アニメというものを大きな物語という文脈、ひとつの大きな流れの中で見るというところがあるので、そういう意味では、『ラインバレル』とか『ガンダム00』とか、そういう規模の大きな作品は語りやすいところがある。セカイ系という、ある種、大きな規模を捏造している作品群も同様である。そうではない無数の作品はやはり語りにくいので抜け落ちてしまっているところがあるが、巨大ロボットアニメというジャンルがほとんど死滅している現在にあっては、いかにしてそのような小さな規模の作品について語るかということが課題になってくるのかも知れない(そういう意味では、今年は『真マジンガー』がいろいろなことを象徴していて興味深い作品だったと言える。『真マジンガー』は『キャシャーン Sins』と一緒にしていろいろと考えてもいいかも知れない)。


 ざっとブログを見返した個人的な印象を言えば、僕はもっとマイナーな作品、あまり人が見ていないようなアニメについて積極的に語るべきだったのかも知れない。メジャーな作品、話題作についてもっと積極的に語ると同時に、マイナーな作品についてもいろいろと語るべきだったのかも知れない。そういう二方面作戦で今後は行くことを目標にしよう。


 しかし、最初に書いたように、ブログとtwitterとのバランスについてもいろいろと考えなければならない。まあ、結局のところは、書きたいことを書きたいときに書くというだけの話なのだが、来年もまた、いろいろと試行錯誤を繰り返してみたい。


 そういうわけで、みなさん、来年もまたよろしくお願いします。

2009年のベストアニメ作品――ゼロ年代の終わりにアニメの未来について考えてみる

アニメ(ブロガー・twitterアニメクラスタたち)の饗宴、あるいは2009年アニメベスト/ワーストのススメ(反=アニメ批評)
http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20091220/1261317064
アニメブログ年末合同企画(EPISODE ZERO)
http://d.hatena.ne.jp/episode_zero/20091220/p2


 上記の企画に参加。


 2009年のベストアニメというか、もし仮に2009年のアニメの中からひとつだけ見るべきものを選べと言われれば、僕は迷いなく、『エンドレスエイト』の名前を上げることだろう。『エンドレスエイト』は、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメのひとつのエピソードとして考えるべきではなく、独立したひとつの作品として捉えられるべきである。


 つまり、2009年のベストアニメは『エンドレスエイト』である。以上。


 これで記事を終えてもいいのだが、せっかくの機会なので、『エンドレスエイト』の重要性について、状況論的な観点から、少し書いてみることにしたい。『エンドレスエイト』の作品内容の分析については以前に書いたので、興味のある人をそれを参照してみてほしい。


エンドレスエイト」から立ち上がってくる倫理――平行世界の確率論的な倫理について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090903#1251960460


 『エンドレスエイト』は、単に2009年という一年間のアニメ状況においてではなく、ゼロ年代の終わりというアニメ状況、あるいは、サブカル状況の中で光り輝く作品である。そこで意味されていることとは、端的に、セカイ系的な想像力の終わりが印づけられている、ということである。


 2009年に話題になった劇場アニメとして、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』と『サマーウォーズ』があったわけだが、これら二つの作品は、セカイ系からの転向が印づけられていた作品だったと言える。セカイ系の始祖というふうに見なされている『エヴァンゲリオン』が、いったいどんなふうに新しい物語を展開させることになるのか。そういうところに少なからぬ注目が浴びせられていたわけだが、結果出てきたのは、ひきこもることよりも積極的に他人とコミュニケートしていくことを重視する碇シンジ君の姿であった。『サマーウォーズ』は、『時をかける少女』の次に細田守が作った作品ということに注目するならば、セカイ系的なループ展開が大家族主義へと失墜していってしまった姿をそこに認めることができる(あるいは、マイナーなアニメではなく、最初からメジャーなアニメを作らざるをえなくなったがために、物語的な変更を余儀なくされたところがある)。


 『ヱヴァ』の物語は今後も続くし、『サマーウォーズ』に関しても、大家族主義をベタに称揚しているとは思えないところもあるので、ただ単にセカイ系からコミュニケーション重視へ(「きみとぼく」という二者関係からある種の共同体の構築へ)、これらの作品が展開していったと言えないところもあるわけだが、しかし、これらの作品がもはやセカイ系ではないことは間違いない。そういう意味で、セカイ系からの転向という現象は間違いなく存在しているように思える。


 先日、新海誠の新作の情報が出てきたが、セカイ系作品の大作家と言える新海の次作はいったいどうなることだろう。『猫の集会』という1分間のアニメがあるが、これを見ると、新海もまた、『ヱヴァ』や『サマーウォーズ』と同様に、家族を重視した作品、あるいは、コミュニケーションを重視した作品を作るのではないかという予感がある。あるいは、冒険する少女が主人公という点では、ジブリっぽい作品が作られることになるかも知れない。つまり、新海誠もまた、セカイ系からの転向を表明するような作品を今後作ることになるかも知れないのだ。


 こうした状況にあって、Keyの一連のセカイ系作品をアニメ化してきた京都アニメーションは、今後どんなアニメを作っていくことになるだろうか。未来を予測する手掛かりという点では、『けいおん!』と『涼宮ハルヒの憂鬱』という、今年作られた二つのアニメ作品に注目すべきだろう。ある意味、『エンドレスエイト』の対極に位置づけられるべき作品が『けいおん!』だと言えるわけだが、2009年というゼロ年代の終わりに、『けいおん』と『エンドレスエイト』という二つの作品が出てきたことが僕は重要だと思っている。


 そもそも『涼宮ハルヒ』はセカイ系なのか。僕は『ハルヒ』については、セカイ系に対するメタな視点が入っている作品、つまり、メタ・セカイ系な作品だと思っている。メタな視点が入っているということは、対象として扱われているもの(ここではセカイ系)に対して距離が取れているということ、何らかの批評性があるということである。『涼宮ハルヒ』が備えている批評性が重要だと僕は思っているのだが、セカイ系に対して距離が取れているということとセカイ系からの転向というのは同義ではない。転向というのは単に立場を変えたということであって、そこに批評性は存在しない。つまり、セカイ系の乗り越えなどという自体はそこには存在しない。セカイ系の乗り越えというものがありうるとすれば、それはまさに、セカイ系の形式を内側から破るということによってしか可能でないのであり、そうした内部からの乗り越えを試みている作品が『涼宮ハルヒ』に他ならないと思うのである。


 そして、同種の路線で、『エンドレスエイト』は、セカイ系の形式を内部から突破したと思えるところがある。『エンドレスエイト』の最後でキョンハルヒを呼び止めるシーンは、「憂鬱」のエピソードの最後でキョンハルヒに「ポニーテール萌え」を告白するシーンと同じ意味を持っていると考えるべきである。そこで問題になっているのは、大きな物語の喪失(生の意味の希薄化)という事態をいかにして無意味な日常生活の再価値化へと軟着陸させるか、ということである。


 しかし、もちろん、「憂鬱」から『エンドレスエイト』への展開はある。『エンドレスエイト』というのは、むしろ、大きな物語への断念、あるいは、(大きな物語の喪失を代補する形で出てきた)セカイ系的な物語への断念が、日常生活への過剰な執着へと、強迫神経症的な繰り返しへと陥ってしまった事態をいかにして克服するかという新しい課題に直面している作品だとも言える。「憂鬱」で克服の対象だったものがセカイ系という名のパラノイア的な誇大妄想だったとすれば、『エンドレスエイト』で克服の対象になっているのは、日常生活への依存・嗜癖・中毒といったものである。


 セカイ系に対する解毒剤が日常生活の価値の再発見だったとすれば、そうした日常性への執着という新しい困難はどんなふうに解決されるのか。それは、やはり、日常生活の無意味さというものを再度強調することによってである。そうした無意味なものの価値は、『エンドレスエイト』においては、確率論という形で提示されていたと言える。ハルヒが日常生活への執着によって、ある種の無限の観念を提示していたとすれば、そうした無限のはらむ必然性に対抗するのは確率論的な偶然性である。つまり、日常生活がもたらすささやかな奇跡の瞬間というものは、日常生活を繰り返す中で必然的に生み出されるものではなく、偶然に生み出されるものなのだ(だからこそ日常生活の小さな断片に価値が宿る)という、そうした価値転換が目指されていたと言えるのである。


 こうした作品内容の話とは別に、『エンドレスエイト』はそれ自体が極めて批評的な作品であったと言える。それは、われわれの視聴環境を、われわれの消費スピードを動揺・攪乱させた。ほとんど同じ話を8回にわたって放送するというこの試みが狙ったのは、アニメを見るという行為そのものを批評の対象に据えるということである。京都アニメーションは、偶然にも、『涼宮ハルヒ』という作品によって、そうした視聴環境をも問題にするという批評性を獲得してしまった(YouTubeで配信されていた『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』の試みもその一環であるだろう)。これは、つまり、われわれがネット上でいつもやっている行為、アニメを見てその感想なり考察なりをブログやtwitterに書き、そうすることによってアニメを消費していくという行為そのものを疑問に付すことに繋がる。


 その昔、『エヴァンゲリオン』という作品は、アニメを見ている人たちに向かって、「アニメを見ていることが気持ちいいの?」というようなメタメッセージを発していたことがあったが、新『ヱヴァ』においては、アニメはひとつの快楽だ、というところに居直ってしまって、旧作品が持っていたような批評性を完全に喪失してしまったところがある。『エヴァ』が失った批評性を『ハルヒ』が回復させることになるのではないかという期待もあるのだが、そこまで断言するのはまだ早すぎる。来年に公開される『涼宮ハルヒの消失』が単に出来の良い作品に終わってしまう可能性もなくはないだろう。


 しかし、少なくとも、『エンドレスエイト』はそれ単独で極めて批評的な作品であった。『けいおん』の後に『エンドレスエイト』が作られたというのも重要な点である。つまり、京都アニメーションの内部にもひとつの緊張関係があるのだ。『けいおん』がセカイ系という名の悪い想像力に対する解毒剤として機能していたとすれば、『エンドレエイト』は日常系アニメに対する批評性を保持していたと言える(まさに、文字通り、終わりなき日常が描かれていたわけだから)。こうした緊張関係が今後も維持されるとすれば、京都アニメーションの未来は明るいかも知れないが、一方の軸であったセカイ系ゼロ年代の終わりに、まさに『エンドレスエイト』それ自身によって止めを刺されたとすれば、『けいおん』に対抗できるような何か新しい軸が必要になってくるのかも知れない。それが出てくることをひとまず『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズに期待しよう。そこで、セカイ系の先がどのように描かれるのかというのが大きな問題である。


 2010年代はいったいどのようなアニメ作品が作られることになるだろうか。悪いアニメが大量に作られるという予感は間違いなくある。悪いアニメというのは出来の悪いアニメというのではなく、良質であるがゆえに批評性を持たない、つまらないアニメということである。宮崎駿高畑勲がいなくなったジブリが悪いアニメを生産する場所になるという予感は間違いなくある。そして、そうした傾向性に、庵野秀明細田守新海誠といったアニメ作家たちが巻き込まれていってしまうという予感もある。


 2010年代に個人的に期待しているのは、Production I.Gの活躍である。I.Gは、今年間違いなく、ひとつの転機を迎えたのではないかと僕は思っている。『戦国BASARA』、『東のエデン』、『君に届け』という一連の作品の路線は、何か新しいアニメの可能性を予感させる(『攻殻機動隊』が代表していたようなジャパニメーション路線とは違った方向性が見出される)。これは、今年、GONZOがひとつの終焉を迎えたということと波長を共にしているところがあるように思える。そういう意味では、2010年代のアニメとして、まずは、京都アニメーションの『涼宮ハルヒの消失』と共に、I.Gの『文学少女』に期待したいところである。


 しかし、いずれにしても、アニメというのはもともとジャンクなものだったということを忘れるべきではないだろう。そういう意味では、アニメ作品のベストを語ることそれ自体が一種のアイロニーになってしまっているところがある。さらに言えば、アニメというジャンルそれ自体がマイナーなジャンルであるということも忘れるべきではないだろう。多くの人にとって、アニメというのは、依然として、『ヤマト』であり『ガンダム』であり『ナウシカ』なのではないのか。


 そういう意味で、今後期待されるべきなのは、良質な作品であるよりもむしろ、よりひどい作品、ジャンク性を帯びた作品である。こういう次元で、僕はやはり、深夜アニメに期待してしまうことがあるが、もはや深夜アニメのアングラ性などというものは存在しないかも知れない。深夜アニメがアニメの主流になってしまっているところがあるのかも知れない。


 アニメがどこでどんなふうに放送されるのかという点は重要である。もしかしたら2010年代はネット上で展開されるアニメというものが主流になるかも知れない。ネットの技術革新のスピードは非常に速いので、今後何が起こるのかまったく見通しがつかないのだが、そういう状況に対応するような、アニメ視聴の方法というものも出てくるのかも知れない。少なくとも、ブログにアニメの感想や考察を書くこともまた、ゼロ年代という時代性を帯びたものになるのではないかという予感がある。そういう時代性を帯びた試みとして、今回のように、みんなでアニメのベスト/ワーストを書くというのは悪くないかも知れないと思って、こんなふうに書いてみた次第である。