杉崎鍵のハーレム幻想――『生徒会の一存』のOPアニメについて

 アニメ『生徒会の一存』のオープニングを見ていてちょっと気になるところがあったので、それについて少しだけ書いておきたい。


 『生徒会の一存』のOPの最後のほうに、この作品のヒロインたちの姿が次々に変化するシーンがある。ヒロインたちの名前を上げれば、深夏から真冬へ、真冬から知弦へ、知弦からくりむへ、というふうに次々と変化していくシーンである。このシーンは非常に印象的であり、僕はこのオープニングの特にここの箇所が非常に素晴らしいと思った。


 いったい、なぜこのOPの、ここの部分がそんなにも素晴らしいのか。その点について、それをただ単にアニメーションの快楽とだけ言うのではなく、ちょっと無粋になるかも知れないが、あえて意味づけや解釈というものを付与してみたいと思ったのである。


 まず最初に思いついたのは、作品内容に対する否定的な解釈、つまり、この作品のキャラ萌え的なところ(あるいはキャラ萌え一般)に対する批判的な観点がこのシーンに立ち現われているのではないか、というものである。すなわち、この作品には四人のヒロインが出てくるが、これらのキャラクターが二次元のキャラクターであるという点に関して言えば、彼女たちの価値というものはすべて同等ではないのか、造形的にも似たり寄ったりであるし、他の作品にも似たようなキャラが出てくるのではないかという批判的な観点から、このシーンをヒロインたちの等価関係が描き出されているものとする、といった解釈である。


 しかし、こうした解釈はあまり面白くはないし、そもそも、これは外在的な意味づけだと言える。そうではなく、もっと内在的に、作品内容に即して、このシーンに意味を与えることができないだろうか。


 そこで注目されるべきなのは、ヒロインたちの変化のシーンの前に、杉崎鍵の目の中にカメラが入っていくショットがあることである。このショットが意味していること、それは、一連のヒロインの変化が杉崎鍵の目の中で、あるいは、脳内で起こっている、ということではないだろうか。


 だとするならば、ヒロインたちの間に何らかの等価関係があるとしても、それを作品内容のうちにしっかりと位置づけることができるだろう。つまり、この変身のシーンは、杉崎鍵のハーレム幻想の具体的なイメージであり、彼のハーレム幻想というものがどのような性質のものなのかということを端的に表現しているというふうに考えられるのである。


 杉崎鍵のハーレム幻想においては、四人のヒロインの価値は同じである。どちらが上でどちらが下かという優劣の差はそこには存在しない。そうした意味での等価性が、まさに、このオープニングでは、あのようなヒロインたちの変化として表現されているのではないだろうか。


 さらに注目すべきショットがある。それは、ヒロインたちの変化のシーンのあとに来るショット、誰かを見つめる杉崎のアップというショットである。ここには時間の経過がある。最初に杉崎の目の中にカメラが入っていくショットの時間帯は夜だったが、杉崎のハーレム幻想を通過したあとの時間帯は昼になっている(青空が映っている)。いったい、どれだけの時間がここで経過しているのかは分からないが、この時間の経過が意味しているのは、杉崎が誰かと出会い、その誰かとカップルになるというギャルゲー的な展開ではないだろうか。


 なぜ、そう言えるのか。それは、杉崎が間違いなく誰かを見つめているからである(最初の夜のショットでも杉崎は誰かの視線に気がついて、その誰かを見つめ返す)。そして、誰かを見つめるショットの間に四人のヒロインの変化のシーンがあるわけだから、ここで見つめられている人物は、四人のヒロインのうちの誰かだと考えるのが自然である。


 さらに言えば、このオープニングで、杉崎がヒロインたちと一緒にいる場面は三箇所しかない。ひとつ目は生徒会の部屋の奥のほうで脱力している杉崎らしき白い人物がいるカット。ふたつ目は真冬から攻撃を受けて杉崎が炎に包まれているカット。三つ目は記念撮影の写真のキャプションで杉崎が幽霊扱いされているカットである。この三つを例外とすれば、このオープニングでは、杉崎とヒロインたちとはそもそも関係していない。つまり、このオープニングは、杉崎がヒロインたちの誰かと深く関係するようになるという予感だけが仄めかされたギャルゲー的なオープニングだと言えないだろうか。


 こうした地点から翻って、杉崎のハーレム幻想について、四人のヒロインが次々と変化するシーンについて考えてみれば、ここに複数の女性がいるというふうに考えるのは間違っていることだろう。杉崎を見つめる女性、杉崎から見つめられる女性はただひとりである。そのただひとりの女性がここで描かれているというふうに考えるべきである。


 だが、ただひとりの女性との関係だけがあるとすれば、それは、「ハーレム」という言葉と矛盾するのではないだろうか。いや、ハーレムとはそのようなものではない、ハーレムにおいてもただひとりの女性だけが問題なのだ、というのが、おそらくは杉崎の考えなのだろう。杉崎を見つめ、杉崎から見つめ返される女性はただひとりであるが、四人のヒロインの誰もがこの唯一の場所にやってくる。これこそがまさに真の「ハーレムエンド」の意味することではないだろうか。


 結局のところ、ヒロインたちの変身シーンが素晴らしいのは、ギャルゲー的な選択の問題が、複数性(この女性たちのうち誰を選ぶのか)としてではなく、唯一性(選ばれるのはこの女性)として提示されているからである。ギャルゲー的に言えば、四人のヒロインのうちの誰かが選ばれなくてはならず、杉崎から見られることになる女性はただひとりである。そこでの四人の関係は並列的である(誰もが選ばれる可能性がある)。しかし、選ばれるのは、常にひとりの女性だけである。


 四人のうちの誰もが唯一の女性である。この矛盾を一挙に解決してくれるのが杉崎のハーレム幻想なのであり、この幻想においては、四人のヒロインは並列の関係に置かれているわけではない。そこに等価関係があるとしても、それは、彼女たちの誰もが唯一の女性であるという意味で等価なのだ。


 つまるところ、『生徒会の一存』のオープニングのこの箇所に見出すことができるのは二つの圧縮である。ひとつは、四人の女性をひとりの女性として描き出すというキャラの圧縮であり、もうひとつは、出会いからカップル成立までの過程をハーレム幻想のうちに封じ込めるという時間の圧縮である。こうした充実した表現が見出されるという点で、『生徒会の一存』のOPは実に素晴らしいと思ったわけである。

『乃木坂春香の秘密』におけるキャラの問題――お嬢様でもありドジっ娘でもある

 僕は、このブログで、これまで主として物語という観点からアニメ作品を問題にしてきた。しかし、当然のことながら、物語という観点からだけで、アニメ作品について語るのは不十分であるし、物語という観点だけからアニメを見ていると、ある種の空疎さにぶつかることがある。それは、つまり、非常に多くの作品が、ある種の類型に基づいて物語を展開していて、そこには、物語上の複雑さ(あるいは物語展開上の強度)というものを見出すことが難しいからだ。


 そもそも、現在のサブカルチャーにおいて、物語の衰退と同時並行的に、それを代補する形で、(萌え)キャラによる作品強度の獲得という方向性が浮上してきたのではなかったか。こういう文脈においては、現在のアニメ作品を問題にするにあたっても、物語を問題にするよりは、キャラを問題にしたほうがラディカルかつアクチュアルなのではないか、と思うところがある。また、物語を問題にするにあたっても、いったいどのようなキャラがどのような役割を作品内で果たしているのかというところに注目しないと、不十分なところがあるのではないかと思う。


 こういう問題意識に基づいて、『乃木坂春香の秘密』のアニメについてちょっと問題にしてみたいと思っているのだが、なぜ『乃木坂』なのかと言えば、まさにこの作品は、物語構成の水準で、キャラの問題を扱っているように思われるからである。少なくとも、そのようなキャラの問題からこの作品を見ていくと、いろいろな発見があるのではないかと思ったのである(逆に言えば、物語の水準だけからこの作品を問題にしていくと、ある種の空しさにぶち当たるわけである)。


 そもそも、この作品は、いったいどのような作品だと言えるのだろうか。その点について考えることが最も難しいことである。Wikipediaの「あらすじ」の項目には次のように書いてある。

私立白城学園(はくじょうがくえん)高校に通う綾瀬裕人のクラスメイトである乃木坂春香は容姿端麗・才色兼備な深窓の令嬢であり、「白銀の星屑(ニュイ・エトワーレ)」・「鍵盤上の姫君(ルミエール・ドゥ・クラヴィエ)」など、数多くの美称を持つ学園のアイドルである。だがある日、裕人が親友の朝倉信長の代わりに図書室に本を返却しに行った際に彼女の秘密(アキバ系であること)を知ってしまい、それがきっかけで裕人と春香の「秘密」の関係が始まる。
乃木坂春香の秘密 - Wikipedia

 この作品において最も重要なモチーフとなっているのが、オタク趣味、作品では「アキバ系」というふうに穏やかな表現で名指されている趣味である。「容姿端麗・才色兼備な深窓の令嬢」である乃木坂春香の秘密というのが、彼女がアキバ系の趣味を持っているということであり、その秘密を主人公の綾瀬裕人が知ってしまうということから物語は始まる。


 素朴な次元から問いを発してみよう。いったいなぜオタク趣味を持っていることが「秘密」になるのか。作品の中で与えられている説明とは、オタク趣味を持っている人は世の中の多くの人(つまりは一般人)から白眼視されるから、というものである。さらに言えば、春香は中学生のときに自分の趣味がクラスメイトにばれてしまって、みんなから冷たい目で見られたという辛い過去を持っている。こうした理由があるために、春香は自分の趣味を秘密にせざるをえない。


 しかし、物語構造の側面から言えば、こうした説明はほとんど方便にすぎないことだろう。つまり、まず、『乃木坂』の作品においては、自分のオタク趣味を前面に出すことにためらわない人たちもいる(朝倉信長を始めとした裕人の友人たちがそうである)。さらには、春香の趣味というのは、それほど周囲の人たちから気持ち悪く思われるようなものなのかという疑問もある。彼女は、いわゆる腐女子のような女性オタクではない。女性向け同人誌を見て卒倒するような人物である(つまり性的にピュアである)。もっと言えば、春香のオタク的な愛着は、男性キャラクターに向かうことはない。彼女が好きなキャラクターとは、『ドジっ娘アキちゃん』の主人公のアキちゃんであり、そのアキちゃんのかわいいところに惹かれているところがある。このようなレベルの趣味が、果たして、多くの人から白眼視されるような理由になるのだろうか(「子供っぽい」とか「幼い」というふうには思われるかも知れないが)。


 そもそも、この『ドジっ娘アキちゃん』というのはどのような作品なのだろうか。この作中作についての情報は極めて少ないが、おそらく、魔法少女作品のようなもともとは女子向けに作られた作品を男性オタク向けの萌え作品にアレンジした作品なのだろう(良い例が思いつかないが、例えば『魔法少女リリカルなのは』のような作品。『アキちゃん』がもし単純に女子向けなら、深夜にアニメをやっている理由が分からない)。もともとは、女子向けに作られた作品を男性が享受するという、そうした倒錯した消費行動は、それなりに昔からあっただろうが、『ドジっ娘アキちゃん』は、間違いなく、最初から男性オタクを対象にした萌え作品のように思われる。


 だとするのなら、そうした男性向けの作品を春香が好んだというのは非常に重要ではないだろうか。つまり、春香のオタク趣味は、一部の女子がジャンプ系の作品のうちにホモセクシャルな関係性を読み取るような、そうした作品享受を行なっていない。むしろ、春香は、素朴なレベルで、『ドジっ娘アキちゃん』を享受している。言うなれば、この作品の原型がそうであったような女性向け作品として、つまり、ある種の同一化モデルとして、この作品を享受しているところがある。つまり、春香の欲望とは、アニメやマンガのキャラになりたいという、そのようなレベルで立ち上がっているところがあるように思えるのだ。


 そして、もしこのような読解が正しいとすれば、この作品の物語構成も大きく変わってこざるをえない。つまり、この作品は、ただ単に、裕人が春香と秘密を共有することによって、その秘密の関係が次第に恋愛関係へと発展していくという、そうした物語なのではなく、春香のうちに見出されたキャラ的な要素に裕人が強く惹かれて、だんだんと萌えに目覚めていくという、男性オタクの心理過程を描いた作品というふうに言うことができるのではないか。


 ここで綾瀬裕人のキャラ設定が非常に重要になってくる。まず、裕人自身はオタクではない。彼の友人たちがほとんどみんなオタクであるにも関わらず、彼だけはオタクではない。ここにひとつ何か不自然なところがある。つまり、裕人のうちにも何かオタク的な本性が密かに目覚めているところがあるのではないか、と推測してみたくなる要因があるのだ。


 それはともかく、作品の設定上は、オタクではない裕人が春香のオタク趣味を理解してくれるという、そうした関係性がここにはある。つまり、裕人が春香にとって特別な存在でいられるのは、春香の欠点(とされているもの)を受け入れてくれる優しさ(ハーレムアニメの男性主人公にとって不可欠な特徴)が彼にはあるからだ。


 だが、裕人には、こうした優しさという特徴だけではなく、もっと不穏な(つまり物語展開においては見逃すことのできない)性格特徴もある。それは、彼が女性嫌いだ、という特徴である。アニメの第1話で彼は、女性については「諦めている」という意味深長な発言をする。これは、自分が今後、女性を好きになることはないだろう、女性に魅力を感じることはないだろう、という意味の発言である。このような諦念を裕人に抱かせたのは、彼の姉の存在が非常に大きいだろう。裕人たちの両親は健在のようだが、作品の中でその存在が描かれることはない。むしろ、両親はほとんど存在しないも同然であり、裕人にとって親代わりの存在になっているのが姉のルコである。


 裕人を女性嫌いにさせたのは、姉のルコだけではなく、ルコの友人である上代由香里(裕人の学校の先生でもある)の存在も大きいことだろう。この二人の女性は、作品の中では、極めてセクシャルな存在(肉感的な存在)として描かれている。しかし、一方では肉体的に極めて女性的な存在であるにも関わらず、他方においては彼女たちのうちに何か男性的な特徴が見出される(深夜まで酒を飲んで騒いでいることがそうであるし、ルコのほうは造形のレベルで男性的に描かれているところがある)。両親の不在と裕人の女性嫌いとを結びつけて考えるのなら、父でもあり母でもあるこの二人の女性によって喚起されるのは性的なものの攪乱であり(ルコと由香里との関係性のうちに同性愛的なものを認めることも可能だろう)、おそらく、女性的な肉体に接近することが裕人にとって最も嫌悪感を抱かせることではないかと想像されるのだ。


 そんなふうに女性を嫌悪しているとすれば、なぜ裕人は春香を好きになることができたのか。ここが大きな問題である。裕人の女性嫌悪は、女性的な見かけの先にある女性の実相に向かっている。だとすれば、知り合って間もない女性の裏面がどんなものであるのか分かったものではないというふうに、なぜ裕人は思うことができなかったのだろうか。


 ここで重要になってくるのが春香のキャラクター性とでも言うべきものである。春香の見かけ、その表面に立ち現われているもの、みんなに見せている春香の姿は「才色兼備な深窓の令嬢」といったものである。これが見かけにすぎないということは裕人もよく分かっていることである。では、その見かけの裏面には何があったのか。お嬢様の見かけの裏に隠されていたもの、それは、裕人が嫌悪するような肉感的な女性性(あるいは男性的な何か)ではなく、春香のキャラクター性といったものではなかっただろうか。つまり、お嬢様の背後にあったのは、「ドジっ娘」というキャラクター性ではなかったのか。春香がドジっ娘だったということ、これがまさしく、「乃木坂春香の秘密」に他ならないと思うわけである。


 『乃木坂春香』という作品それ自体がキャラクター作品なので紛らわしいが、春香がみんなに隠していたのは、自分がドジっ娘であるという、そのキャラクター性だったと思われる。そして、裕人が惹かれたのはこうしたキャラクター性だったのではないだろうか。キャラクターには表も裏もない。裏があるキャラは、例えば「腹黒キャラ」という、これまたひとつのキャラ類型にすぎない。言い換えれば、キャラクターには見かけしか存在しない。キャラクターに内面や内実といったものは存在しない。まさに、こうした表面だけしかない存在に、ある種の平面性(二次元という言葉が意味するもの)に、裕人は強く惹かれたのではないだろうか。そして、もしそうだとするのなら、裕人をオタクと呼ぶことに何の障害もないことだろう。


 さらに言えば、春香が同一化したキャラクターは、アキちゃんという幼女キャラである。つまり、アキちゃんは、姉のルコや由香里先生が体現していたような肉感的な女性とは対極に位置するような、性的ではない女性キャラクターなのである。こうした幼女キャラに春香が同一化していたからこそ、裕人は春香に近づくことができたのではないだろうか。春香の性格特徴に関連する言葉として、「ピュア」とか「イノセント」という言葉が出てくるが、こうした言葉が向かっている先は、単純に少女性というだけである。つまるところ、裕人が春香のうちに見出したのは、幼女キャラが体現するような可愛さ、萌えだったのではないだろうか。


 アニメの第1話のクライマックスとは、春香がドジっ娘アキちゃんの極めポーズ(スカートを持ち上げるポーズ)で挨拶するシーンである。これは、作品の冒頭に出てくる実際のアキちゃんのポーズとリンクしている。春香は実際にもお嬢様であるが、しかし、スカートを少し持ち上げるこのポーズは、アキちゃんというキャラが行なうポーズである。


 ここから翻って考えてみるのなら、春香はまさしくお嬢様キャラに他ならないし、彼女の豪邸やメイド隊などというものは、マンガ・アニメ的なキャラ設定に他ならない。つまり、乃木坂春香はひとりのキャラであるというあまりにも自明な事実を、作品内において相対化しているのが、この『乃木坂春香の秘密』という作品の興味深いところである。一見お嬢様キャラだと思われた乃木坂春香が実はドジっ娘キャラであった。こうしたキャラ操作を物語の展開に上手く組み込んでいるところが、この作品の非常に面白いところではないだろうか。『乃木坂春香』は一見すると、非常にベタなラブコメ作品のように思えるが、実のところ、そこには萌えキャラに対するメタな視点が織り込まれている、ということである。

11月の前半に見たアニメの感想

 ちょうど一ヶ月くらい前からtwitterを始めたわけだが、twitterにはライフログ的な機能もあるので、その記録を見ながら、ここ一ヶ月くらいに見たアニメの感想を、取り留めもなくダラダラと書いてみたい。


 押井守の劇場版『パトレイバー』の1と2を見てみた。1は以前に見たことがあったが、2は今回が初めて。同時に『攻殻機動隊』も見返してみたのだが、見直してみて、神山健治押井守の問題意識を、ある意味、極めて正統的に引き受けているのではないかと思った。例えば、『パトレイバー2』で提示されていた、東京を戦後の焼け野原に戻すという発想は、『東のエデン』のミサイル攻撃という形で引き継がれているのではないだろうか。
 こういう文脈で言えば、『東のエデン』においては、押井が『スカイクロラ』で提出した問いにいかにして答えるのかということが課題になっているのではないか。押井の問題は、大きな物語の崩壊、巨大な敵の喪失、終わりなき日常をいかに生きるか、といったことにあると思うが、同種の問題をいったいどのように『東のエデン』は解決するのだろうか。
 『スカイクロラ』の解決とは、言ってみれば、巨大な敵などいないと分かっていても、あたかもその敵がいるかのように行動するというその不毛さを自覚することによって辛うじて退屈な日常生活を回避するという、アイロニカルな諦念に満ちた戦略だったと言える。こうした戦略に対して、おそらく、神山はもっとベタなものを提示しようとしているように思う。それは、言ってみれば、主人公の滝沢朗に体現されているような楽観と行動力であり、そうした幼児のような天然の行為が可能となるのは、まさに彼が以前の記憶を忘却したからであるだろう。これは、つまり、『もののけ姫』で問題になっていたような「馬鹿になること(奇跡を起こすために欠かせない条件)」が今日可能となるためには、忘却という名の暴力的な切断が必要だ、ということなのかも知れない。
 果たして、以上のような方向性がどのような帰結をもたらすのか。そうしたところが今度の劇場版の注目点だと僕は思っている(ちなみに、今のところ、僕はまだ劇場版を見ていない)。


 今クールのアニメは全然消化できていない。その代わり、前クールのアニメをいろいろと消化している。
 GONZOの最新作である、『シャングリ・ラ』、『アラド戦記』、『咲』は全部見てみた。GONZOゼロ年代において重要な役割を果たしたアニメ制作会社だったというのは間違いないだろうが、そのアニメ制作会社が現在衰退しているということは、いろいろなことを考えさせられる。つまり、GONZOの作品にはゼロ年代アニメの問題が集約されているところがあるのではないか。


 『バスカッシュ』のアニメも見終わる。『バスカッシュ』も『シャングリ・ラ』もそれなりに大きな話を展開しようとした作品だと言えるが、今日においては、大きな話を展開しようと思えば思うほど、物語が上手く機能しないという、そのような困難があるように思える。
 『バスカッシュ』も『シャングリ・ラ』も、小さな人間関係を出発点にしながら、それを社会政治的なレベルの問題(とりわけ「上流/下流」といった階層の問題)、そして、そこからさらに話を大きくして、神話的なレベルの問題にまで話を発展させている。つまるところ、ここで問題になっているのは、神話の再現であり、新たな英雄の誕生である。こうした次元での物語の展開(旧来のアニメ作品においては定番だった物語展開)が、今日、大きな壁にぶちあたっているのではないだろうか。
 『アラド戦記』も、ある意味、大きな物語を展開している作品だと言えるが、しかし、この作品は、ファンタジー世界を舞台にしているという点で、ある種の括弧づけがなされていると言える。つまり、ゲーム作品という土台においてのみ可能となるような物語の定型を踏襲しているところがある。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』といったRPG作品において展開されていた物語は、旧来からあった物語のパッチワークによって出来上がっていたところがあったが、それでもなおかつ大きな物語が可能となっていたのは、まさにゲームをプレイするという水準が入り込んでいたからではないのか。
 さらに言えば、『アラド戦記』において重視されていることも、大きな物語であるよりは、小さな無数の物語であることだろう。数年前に『マスター・オブ・エピック』というアニメがあったが、この作品は、そもそも物語を展開することすら諦めて、『らき☆すた』的な日常の断片を断片のまま展開していた。僕はMMORPGをプレイしたことはないが、MMORPGにおいて重要なのは物語ではなく、別世界の日常なのではないのか。冒険と日常が対立するわけではなく、冒険という名のもうひとつの日常が存在するのではないのか。こうした文脈において、現代のファンタジー作品の主流も、もはや日常系なのではないかと思ってしまうところがある。


 結局のところ、GONZOの可能性は、『ストライクウィッチーズ』から『咲』に到る流れにあったように思うのだが、この方向性がどのような意味を持つのか、僕にはまだ十分によく分からないところがある(萌えの方向性というふうに言うのは簡単だが)。
 『咲』はマンガのほうも読んでみたが、やはり、その風景に対するこだわりには注目せざるをえない。『咲』の風景はパノラマ写真の風景ではないかと思ったのだが、それがどういう意味を持っているのかということはよく分からない。何か平面的なものに対するこだわりがそこにはあるように思う。


 ひとまずこんなところで、続きはまた今度。

歌うことと闘うこと――『マクロスF』に見出される女性的な立場と男性的な立場

 現在『マクロスF』の劇場版が公開されているわけだが、僕も今度この作品を見に行く予定なので、その予習を兼ねる形で、この作品についてちょっと書いてみたい。いったいこの作品でどのようなことが問題になっていたのかということを自分なりの視点で少しまとめてみたいと思ったのだ。


 『マクロスF』を物語的な観点から見ていったときに注目されるべきなのは、メインとなる三人の登場人物、つまり、アルト、シェリル、ランカという三人の登場人物の関係性である。これら三人の登場人物の関係を恋愛における三角関係として提示するのがオーソドックスな見方であるだろうが、そのようなありきたりの見方を踏襲しても面白くないので、ここでは、あえて別の観点を提出してみたいと思っている。それは、すなわち、これら三人の登場人物を男性と女性とで分けて、男性と女性を対立させるという観点、つまり、アルトをシェリルやランカと対立させるという観点である。


 まず注目したいのがこの作品の主人公だと言えるアルトである。アルトは、この作品の主人公であるにも関わらず、いまひとつぱっとしない。彼よりはむしろ、二人の女性のほうが目立つように思われるのだが、その理由は、簡単に言ってしまえば、彼女たちが歌姫あるいはアイドルだからであるだろう。しかし、このような設定自体が、この作品においては大きな意味を持っているのではないかというのが僕の見方である。このことについては後で問題にすることにして、まずは、アルトがこの作品においてどのような位置を占めているのかということについて考えてみたい。


 そもそも、アルトは、作品の中で、女性的なポジションに据え置かれている。アルトの家は歌舞伎の名門であり、彼は、小さいときに、女形として活躍していた。しかし、彼は、そんなふうに周囲から期待されていた道を逸脱することになる。ここには父との関係、父との確執の問題があるわけだが、この確執において焦点となっているのが彼の女性的な立場であるだろう。ここでの「女性的」という言葉の意味は二重である。ひとつは、彼の容貌が美しいということ、つまり、女形に相応しいということであるが、もうひとつは、父親との関係において、従属的な立場に据え置かれているということである。


 こうした状態にあるがゆえに、アルトは、いかにしてこのような女性的な立場を克服し、男性的な承認を獲得するのかという問題を抱えた人物として登場してくることになる。そして、そのときに、彼にとってひとつの脱出口に見えたものが空を飛ぶことなのである。ここにおいて、空を飛ぶことにも二重の意味があることが理解されるだろう。すなわち、空を飛ぶというのは、歌舞伎の女形という女性的な活動から、スリルと危険に満ちた飛行機乗りという男性的な活動へと移行すること、さらには、父親の勢力圏から大きく羽ばたいて自由になることを意味しているのである(同種の悩みは、『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユにも見出すことができる。彼の場合においては、女性的な名前を持つことが大きな問題になっていた。そして、父親の圏内から脱出するために、彼は、ガンダムで宇宙空間に旅立つことになった)。


 だが、しかし、空を飛んだとしても、アルトの悩みはなかなか解消しなかったことだろう。友人たちがつけたアルトの綽名は「アルト姫」であるし、ランカとの最初の出会いにおいても、ランカはアルトを女性と間違える。さらに言えば、アルトにとって、宇宙船の中に作り出された人工的な空は、自由に飛ぶことを許さない「低い空」である。こんなふうに自由に飛ぶことができない状態にあったアルトにひとつの解決を与えることになったのが、戦争という事態である。平和な日常生活が突如として打ち破られて、アルトは戦闘機乗りになる。大切な女性を守る男性というポジションを獲得することで、アルトは、男性的な承認を獲得する機会を得ることができたのである。


 だが、『マクロスF』の物語を以上のようにまとめることは決してできない。というのは、この作品においては、戦闘機に乗って敵と闘うアルトの存在と同等かそれ以上に、シェリルやランカの存在が大きな意味を持っているからである。物語の進展上は、アルト、シェリル、ランカというそれぞれのキャラクターは、お互いを助け合うような相補的な関係を構築していくわけだが、物語全体から見るのならば、女性を守るために戦闘機に乗って敵と闘うという男性的な物語が上手く機能しているとは言いがたい。むしろ、この作品は、歌う女性たちの存在が闘う男性よりも前面に押し出されている作品というふうに捉えたくなる。まさに、この地点において、男性的な立場と女性的な立場とが対立しているように思うのだ。


 そもそも、まず、アルトは大空を飛びたい、あらゆる束縛から自由になりたいという望みを持っていたが、彼よりも先に、もっと高く空を飛んでいた人物がシェリルだったと言える。ここにひとつの対立関係を描き出すことができる。アルトが、「低い空」の下、父との確執などという小さな世界の中でもがき続けて、思うように空を飛ぶことができないでいるのに対して、シェリルのほうは、非常にやすやすと、銀河という名の大空を飛んでいるように見えるところがある。だとするならば、女性的なポジションに据え置かれているアルトにとっては、大空を駆け巡るシェリルの存在は、まさしく、十全な承認を獲得した理想的な男性に見えたのではないだろうか。


 ここに立ち現われるのは、アイドル歌手と一介のパイロットという、初代『マクロス』に見出された不釣合いな関係である。初代『マクロス』において、一条輝とミンメイは、ミンメイが普通の女の子だったときにはそれなりに似合いのカップルだったかも知れないが、彼女がアイドル歌手として大きく羽ばたくことになると、その関係が不釣合いなものとなる。そして、輝は自分が単なるひとりのパイロットにすぎないことを自覚することになる(三角関係が前面に立ち上がるのは劇場版においてであり、テレビ版においては輝の片想いだけが強調されている)。


 アルトとシェリルの間にも同種の不釣合いな関係が見出せるのであり、この二人の関係を対立関係と呼ぶこともできるだろう。こうした対立関係が解消されて、ある種の安定がもたらされることになるのは、シェリルが病気とスランプを抱え込み、自由に飛び回ることができなくなる時点においてである。ここにおいて、アルトは、弱い女性を守るという男性的な役割を獲得することができるが、しかし、再びシェリルが歌姫としてカムバックしたときには、アルトの立場は動揺してしまうことだろう(作品内においてこの動揺がはっきりと描かれているとは言いがたいが)。


 ここでちょっと視点をずらして、歌うことそれ自体を問題としてみることにしたい。『マクロス』においては、ある種、歌うことと戦闘することとが並置されているところがある。例えば、アルトが戦闘機に乗って敵と闘っているシーンで、シェリルやランカの歌が流れるという場面がいくつかある。こうしたシーンに関して、歌は戦闘を補助するものとして機能している、というふうに言うことはできるだろう。スポーツにおける応援のように、闘っている人たちを激励するために歌がある、ということは言えるだろう。


 だが、このような歌と戦闘との相補的な関係、さらには、戦闘がメインで歌がサブという関係性にではなく、歌と戦闘との対立的な側面にもっと注意を向ける必要があるだろう。そもそも、『マクロス』において、歌の存在が人々の戦闘意欲を萎えさせることにあったとするならば、戦闘民族のゼントラーディたちが忘れていた「文化」というものが歌に体現されていたとするならば、歌の存在は、端的に戦闘の停止を意味しているのではないだろうか。このことは、歌が戦争の反対、平和を象徴するものであるということではなく、歌それ自体のうちに何か過剰なものが潜んでいるということである。戦闘という過剰が一方にあるとするならば、他方に存在するのも歌という別の過剰なのである。


 それゆえに、歌はそれだけで自律している運動体と捉えるべきである。歌はそれだけでひとつの強度を保持している。ある意味、『マクロス』というのは、こうした歌の強度を巡る物語だと言えるかも知れないが、まさに、ここに、アルトの進路を阻む大きな壁がある。つまり、アルトが何か強度のあるものを求めて戦闘機乗りになったとしても、そんなふうに戦闘行為のうちで獲得される享楽を台無しにしてしまうような、さらなる過剰がすぐ隣に存在するのだ。


 戦闘行為に見出される享楽の問題。この問題は、『スカイクロラ』において、退屈な日常生活に刺激を求めるために永遠に闘い続けるという設定の下、皮肉な形で描かれたが、こうした『スカイクロラ』の問題がそっくりそのまま『マクロスF』にも見出すことができると言える。戦闘においては生と死の境界線が問題となる。それは、つまり、不安定なロープの上を綱渡りしていくことである。そのようなロープの上をいったいどこまで渡っていくことができるのか、あるいは、どこまででも渡っていきたいというのがアルトの望む方向性だとすれば、ランカやシェリルが体現している歌の方向性は、それとは別の仕方で、ある種の過剰さを醸成していくことだと言える。


 こんなふうに考えると、『マクロス』という枠組みの中では、『マクロス』というゲームのうちにあっては、戦闘機乗りはどうしても歌姫に負けざるをえない。つまり、アルトは、彼が最初に直面したシェリルの壁をどうしても突き抜けることができないのである。戦争はいつかは終わる。戦争が終われば、戦闘機乗りは日常に回帰せざるをえない。そうした意味で言えば、戦闘と歌との対比は、非日常と日常との対比だと言えるだろう。日常生活においても歌は残り続けるのであり、劇場版『マクロス』の「愛・おぼえていますか」の歌のように、時間や空間を飛び越えて、限りなく伝播し続けるのである。


 それでは、アルトには、いったいどのような出口があるというのか。おそらく、もっとも有効な解決方法は、アルトもまた、ランカやシェリルと一緒になって、歌うことだろう。場合によっては女装をして(その女性的な立場を引き受けて)歌うことだろう。この点は、僕がこのブログで何度も強調したことであるが、男性的な尊厳を回復させるために非日常的な設定を持ち出してくることには限界がある。大きな物語を捏造することには限界がある。それゆえに、今日問われるべきなのは、日常生活のうちに、いったいどのようにして有効な出口を築き上げるのか、ということである。


 『マクロス』という作品の偉大さがあったとすれば、それは、全面戦争という究極的な出来事の解決として、歌という非常にささやかなものを持ち出してきたことにあるだろう。そして、重要なのは、歌というのがそれほどささやかなものではなく、戦闘以上の過剰さを抱え込んだ厄介な代物だった、ということである。


 以上は、非常に単純な枠組みのうちで『マクロスF』を見た視点なので、物語の細部に関していろいろと見落としがあるだろうが、ひとまず、このような観点から今度の劇場版も見てみたいと思っている次第である。その他にも『マクロスF』に関しては興味深い論点がいくつもありそうなので、余裕があれば、今度それを書いてみたい。おそらく劇場版の感想という形になるだろうが。

ちょっとした近況

 来月の頭に知り合いのIさんと、「電撃文庫で振り返るゼロ年代」と題して、ゼロ年代サブカルチャーについて話し合う機会を設けたので、現在その準備をしているところ。
 「電撃文庫で振り返る」と言っても、僕はラノベそれ自体はほとんど読んでいないので、電撃文庫でアニメ化された作品を中心に何かを語りたいと思っている。
 これまでに見ていなかった電撃作品のアニメを消化しようと思っているのだが、今のところ、『乃木坂春香の秘密』を少し見たぐらいである。次は『ブギーポップ』でも見てみるか。


 新作アニメはやはりほとんど見ていない。ちゃんと見ているのは『サンレッド』ぐらいだろうか。
 個人的には、今期は、『DARKER THAN BLACK』と『White Album』、それぞれの二期があるのが気になっているのだが、まだ見ていない。いずれまとめて見る予定。
 これら二つは、僕の中では、(ゼロ年代の重要な心性だと言える)諦念の問題を描いている作品だと思っている。ちなみに、僕が思う、諦念アニメの最高傑作は『GUNSLINGER GIRL』である。
 『White Album』は分割二クールだから、二期があるのは当然として、『DARKER THAN BLACK』に二期があったことは単純な驚きだった。一期目が完成度の高い完結した作品だったので、いったいどんなふうに続編を作っているのかが非常に気になる。「気になるなら、さっさと見ればいいじゃないか」という話なのだが、アニメに対する情熱がまだまだ回復していないので、それなりに回復したら、まとめて見てみたいと思っている。


 そもそも前期のアニメを消化しているところ。今見ているのは『東京マグニチュード8.0』。これはなかなかキツイ感じのアニメなので面白く見ている。
 そう言えば、今期のノイタミナ枠の『空中ブランコ』は、第1話だけ見た。監督の中村健治については、『モノノ怪』が非常に良かったので次回作に期待していたけど、より変な方向に展開していったなという感じで、僕は単純に面白いと思っている。『空中ブランコ』は、何というか、非常にアクの強いアニメだけど、こういう実験的な作品は当然あってしかるべきだろう。これも、いずれ、まとめて見てみたい。


 しかし、個人的には、新作のアニメを見るのをやめて、昔のアニメをいろいろと見てみたいという思いも強くある。僕にとって、80年代後期から90年代の初期は、純粋に楽しんでアニメを見ていた時期にあたるので、このあたりの時期の作品をじっくりと見返してみたいという思いが強くある。まあ、単なるノスタルジーなわけだけど、一度こんなふうに後退しないと、何かが前進することはないかも知れない。

人間関係を斜めから見る猫の視点――アニメ『にゃんこい!』について(その2)

 『にゃんこい!』のアニメを見ながら考えたことをちょっと書いてみたい。


 ちょっと前に、僕は、この作品について、猫たちのネットワークは人間たちのネットワークの外部に位置するものではないかというようなことを書いたが、よくよく考えてみると、これほどまでに、街の至るところに、猫たちが存在しているのは、まさに人間たちがそこにいるから(人間と猫が共存しているから)に他ならない、ということに思い至った。つまり、猫たちのネットワークは、人間の世界の外部に位置する自然のネットワークではなく、人間たちのネットワークの一部を構成しているのではないか、ということである。


 あるいは、こんなふうに言えるかも知れない。猫たちが実際に言葉を交わして巨大なネットワークを構築しているようにはとても思えない。それにも関わらず、「猫の集会」のように、猫たちが独特のネットワークを形成しているように想像されるのは、そこに人間関係のネットワークの一部が投影されているからである。ざっくばらんに言ってしまえば、人間には表の顔と裏の顔とがあり、猫はその人間の裏の顔を知っている存在として想定されているのではないか、ということである(飼い猫に誰にも言えない自分の秘密を打ち明ける人もいることだろう)。つまるところ、猫たちのネットワークを辿っていくことは、人間の裏の顔にアクセスすることができる通路になっているのではないか、ということである。


 こんなふうに考えると、『にゃんこい』という作品が目指そうとしている方向性をそれなりに理解することができる。つまり、『にゃんこい』が描き出そうと狙っているのはあくまでも人間関係であり、言うなれば、人間関係を斜めから描き出そうというのがこの作品の方向性ではないのか、と思うのだ。


 なぜ人間関係を斜めから描き出そうとするのか。それは、おそらく、この作品が、人間関係の豊かさ、人間関係のはらむ豊かな可能性のようなものを再発見しようとしているからである。ここで打破されることが目指されているのは、人間関係を固定したものとして捉える視点、あるいは、人間関係のネットワークの結節点となっている個々人の人格の固定化である。


 猫たちのネットワークを持ち出してくることによって明らかになるのは、人間たちが明確には意識していない、人間関係の別の可能性である。言うなれば、猫たちは、人間たちが見ていないものを繋ぎ合わせることができるがゆえに、当事者以上に人間関係のことを理解している可能性があるのだ。


 第2話のエピソードにおいては、ヤマンバのメイクをしている住吉加奈子の顔という形で、まさしく、表の顔と裏の顔との分裂が問題になっている。ここで焦点となっているのは、加奈子と(主人公の)高坂潤平との関係性であるのだが、この関係性に変化がもたらされるのは、まさしくそこに猫の視点が介入するからである。猫の視点からすると、加奈子の顔には分裂が生じない。猫にとっては、ヤマンバのメイクという、ある意味、顔の消失という事態は生じない。これは、つまり、顔が問題になるのはあくまでも人間同士の間だけだということだろうが、このような猫の視点を通過することによって、潤平は、忘れていた加奈子のもうひとつの顔を思い出すことになる。そして、そのような記憶の喚起によって、関係性の変化がもたらされることになったのである。


 こんなふうに、潤平が、ある種の豊かさ、非常に豊かな鉱脈を発見することができるのは、ただ単に、彼が猫たちのネットワークに介入することができるようになったからである。そして、重要なのは、猫たちのネットワークが普通の人間にとっては不可視なものになっているという点である。つまり、高坂潤平は、不可視のネットワークに介入することによって、見かけ上、あたかも、これまでとはまったく異なる人格を獲得したかのような振る舞いをすることになる。「まったく異なる人格」というのが言い過ぎだとしたら、彼は自身の人格の幅を広げることになった、というふうに言ってもいいだろう。


 いずれにしても、このような振る舞いの変化が、人間関係の変化をもたらすことになるというのが、この作品のポイントであるように思う。そして、そこでの変化は、外部からもたらされたものではなく、すでにその関係性のうちに潜在的な可能性として備わっていたものと考えられるのだ。


 こういう文脈において、僕は、この『にゃんこい』という作品が『夏目友人帳』と非常によく似た方向性に向かっている作品だと思っている。『夏目』と比較してちょっと気になるのはタイムスケールの問題である。『夏目』において、妖怪たちのタイムスケールは人間たちよりも非常に大きなものだった。これに対して、猫のタイムスケールは人間たちよりも小さい。このようなタイムスケールのギャップが視点の変化、世界を捉える視点の変化をもたらすことになるわけだが、『にゃんこい』においては、こうした視点の変化がどのような形で描かれることになるのか。こうした点がちょっと気になるところである。

Twitterを始めてみた

 何となく新しい刺激がほしくて始めてみた。今はまだ試行錯誤の段階だけど、個人的にはそこそこ良い感じ。
 何というか、mixiとかと比べると、他人との関係性が非常に緩そうなので、そういう緩い繋がりというのは、ひきこもり体質の僕としてはなかなか悪くないかなあ、と。関係が密になると、いろいろときつくなることがあるので。


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